百八十話
百八十話
180-1
元に戻った、という言い方は正確ではない。
戻ったのは輪郭であって、中身ではない。駅前のガラスはもう張り替えられている。潰れた案内板は新しい塗装を受け、歩道脇の仮設柵も半分以上は外された。路面電車は時刻通りに来る。巡回の憲兵は所定の人数で歩き、市場の値札も、昨日と今日を見分けられる程度には落ち着いている。
人間は、そういうものを見る。
割れていない窓。折れていない電柱。予定通りに鳴る発車鈴。列を作る理由が配給ではなく乗車券であること。紙の数字が揃っていること。社会が壊れていない証拠を、人はだいたい物の方に求める。
だから、一見すれば、帝都は静かだった。
静かだったのだ。誰も叫んでいない。どこも燃えていない。空から何も落ちてこない。地面も、今日は、人の足を裏切らない。
そのはずなのに、朝の駅前広場を横切る人間たちの歩幅だけが、まだ半歩ずつ短かった。
列の詰め方が、微妙に甘い。前の人間の背に近づきすぎない。横断歩道の白線を渡る時、信号が青でも、一度だけ空を見る。工事現場で鉄骨が鳴ると、振り返る人間が三人はいる。子供が走ると、その母親の手が必要以上に強く引かれる。
都市の傷は、街路には残らない。
残るのは、人間の身体の方だ。
怖かった場所を忘れても、怖かった時の筋肉だけは忘れない。人は理屈より先に縮む。理性より先に、肩が上がる。東都の夜が終わっても、終わっていないのは、だいたいそういうところだった。
「今日は南区の搬送、もう解除でいいんですかね」 「解除は解除だ。だが看板は残せ。消すと苦情より先に不安が来る」
交番前で制服警官がそう言い、若い巡査が頷いた。
「不安って、看板が減る方に来るんすか」
「来る。人間まだ対処している形に安心する。終わりました、の方が怖い時もある」
それは警察官にしては妙に良い言葉だった。
おそらく、ここ一月で覚えたのだろう。大事件の後、人は余計な知恵を付ける。付けざるを得ないからだ。
帝都は、その余計な知恵を、街のあちこちに薄く貼り付けたまま朝を始めていた。
市場もそうだ。
威勢のいい売り声は戻った。魚は並び、根菜は積まれ、包丁の音もする。だが、値切りの声だけが少し弱い。客は品物を見る前に、まず周囲を見る。売り手は売り手で、客の目の置き場所を見る。何かあれば逃げる方向を、先に無意識で測っている。
戦が終わった後の平穏は、平穏ではない。
それは「次がまだ来るかもしれない」と知った人間たちが、とりあえず仕事を再開している状態を、外からそう呼んでいるだけのことだ。
帝都はちゃんと朝だった。 朝だったからこそ、その薄さが目立った。
近衛庁舎へ向かう公用車の窓から、その景色を紺野健太郎は黙って見ていた。
隣では羽場桐妙子が、膝の上の書類束を崩さないまま頁をめくっている。紙の音は薄い。車内は静かだ。静かだが、気まずくはない。気まずさというのは、もっと互いに個人を気にしている時に出る。今の二人は、互いの個人を気にしていないのではなく、気にするには見えているものが多すぎた。
「南区の補修進捗、予定より早いですね」
羽場桐が書類から目を離さずに言った。
「表の数字はだろ」
「はい。表の数字です」
妙子はそこで初めて視線を上げ、窓の外を見た。
「ですが、良い傾向ではあります。街の顔を保てるのは、悪いことではありません」
「顔だけ保てりゃ、だいたい何とかなるって話か」
「国家運営の半分くらいは、そういうものです」
少しだけ口角が動いた。笑ったのではない。笑う形に近い場所まで、筋肉が一瞬行って、戻っただけだ。
紺野は、外へ目を戻した。
元の顔をした街。 元に戻っていない人間。
それは、他人だけの話ではなかった。
自分が戻ったかと問われれば、答えは出ない。東都の夜は終わった。園業律心斎は閉じ込められた。珠洲原陽鳥は生きていて、自分も生きている。御親領衛は潰れていない。荒臣は相変わらず一席で、羽場桐は相変わらず書類の山に立っている。
形だけ見れば、何も失っていないようにすら見える。
だが、人間は、形だけでは測れない。
失わずに済んだものほど、手の中で扱いに困る。壊していないから許されたわけではない。喰っていないから無害になったわけでもない。止まったから終わったわけではなく、止められたから解決したわけでもない。
隣席で紙を捌く音が、規則正しく続く。
羽場桐妙子は、たぶん戻っている。 いや、違う。戻っているのではない。この女は、戻る場所を最初から自分の足元に持っている。だから崩れている人間の横に平然と立てる。あれは強さというより、秩序の性質だ。
「紺野少尉」
「何だ」
「本日午後、東都関連の報告整理が終わりましたら、夜の予定を一つ空けておいてください」
紺野は視線を外へ向けたまま答えた。
「仕事か」
「形式的には、はい」
「形式的じゃない方は」
「行ってみれば分かります」
妙子はそれ以上言わない。
この女がそこで口を閉じる時は、だいたい理由が二つある。説明の必要がない時か、説明してもまだ意味がない時だ。今はたぶん後者だった。
車は近衛庁舎の前で止まった。
門の警備兵が、車体番号を見、妙子の階級章を見、最後に紺野の顔を見て、ほんの一瞬だけ呼吸を詰めた。すぐに戻す。訓練された兵士だ。だが、戻したこと自体が、まだ人間の側に東都が残っている証拠だった。
紺野はそれを責めなかった。 責められる筋合いでもない、とも思わない。
ただ、そういうものだと思った。
自分もまた、街の方へ似た目を向けている自覚があったからだ。
180-2
近衛御親領衛の詰所は、いつも通り散らかっていた。
散らかっている、という言い方も少し違う。あそこは秩序が無いのではない。秩序が、それぞれ別方向を向いて同時に存在しているだけだ。
羽場桐の机の上だけが軍の書式通りで、荒臣の執務机は必要書類が必要位置にだけ積まれ、宗一の棚は現場資料と地図の区分が異様に几帳面で、高倉源三の隅だけはなぜか野菜の匂いがする。
樋道芳芙美の周囲は意図的に散らかっていて、志摩龍二の椅子の背にはやたらと派手な上着が掛かっている。
三つ子の筆記具は三人分なのに一塊で、支倉真名の鞄だけが妙に場違いに上等だ。
全員が全員、自分のやり方でここを「仕事場」にしている。
それで回るのだから、国家というのは案外雑だ。
「帰りましたか、2人共」
妙子が先に入り、紺野が少し遅れて詰所へ踏み込むと、真っ先にそう言ったのは宗一だった。
護国宗一は立ち上がる必要のない距離でも一度姿勢を正す。礼儀というより、彼にとっての戦闘準備に近い。
「何も増えてないか?」
「増えてますよ。書類が」
「それは見れば分かる」
樋道がソファから顔だけ起こして笑った。
「やだなあ、紺野少尉。開口一番が色気なさすぎ。もっとこう、みんな元気してた?とかあるでしょ」
「お前らは元気じゃない方が怖い」
「うわ、分かってるじゃん」
真名が机の向こうで溜息をついた。
「樋道准尉、少しは静かにしてください。帰ってすぐ騒音だと、誰でも嫌になります」
「真名ちゃん、それ褒めてるのか怒ってるのどっち」
「半々です」
高倉が帳場用の古い眼鏡を押し上げる。
「半々で済んでるだけありがてえと思え。俺だったら八割怒ってる」
「高倉さんの二割の優しさ、重すぎない?」
「お前に配る分はねえよ」
角の方では三つ子が、紺野に気付いて手を振った。
「紺野少尉、おかえりなさい!」
「おかえりー」
「お土産は?」
「ねえよ」
「えー」
「そこは生きて帰ってきてくれてよかったとかじゃないのか」
「それはもう確認済みだもん」
「確認済みで済ますな」
やり取りだけ見れば、何も変わっていない。
何も変わっていないように、見える。
だが、変わっていないのは台詞の形だけだ、と紺野は思った。
東雲丈雲の席はまだ空いていた。空いているというより、空いているように扱われている。誰もそこに物を置かない。誰もそこへ自然に視線を流さない。空席は人間の不在を示すが、本当に重いのは、そこへ周囲が作法を覚えてしまうことだ。
志摩龍二はその空席の近くで椅子を傾けていたが、今日は珍しく足を机に乗せていなかった。
目が合う。
「あんまり見んなよ、紺野少尉」
「見てねえよ」
「いや、見てたろ。分かるって。そういうの」
志摩は鼻で笑い、それから少しだけ声を落とした。
「空いてんの、うるせえんだよな」
時代錯誤の不良みたいな見た目のくせに、こいつは時々、言葉を変に正確な場所へ置く。
空席は、うるさい。 それはかなり正しい。
存在しないものは静かだが、不在は静かではない。誰かが抜けた場所というのは、そこにいない人間の輪郭だけが周囲の視界を削り続ける。喋らないくせに、ずっと主張している。
「東雲大尉の件、正式な辞令はまだです」
羽場桐が自席に鞄を置きながら言った。
「分かってる」
「分かっていることと、口にして揃えることは別ですので」
机上の書類を一度だけ整え、妙子は詰所を見渡す。
「現時点での運用は従来通りです。東雲大尉の席には、誰も何も置かないこと。三木さん達もです」
「はーい……」
「返事だけ素直なんだよなお前ら」
「宗一おにいちゃん今ちょっと寂しそう」
「そんな事はありませんよ」
綾瀬は窓際の位置から振り返りもせずに言った。
「兄さん、寂しいなら寂しいで構いませんが、三木さんが調子に乗るので顔に出さないでください」
「綾瀬」
「事実を言っただけです」
棘のある声は平常運転だったが、その棘の立て方が少しだけ変わっていた。以前の綾瀬なら、もっと早く、もっと正確に相手を刺しただろう。今はまず言葉を選んでから刺している。丸くなったのではない。刃を研ぐ角度が変わったのだ。
それを見て、宗一も特に反論しない。 この兄妹は、変わっていないようで、やはり変わっている。
「珠洲原主任は?」
紺野が訊くと、答えたのは真名だった。
「さっきまで地下にいましたよ。戻るって言ってたから、もう来ると思う」
「戻るで済ませるには嫌な場所だな」
「ここにいる人たち、だいたいそういう場所から戻ってきますけど」
それも、かなり正しい。詰所の扉が開いた。
珠洲原陽鳥は白衣ではなく、軍の支給品でもない地味な上着を羽織っていた。技術研究開発局の主任としても、御親領衛の外部顧問としても、どちらにも寄り切らない格好だ。あれは所属を曖昧にするためではない。どちらにも所属しているから、片方の顔だけで来ないという意思表示に近い。
陽鳥は室内を一度だけ見渡し、紺野で視線を止めた。
「戻ったか」
「見れば分かるでしょ」
素っ気ない。だが、素っ気ないだけで済ませるには、声が少し低かった。
陽鳥はそのまま近づきもせず、妙子へ何枚かの紙を渡した。
「地下の安定値。今のところ問題ない」
「ありがとうございます、珠洲原主任」
「今のところって何だ。言葉を抜くなよ」
そこで紺野が口を挟む。
「何の安定値だ」
「健ちゃんが今聞く必要のないやつ」
「なら、最初からここで言うな」
「聞こえる場所で言うのと、理解できるのは別でしょ」
言い返しかけて、紺野はやめた。
陽鳥の言葉は冷たい。だが、冷たさの方向が以前と少し違う。隠すための冷たさではなく、手順を守るための冷たさに近い。あれは距離を取っているのではない。近づきすぎないよう、自分で線を引いている時の声だ。
だから余計に、厄介だった。
「紺野少尉」
今度は羽場桐だった。
「午後の整理が終わったら、少し外へ出ます」
「一人でか」
「いえ。あなたとです」
「命令か」
「お願いでもあります」
羽場桐がそう言う時は、だいたい命令より重い。
紺野は椅子を引き、机上の報告書へ手を伸ばした。
東都の損耗一覧。近衛の再配置。対神術師事案の仮処理規定改訂。警察・憲兵・近衛の連携手順見直し。市民向け広報の文案。慰問、補償、封鎖解除、危険区域再定義。
終わった戦の後に並ぶ紙は、だいたい人間の良心の形をしている。
壊れたものを数え、失ったものを名前にし、責任を行き先付きで整理し、次に同じことが起きた時のために箱を作る。そういうものを、人は文明と呼ぶ。呼んでおかないと、あまりに虚しいからだ。
紺野は最初の報告書を開いた。
横では陽鳥が地下の数値に目を通し、宗一が現場地図へ追記を入れ、綾瀬が窓の外を監視し、志摩は黙って椅子を揺らし、高倉が帳場の数字に眉を寄せ、真名が誰かの苛立ちを丸めるように場をならし、樋道はその丸まった空気の端をわざと指でつつき、三つ子は三人で一つの消しゴムを奪い合っている。
詰所は、動いていた。
戻っていない者たちから先に仕事をする。 それがたぶん、この組織の平常だった。
180-3
日が落ちる頃、帝都の灯りはちゃんと点いた。
ちゃんと点くというのは、平和の証拠みたいに見える。だが実際には、それを支える様々な労力の上に載っているだけだ。都市の明かりは希望ではなく、だいたい誰かの残業でできている。
その現実が分かる人間ほど、夜景を無邪気に綺麗とは言わない。
庁舎を出た紺野は、階段の下で待っていた羽場桐に気付いた。
軍帽を外している。珍しいことではないが、あの女は帽子のあるなしで印象がほとんど変わらない。整い方が、最初から軍の書式に近いからだ。
「待たせたか」
「いいえ。私も今来たところです、と言うような使わない主義ですので、少し待ちました」
「変なところだけ律儀だな」
「変なところだけではありませんよ」
それはそうだろうと思ったので、紺野は頷かなかった。
妙子は歩き出す。紺野も並ぶ。庁舎の正面通りはまだ人通りがある。帰宅する軍属、仕事帰りの役人、屋台の灯り、遠くの駅へ吸い込まれていく列。誰もが日常の顔をしている。しているが、その日常の作り方を一度見てしまった人間には、少し薄い。
「どこへ行く」
「南区です」
「骨董屋か」
「察しが良くて助かります」
「中尉が形式的なお願い、なんて言う時点で、数は限られるだろ」
妙子は少しだけ目を細めた。
「正式なお礼と、顔見せです」
「礼を言う相手か、あの女が」
「礼を言う必要がある相手かどうかと、礼を言うべき相手かどうかは、別です」
「で、本当の理由は」
紺野がそう訊くと、妙子は数歩だけ沈黙した。
庁舎前の街路樹の影が、二人の足元を横切って流れる。夜の帝都は明るい。明るいから、影がよく見える。
「……見ておいた方がいいと思ったんです」
やがて羽場桐は言った。
「何を」
「まだ言葉になっていないものを、です」
「雑だな」
「はい。ですが、今はそれで十分だと思っています」
妙子はそこで紺野を見た。
「街は戻ります。戻ろうとします。国家はそういう形を作るのが仕事です。けれど、戻る前に一度だけ見ておかないと、次に何を壊し、何を残すかの判断を、また形だけでやることになります」
紺野は少しだけ眉を動かした。
「中尉、今日はよく喋るな」
「閣下の影響かもしれません」
「それは、嫌な影響だな」
「否定はしません」
それから羽場桐は、前を向いたまま続けた。
「東都の夜は終わりました。ですが、終わったことと、片付いたことは別です。たぶん今夜見るのは、その“別”の方です」
その言い方は、奇妙に正しかった。
戦いには、終わりがある。 判決にも、結果がある。 死にも、停止にも、線は引ける。
だが、人間がそれを片付いたこととして受け取るまでには、いつも別の時間がかかる。もっと嫌な言い方をすれば、片付いたと勘違いできるまでに必要な時間がある。
帝都は今、その勘違いを始めようとしていた。
だからこそ、見ておいた方がいい。
何が残り、何が残ってしまったのかを。
二人は南区へ向かう電車に乗った。
窓の外で、帝都の灯りが線になって流れていく。人の営みは、遠くから見るとだいたい綺麗だ。細部を知らなければ、なおさら綺麗に見える。
紺野はその線を見ながら、ふと、自分でも理由の分からない違和感を覚えた。
白い、と思った。
何が白いのかは分からない。窓に反射した街灯かもしれない。車内広告の端かもしれない。誰かの襟元かもしれない。見間違いで済む程度の、ごく薄い感覚だ。
それでも、視界のどこかに、一度だけ、白いものがいた気がした。
瞬きをすると消えていた。
「どうしました」
羽場桐の声に、紺野は首を振る。
「……何でもない」
「そうですか」
羽場桐は追及しなかった。
電車は次の駅へ滑り込む。 帝都の夜は、秩序だった速度で進んでいく。
壊れていないように見える街。 戻っていないまま働く人間。 まだ名もない違和感。
その全部を乗せたまま、車両は南区へ向かう。




