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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
番外章 ニライカナイ 未来彼方
181/193

百七十九話 静かな帝都


百七十九話


179-1 静かな帝都



帰還というものは、出立の時よりむしろ人の輪郭を露骨にする。


行きと同じ距離を戻った。

南の海を越え、古い島影を後ろへ送り、補給拠点で一度だけ足を止め、さらに空路へ乗り換えて都へ向かう。


だが帰路の方が長かった。

実際の時間の話ではない。人が何かを持ち帰った時、距離はいつも行きより重くなる。帝都から海の向こうへ千二百キロあまりを下った時より、そこから帝都へ戻る方が、ずっと身体の内側を使う。


夕方、近衛の飛行場へ機体が降りた。


風は乾いている。

南海の湿りをまだ衣服のどこかへ残しながら、四人はタラップを下りた。紺野健太郎が最初に地面へ足をつける。右肩の傷は塞がりきっていない。だが歩幅に迷いは無い。迷いが無い代わりに、以前より一歩ぶんだけ慎重だ。


その後ろに珠洲原陽鳥。荷は少し増えた。調律師として与えられた小さな道具の幾つかを、そのまま持ち帰ることはできなかった。できなかったのに、手元に何かが残っているような仕草だけが抜けていない。


護国綾瀬は最も乱れが少ない。外から見れば、行きより帰りの方がきれいだ。だが、その整い方の奥に、以前より少しだけ視線の幅がある。道を見る目が、人だけでなく“場の理屈”まで拾うようになっていた。


最後に硯荒臣が降りる。黒の外套、白基調の軍装、少女の輪郭。見た目だけなら何も変わらない。だが、変わっていないと断言するには、その一歩一歩があまりにも静かだった。


飛行場の端に、羽場桐妙子が立っていた。


迎えに来た、というより、受け取るためにそこへ在る顔だ。

軍帽も外套も、いつも通りに整っている。東都戦後から積み上がった書類の山も、帝都側で押し返し続けていた雑務も、全部一度この人の身体を通っているはずなのに、羽場桐の姿だけは乱れが少ない。

副官というものは、待っている時ほど輪郭が硬くなる。


四人が近づく。

羽場桐はまず紺野を見た。次に陽鳥。綾瀬。最後に荒臣。

見る順番に意味はない。だが最後だけ少しだけ長い。


「お帰りなさいませ」


挨拶は平坦だった。

平坦だが、薄くもない。戻った四人へ必要なだけの温度を、過不足なく置く声だ。


荒臣が答える。


「ただいま戻った、妙子」


声音は普段通りに近い。

近いが、羽場桐はそこでほんの僅かに睫毛を動かした。紺野も、陽鳥も、その変化には気づかなかった。

羽場桐だけが知っている。硯荒臣の“いつも通り”には細かい手順がある。今の返答は、その手順がいつもより一拍だけ丁寧だった。


「帝都側に大きな異常はありません」


羽場桐は言う。


「東都関連の後処理は相変わらず不快ですが、閣下が今すぐ首を刎ねるべき案件は二、三件に留まっています」


陽鳥が、そこでほんの少しだけ笑った。


「妙子ちゃんの『二、三件』って、多分全然平和じゃないわよね」

「比較の問題です」


返答はいつも通りの羽場桐だ。

だが、そのあとに彼女は一度だけ荒臣を見た。問いかけはしない。表情も崩さない。

それでも十分だった。


おかえりなさい、の後ろに、別の確認がある。

まだ今の閣下でいられますか。

その問いを、羽場桐は口に出さずに置く。

荒臣はそれを受け取ったのだろう。

口元をわずかに歪める。


「安心しろ。道中で魔王のまま都を簒奪する気にはならなかった」

「そうですか」


羽場桐は即答した。


「では一日目としては上出来です」


紺野は鼻で息を吐く。

いつものやり取りに見える。見えるが、今の応酬のどこかに、外からでは分からない継ぎ目があるのを感じた。


荒臣は戻った。

だが、ただ戻ったのではない。

羽場桐が今ここで受け取っているのは、同じ上官ではなく、“海の向こうを経由した今の荒臣”なのだと、遅れて理解する。


179-2


近衛本部へ戻る道のりは短い。


飛行場から本部までは、都の外縁をかすめて入るだけだ。道路も、門も、警備の配置も、見慣れている。

見慣れているはずの帝都は、なのに少し狭く見えた。


東都戦のあとから続いていたあの“静かすぎる”感じが、今は別の形で都市へ被さっている。海の向こうを知った目で見る帝都は、以前よりはっきり人間の都だった。


書類は増える。値は上がる。列車は遅れる。兵は眠り、役人は言い換えを考え、市井は昨日の怪物より今日の飯を気にする。


不完全だ。雑だ。

だからこそ、生きている。

本部棟の前で、羽場桐は一行を止めた。


「先に医務棟へ行く必要がある方はいらっしゃいますか」

「私は後で」


陽鳥が答える。

綾瀬は首を振る。

紺野も同じ。

荒臣は何も言わない。

羽場桐はそれを確認してから、短く頷いた。


「では執務室へ。報告は簡潔で結構です。今夜のうちに全部を吐き出そうとすると、こちらの整理が間に合いません」 

「珍しく弱音ね」


陽鳥が言う。


「弱音ではありません」


羽場桐の返答は平坦だ。


「現実の都合です」


本部棟の廊下を歩く。

三木姉妹たちの声が遠くで一瞬だけ聞こえ、東雲の咳払いが別の部屋から混じり、高倉が誰かに野菜の値段の話をしている。


御親領衛の日常だ。

壊れていない。だが、以前のままでもない。

執務室へ入ると、紙の匂いがした。

海の匂いの後では、紙の匂いは妙に安心する。安心するくせに、息苦しい。


羽場桐は席につかず、四人を順に見た。


「……変わりましたね」


最初にそう言ったのは、彼女だった。

責める口調ではない。観測の口調だ。外にいた者だけが言える言い方だった。

陽鳥が薄く笑う。


「そんなに分かりやすい?」

「ええ」


羽場桐は即答する。


「特に閣下は」


室内が一段だけ静かになる。

荒臣は椅子に腰掛ける前に、羽場桐を見た。


「どう見える」

「強くなった、とは見えません」


羽場桐は言う。


「むしろ逆です。外から見る限り、以前より少しだけ“今の閣下”を意識しすぎています」


紺野は視線を上げた。

その言い方は、昨夜の井戸端の会話と同じ場所へきっちり届いている。

荒臣は、そこでわずかに笑った。


「やはりお前は嫌な副官だな」

「閣下にだけ言われたくありません」


返しは即座だった。

だが、そのあと羽場桐は少しだけ声音を落とす。


「ただ」

「何だ」

「崩れた、とは見えません。むしろ、自分の仮面を仮面として把握したまま戻ってきた人の顔です」


陽鳥が、その表現に目を細める。

綾瀬も何も言わない。

羽場桐だけが、外に残っていたからこそ、戻った荒臣のズレを“破綻”ではなく“自覚の増加”として捉えられるのだろう。


荒臣は答えない。

答えないまま椅子へ座り、机上の紙束へ一度だけ手を置く。

それだけで執務室の空気が少し戻る。

海の向こうの魔王ではなく、帝都の荒臣へ。


羽場桐の視線は、次に紺野と陽鳥へ向いた。


「お二人も」


声は平坦だが、どこか慎重だ。


「距離の取り方が変わりましたね」


紺野が眉を寄せる。


「何だそれは」

「以前より、近いのに踏み込みません」


羽場桐は淡々と言う。


「踏み込まないのに、切れてもいない。非常に扱いづらい距離感です」


陽鳥が、そこでようやく本物の苦笑を漏らした。


「妙子ちゃん、言い方」

「事実です」


羽場桐は容赦がない。


「東都戦前は、もっと単純でした。依存、制御、反発、保護欲、そのあたりの言葉で暫定的に括れた。今はそれだけでは足りません」


紺野は視線を外した。

反論しきれないからだ。陽鳥も否定しない。

海の向こうで、止めることと残すことと終わらせることの違いを少し見た。見たからこそ、互いに触れていい場所と触れてはいけない場所が、以前より増えてしまっている。


近くなったのではない。

危険の持ち方が揃ってしまっただけだ。

綾瀬は、最後まで黙っていた。

羽場桐はその沈黙を見て、少しだけ目を細める。


「綾瀬さんは」


呼ばれて、彼女は顔を上げた。


「視野が広くなりました」


綾瀬の眉がほんの僅かに寄る。


「褒めているんですか」

「いえ、評価です」


羽場桐は答える。


「以前は線を見る目が鋭いぶん、線の外側を切り捨てるのも早かった。今は、切り捨てる前に“場そのものの理屈”を一度だけ見ています」


綾瀬は何も言わなかった。

ただ、護国家の娘としてはあまり見せない種類の戸惑いが、ほんの少しだけ口元を緩めた。


179-3


報告は簡潔だった。

海の向こうの村。止まっている森。

役を与えられた遊戯。魔王の印。

終われなかった一撃。保存の国の手つき。


全部を喋ったわけではない。

喋れるわけがない。特に荒臣が聞かされた二千年前の話の深い部分は、まだ三人へも羽場桐へも渡されない。

だが、渡されないこと自体が今は正しいと、羽場桐は聞きながら理解していた。


報告が終わったあと、執務室に短い沈黙が落ちる。

羽場桐が最初に口を開いた。


「今夜は、もう休んでください」

「珍しいな」


荒臣が言う。


「書類を抱えさせないのか」

「抱えさせると、恐らく抱え方が以前と少し違います」


羽場桐は即答した。


「それを確認するのは明日で構いません」


荒臣は少しだけ笑う。


「やはり嫌な副官だ」

「今さらでしょう」


返しは冷静だ。


だが、その返しの中にだけ、ごく薄い安堵があった。

戻った。

完全には戻っていない。けれど、少なくともまだ受け止められる形で戻ってきた。

副官としての安堵は、たぶんその程度の薄さで十分なのだろう。


紺野は席を立つ。続けて陽鳥も立つ。

二人の立ち上がる間合いが、やはり以前より少しだけ似ている。羽場桐はそれを横目で確認し、何も言わない。


綾瀬も弓袋を肩へ掛ける。

彼女の足取りは、行く前よりほんの少しだけ遅い。悪い意味ではない。視界に入るものが増えた分、一歩ごとの測りが増えているのだ。


執務室を出る前、陽鳥が振り返る。


「妙子ちゃん」

「何ですか」

「迎えがいて、少し助かったわ」


羽場桐は表情を変えない。


「当然です」


だが次の一言だけ、声がわずかに柔らかくなる。


「帰ってくる方が、その分楽でしょうから」


陽鳥はそれに返事をせず、小さく頷いた。


紺野は横で何も言わない。

言わないが、その沈黙は以前ほど硬くない。

海の向こうで得た危うい共有が、こういう瞬間にだけ少し薄く役に立つ。


廊下へ出る。

帝都の夜は、ニライカナイの夜と違って空から降りてくる。窓の外で街灯が灯り、遠くで車輪が鳴り、誰かが紙の束を落として小さく悪態をつく。


雑だ。

だから生きている。


179-4


その夜、紺野は屋上へ出た。

 

理由はない。

理由があるような顔で歩きたくなかっただけだ。

海の向こうから戻った帝都の空は高い。高いが、以前より少しだけ薄い。世界の深い層を見たあとでは、都の夜空でさえ“一枚目の空”に見える。

それが良いことかどうかは分からない。


風が吹く。

本部棟の屋上からは、帝都の灯がまだらに見えた。東都ほどではない。だが都としては十分に広い。壊れたまま動くことを続けている都市の灯だ。


紺野は手すりに片手を置き、そこで初めて、自分の身体から海の匂いがかなり薄れたことに気づく。距離はちゃんと戻る。傷は戻らない。だが匂いだけは都市の側が上書きしていく。


「また見た」


声がした。


振り向く前に、背骨だけが先に冷える。

冷たさは知っている。

東都の後、白い夢で会った時のあの同席感。

今度は夢ではない。


本部棟の屋上の縁、夜の空へ背を向けるように、灰の少女が座っていた。


白い。

白いが、以前より輪郭がある。

髪も、睫毛も、服の裾も、夜風に少しだけ遅れて揺れる。人の形に近づいている。近づいているからこそ、余計に気味が悪い。


紺野はすぐには声を出さなかった。

出せなかったのではない。

海の向こうで理解と寄せることの違いを少し見たばかりで、目の前のこの存在へ以前と同じ反応をしたくなかったからだ。


少女は縁に座ったまま、街の灯を見ている。


「静かだね」


その言い方が、ひどく生活の側にある。

だから余計に寒い。


「……お前は、どこにでもいるな」


紺野がようやく言うと、少女は少しだけ首を傾げた。


「いるよ」

「答えになっていない」

「まだ、なるほど増えてない」


言葉は以前より増えた。

増えたくせに、意味の置き方だけはまだ人から半歩外れている。

少女はそこで、初めてこちらを見た。

目がある。目の中に、以前より少しだけ“人を見た数”がある。


「きれいだった?」


問いは短い。


何が、と返したくなる。だが、返す前から分かってしまう。

保存の国。

壊れたまま残されるもの。

止まったまま優しさの顔をする国。

紺野は目を細める。


「綺麗ではあった」

「うん」

「でも、ああいうのは長く見てると腐る」


少女はそれを聞いて、ほんの少しだけ笑った。

笑った、というより、人の笑みに近い形がやっと顔へ宿った。


「えらいね」


その一言が、妙に嫌だった。

褒められた気がしない。試された採点を受けた気がする。


「何がだ」

「帰ってきた」


少女は言う。


「残るの、上手だったのに」


風が、一瞬だけ止まる。


紺野は何も返さなかった。

返せない。

この存在がどこまで知っているのか、何を見ているのか、まだ分からない。分からないまま、海の向こうで見た“残すこと”と、これから自分が向き合うはずの“終わらせること”だけが、一つの線で薄く繋がる。


少女は縁からすっと立ち上がった。

足音はない。

ないまま、夜の縁へ少しだけ近づく。


「またね」


振り向きざまに、それだけ言う。

次の瞬間には、もういなかった。

消えたのではない。

最初からそこに座っていたかどうかすら曖昧になる、この国の夜に似た消え方だった。


紺野はしばらく動かなかった。

帝都の灯は遠い。

風が戻る。

手すりの冷たさだけが、今ここが現実だと教える。


保存の国から帰ってきた。

けれど、帰ってきた先の都にも、既に別の深層の気配がある。

終わらせるもの。

残すもの。

理解すること。

そして、まだ名を与えきれないまま、自分の方へ近づいてきている白いもの。


帝都の夜は静かだった。

だが、ただ静かなだけではない。

問題は何ひとつ片づいていない。

海の向こうで見たものを抱えたまま、この都もまた、次の重力へ少しずつ引かれ始めていた。



番外章終了


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