百七十九話 静かな帝都
百七十九話
179-1 静かな帝都
帰還というものは、出立の時よりむしろ人の輪郭を露骨にする。
行きと同じ距離を戻った。
南の海を越え、古い島影を後ろへ送り、補給拠点で一度だけ足を止め、さらに空路へ乗り換えて都へ向かう。
だが帰路の方が長かった。
実際の時間の話ではない。人が何かを持ち帰った時、距離はいつも行きより重くなる。帝都から海の向こうへ千二百キロあまりを下った時より、そこから帝都へ戻る方が、ずっと身体の内側を使う。
夕方、近衛の飛行場へ機体が降りた。
風は乾いている。
南海の湿りをまだ衣服のどこかへ残しながら、四人はタラップを下りた。紺野健太郎が最初に地面へ足をつける。右肩の傷は塞がりきっていない。だが歩幅に迷いは無い。迷いが無い代わりに、以前より一歩ぶんだけ慎重だ。
その後ろに珠洲原陽鳥。荷は少し増えた。調律師として与えられた小さな道具の幾つかを、そのまま持ち帰ることはできなかった。できなかったのに、手元に何かが残っているような仕草だけが抜けていない。
護国綾瀬は最も乱れが少ない。外から見れば、行きより帰りの方がきれいだ。だが、その整い方の奥に、以前より少しだけ視線の幅がある。道を見る目が、人だけでなく“場の理屈”まで拾うようになっていた。
最後に硯荒臣が降りる。黒の外套、白基調の軍装、少女の輪郭。見た目だけなら何も変わらない。だが、変わっていないと断言するには、その一歩一歩があまりにも静かだった。
飛行場の端に、羽場桐妙子が立っていた。
迎えに来た、というより、受け取るためにそこへ在る顔だ。
軍帽も外套も、いつも通りに整っている。東都戦後から積み上がった書類の山も、帝都側で押し返し続けていた雑務も、全部一度この人の身体を通っているはずなのに、羽場桐の姿だけは乱れが少ない。
副官というものは、待っている時ほど輪郭が硬くなる。
四人が近づく。
羽場桐はまず紺野を見た。次に陽鳥。綾瀬。最後に荒臣。
見る順番に意味はない。だが最後だけ少しだけ長い。
「お帰りなさいませ」
挨拶は平坦だった。
平坦だが、薄くもない。戻った四人へ必要なだけの温度を、過不足なく置く声だ。
荒臣が答える。
「ただいま戻った、妙子」
声音は普段通りに近い。
近いが、羽場桐はそこでほんの僅かに睫毛を動かした。紺野も、陽鳥も、その変化には気づかなかった。
羽場桐だけが知っている。硯荒臣の“いつも通り”には細かい手順がある。今の返答は、その手順がいつもより一拍だけ丁寧だった。
「帝都側に大きな異常はありません」
羽場桐は言う。
「東都関連の後処理は相変わらず不快ですが、閣下が今すぐ首を刎ねるべき案件は二、三件に留まっています」
陽鳥が、そこでほんの少しだけ笑った。
「妙子ちゃんの『二、三件』って、多分全然平和じゃないわよね」
「比較の問題です」
返答はいつも通りの羽場桐だ。
だが、そのあとに彼女は一度だけ荒臣を見た。問いかけはしない。表情も崩さない。
それでも十分だった。
おかえりなさい、の後ろに、別の確認がある。
まだ今の閣下でいられますか。
その問いを、羽場桐は口に出さずに置く。
荒臣はそれを受け取ったのだろう。
口元をわずかに歪める。
「安心しろ。道中で魔王のまま都を簒奪する気にはならなかった」
「そうですか」
羽場桐は即答した。
「では一日目としては上出来です」
紺野は鼻で息を吐く。
いつものやり取りに見える。見えるが、今の応酬のどこかに、外からでは分からない継ぎ目があるのを感じた。
荒臣は戻った。
だが、ただ戻ったのではない。
羽場桐が今ここで受け取っているのは、同じ上官ではなく、“海の向こうを経由した今の荒臣”なのだと、遅れて理解する。
179-2
近衛本部へ戻る道のりは短い。
飛行場から本部までは、都の外縁をかすめて入るだけだ。道路も、門も、警備の配置も、見慣れている。
見慣れているはずの帝都は、なのに少し狭く見えた。
東都戦のあとから続いていたあの“静かすぎる”感じが、今は別の形で都市へ被さっている。海の向こうを知った目で見る帝都は、以前よりはっきり人間の都だった。
書類は増える。値は上がる。列車は遅れる。兵は眠り、役人は言い換えを考え、市井は昨日の怪物より今日の飯を気にする。
不完全だ。雑だ。
だからこそ、生きている。
本部棟の前で、羽場桐は一行を止めた。
「先に医務棟へ行く必要がある方はいらっしゃいますか」
「私は後で」
陽鳥が答える。
綾瀬は首を振る。
紺野も同じ。
荒臣は何も言わない。
羽場桐はそれを確認してから、短く頷いた。
「では執務室へ。報告は簡潔で結構です。今夜のうちに全部を吐き出そうとすると、こちらの整理が間に合いません」
「珍しく弱音ね」
陽鳥が言う。
「弱音ではありません」
羽場桐の返答は平坦だ。
「現実の都合です」
本部棟の廊下を歩く。
三木姉妹たちの声が遠くで一瞬だけ聞こえ、東雲の咳払いが別の部屋から混じり、高倉が誰かに野菜の値段の話をしている。
御親領衛の日常だ。
壊れていない。だが、以前のままでもない。
執務室へ入ると、紙の匂いがした。
海の匂いの後では、紙の匂いは妙に安心する。安心するくせに、息苦しい。
羽場桐は席につかず、四人を順に見た。
「……変わりましたね」
最初にそう言ったのは、彼女だった。
責める口調ではない。観測の口調だ。外にいた者だけが言える言い方だった。
陽鳥が薄く笑う。
「そんなに分かりやすい?」
「ええ」
羽場桐は即答する。
「特に閣下は」
室内が一段だけ静かになる。
荒臣は椅子に腰掛ける前に、羽場桐を見た。
「どう見える」
「強くなった、とは見えません」
羽場桐は言う。
「むしろ逆です。外から見る限り、以前より少しだけ“今の閣下”を意識しすぎています」
紺野は視線を上げた。
その言い方は、昨夜の井戸端の会話と同じ場所へきっちり届いている。
荒臣は、そこでわずかに笑った。
「やはりお前は嫌な副官だな」
「閣下にだけ言われたくありません」
返しは即座だった。
だが、そのあと羽場桐は少しだけ声音を落とす。
「ただ」
「何だ」
「崩れた、とは見えません。むしろ、自分の仮面を仮面として把握したまま戻ってきた人の顔です」
陽鳥が、その表現に目を細める。
綾瀬も何も言わない。
羽場桐だけが、外に残っていたからこそ、戻った荒臣のズレを“破綻”ではなく“自覚の増加”として捉えられるのだろう。
荒臣は答えない。
答えないまま椅子へ座り、机上の紙束へ一度だけ手を置く。
それだけで執務室の空気が少し戻る。
海の向こうの魔王ではなく、帝都の荒臣へ。
羽場桐の視線は、次に紺野と陽鳥へ向いた。
「お二人も」
声は平坦だが、どこか慎重だ。
「距離の取り方が変わりましたね」
紺野が眉を寄せる。
「何だそれは」
「以前より、近いのに踏み込みません」
羽場桐は淡々と言う。
「踏み込まないのに、切れてもいない。非常に扱いづらい距離感です」
陽鳥が、そこでようやく本物の苦笑を漏らした。
「妙子ちゃん、言い方」
「事実です」
羽場桐は容赦がない。
「東都戦前は、もっと単純でした。依存、制御、反発、保護欲、そのあたりの言葉で暫定的に括れた。今はそれだけでは足りません」
紺野は視線を外した。
反論しきれないからだ。陽鳥も否定しない。
海の向こうで、止めることと残すことと終わらせることの違いを少し見た。見たからこそ、互いに触れていい場所と触れてはいけない場所が、以前より増えてしまっている。
近くなったのではない。
危険の持ち方が揃ってしまっただけだ。
綾瀬は、最後まで黙っていた。
羽場桐はその沈黙を見て、少しだけ目を細める。
「綾瀬さんは」
呼ばれて、彼女は顔を上げた。
「視野が広くなりました」
綾瀬の眉がほんの僅かに寄る。
「褒めているんですか」
「いえ、評価です」
羽場桐は答える。
「以前は線を見る目が鋭いぶん、線の外側を切り捨てるのも早かった。今は、切り捨てる前に“場そのものの理屈”を一度だけ見ています」
綾瀬は何も言わなかった。
ただ、護国家の娘としてはあまり見せない種類の戸惑いが、ほんの少しだけ口元を緩めた。
179-3
報告は簡潔だった。
海の向こうの村。止まっている森。
役を与えられた遊戯。魔王の印。
終われなかった一撃。保存の国の手つき。
全部を喋ったわけではない。
喋れるわけがない。特に荒臣が聞かされた二千年前の話の深い部分は、まだ三人へも羽場桐へも渡されない。
だが、渡されないこと自体が今は正しいと、羽場桐は聞きながら理解していた。
報告が終わったあと、執務室に短い沈黙が落ちる。
羽場桐が最初に口を開いた。
「今夜は、もう休んでください」
「珍しいな」
荒臣が言う。
「書類を抱えさせないのか」
「抱えさせると、恐らく抱え方が以前と少し違います」
羽場桐は即答した。
「それを確認するのは明日で構いません」
荒臣は少しだけ笑う。
「やはり嫌な副官だ」
「今さらでしょう」
返しは冷静だ。
だが、その返しの中にだけ、ごく薄い安堵があった。
戻った。
完全には戻っていない。けれど、少なくともまだ受け止められる形で戻ってきた。
副官としての安堵は、たぶんその程度の薄さで十分なのだろう。
紺野は席を立つ。続けて陽鳥も立つ。
二人の立ち上がる間合いが、やはり以前より少しだけ似ている。羽場桐はそれを横目で確認し、何も言わない。
綾瀬も弓袋を肩へ掛ける。
彼女の足取りは、行く前よりほんの少しだけ遅い。悪い意味ではない。視界に入るものが増えた分、一歩ごとの測りが増えているのだ。
執務室を出る前、陽鳥が振り返る。
「妙子ちゃん」
「何ですか」
「迎えがいて、少し助かったわ」
羽場桐は表情を変えない。
「当然です」
だが次の一言だけ、声がわずかに柔らかくなる。
「帰ってくる方が、その分楽でしょうから」
陽鳥はそれに返事をせず、小さく頷いた。
紺野は横で何も言わない。
言わないが、その沈黙は以前ほど硬くない。
海の向こうで得た危うい共有が、こういう瞬間にだけ少し薄く役に立つ。
廊下へ出る。
帝都の夜は、ニライカナイの夜と違って空から降りてくる。窓の外で街灯が灯り、遠くで車輪が鳴り、誰かが紙の束を落として小さく悪態をつく。
雑だ。
だから生きている。
179-4
その夜、紺野は屋上へ出た。
理由はない。
理由があるような顔で歩きたくなかっただけだ。
海の向こうから戻った帝都の空は高い。高いが、以前より少しだけ薄い。世界の深い層を見たあとでは、都の夜空でさえ“一枚目の空”に見える。
それが良いことかどうかは分からない。
風が吹く。
本部棟の屋上からは、帝都の灯がまだらに見えた。東都ほどではない。だが都としては十分に広い。壊れたまま動くことを続けている都市の灯だ。
紺野は手すりに片手を置き、そこで初めて、自分の身体から海の匂いがかなり薄れたことに気づく。距離はちゃんと戻る。傷は戻らない。だが匂いだけは都市の側が上書きしていく。
「また見た」
声がした。
振り向く前に、背骨だけが先に冷える。
冷たさは知っている。
東都の後、白い夢で会った時のあの同席感。
今度は夢ではない。
本部棟の屋上の縁、夜の空へ背を向けるように、灰の少女が座っていた。
白い。
白いが、以前より輪郭がある。
髪も、睫毛も、服の裾も、夜風に少しだけ遅れて揺れる。人の形に近づいている。近づいているからこそ、余計に気味が悪い。
紺野はすぐには声を出さなかった。
出せなかったのではない。
海の向こうで理解と寄せることの違いを少し見たばかりで、目の前のこの存在へ以前と同じ反応をしたくなかったからだ。
少女は縁に座ったまま、街の灯を見ている。
「静かだね」
その言い方が、ひどく生活の側にある。
だから余計に寒い。
「……お前は、どこにでもいるな」
紺野がようやく言うと、少女は少しだけ首を傾げた。
「いるよ」
「答えになっていない」
「まだ、なるほど増えてない」
言葉は以前より増えた。
増えたくせに、意味の置き方だけはまだ人から半歩外れている。
少女はそこで、初めてこちらを見た。
目がある。目の中に、以前より少しだけ“人を見た数”がある。
「きれいだった?」
問いは短い。
何が、と返したくなる。だが、返す前から分かってしまう。
保存の国。
壊れたまま残されるもの。
止まったまま優しさの顔をする国。
紺野は目を細める。
「綺麗ではあった」
「うん」
「でも、ああいうのは長く見てると腐る」
少女はそれを聞いて、ほんの少しだけ笑った。
笑った、というより、人の笑みに近い形がやっと顔へ宿った。
「えらいね」
その一言が、妙に嫌だった。
褒められた気がしない。試された採点を受けた気がする。
「何がだ」
「帰ってきた」
少女は言う。
「残るの、上手だったのに」
風が、一瞬だけ止まる。
紺野は何も返さなかった。
返せない。
この存在がどこまで知っているのか、何を見ているのか、まだ分からない。分からないまま、海の向こうで見た“残すこと”と、これから自分が向き合うはずの“終わらせること”だけが、一つの線で薄く繋がる。
少女は縁からすっと立ち上がった。
足音はない。
ないまま、夜の縁へ少しだけ近づく。
「またね」
振り向きざまに、それだけ言う。
次の瞬間には、もういなかった。
消えたのではない。
最初からそこに座っていたかどうかすら曖昧になる、この国の夜に似た消え方だった。
紺野はしばらく動かなかった。
帝都の灯は遠い。
風が戻る。
手すりの冷たさだけが、今ここが現実だと教える。
保存の国から帰ってきた。
けれど、帰ってきた先の都にも、既に別の深層の気配がある。
終わらせるもの。
残すもの。
理解すること。
そして、まだ名を与えきれないまま、自分の方へ近づいてきている白いもの。
帝都の夜は静かだった。
だが、ただ静かなだけではない。
問題は何ひとつ片づいていない。
海の向こうで見たものを抱えたまま、この都もまた、次の重力へ少しずつ引かれ始めていた。
番外章終了




