百七十八話 未来彼方
百七十八話
178-1 未来彼方
この国が本当に厭らしいのは、帰る者を引き留めないところだ。
朝、海辺へ出ると、昨日まで無かった小さな桟橋があった。以前は無かったはずだ。見落としたのではない。浜は何度も歩いた。白い砂の沈み方も、割れた貝殻の置かれ方も、石段の欠け方も、もう四人とも目に馴染んでいる。
その馴染んだ景色の中へ、今朝だけ桟橋が“あってよい形”で差し込まれていた。
細いが脆くは見えない。白木を組んだようでいて、潮にも風にも削られた様子が無い。沖へ向かって真っすぐ伸び、その先に小さな舟が一艘だけ繋がれている。舟というには静かすぎる。海に浮いているのに、水と擦れる音がほとんどしない。
帰路のための足だ。
そう見える。
そう見えるのに、そこへ“帰路”という言葉を当てた瞬間だけ、意味が半分ほど痩せる。
彼方の主が石段の上に立っていた。
「遊戯は、これでひと区切りです」
声はいつも通り穏やかだ。
穏やかなのに、その一言が“終わり”を告げる響きに聞こえない。ここでは終わりでさえ、次の頁を捲る手順の一つにしか見えない。
荒臣が問う。
「ひと区切り、か」
「ええ。終わりと言ってしまうと、少し語弊があるでしょう?」
彼方の主は微笑む。
「保存の国ですから」
陽鳥が、少し遅れて小さく息を吐いた。
軽い笑いにはしない。もうそういう場ではないと知っている。
「便利な言い方ですね」
「便利ですよ。だから人は、よくそれに寄りかかります」
彼方の主の視線が、四人を一人ずつ撫でる。
見送る者の目ではない。
残ってもよい、と知っている者の目だ。
「舟は、日が傾く頃に向こうへ戻ります」
それだけ言ってから、彼方の主は少しだけ首を傾げた。
「もちろん、乗らなくても構いません」
綾瀬の眉が、そこでわずかに寄った。
紺野も何も言わない。
荒臣だけが、すぐに返す。
「こちらを試しているのか」
「まさか」
彼方の主は否定する。
「この国は、残ることを悪いことだと思っていません。ただ、選べるようにしているだけです」
その“だけ”が、砂より細かく皮膚へ刺さる。
引き留めない。
脅さない。
残ることの甘さも、帰ることの正しさも、どちらも過剰には説かない。
だから厭らしい。
この国では、優しさに見えるものほど人の境界を薄くする。
紺野健太郎は桟橋の先の舟を見た。
たぶん、本当に帰れる。
だがこの国の本当の怖さは、帰れなくすることではなく、“帰らなくてもよい理由”を静かに揃えてしまうことだと、昨日までの数日で嫌というほど知った。
178-2
昼前、陽鳥は一人で村の裏手へ出た。
用があったわけではない。
誰にも言わずに少しだけ視線を外したかっただけだ。紺野が見えるところでも、綾瀬が尖っているところでも、荒臣が平然と不穏なことを言うところでもない、別の静けさが欲しかった。
静けさが欲しい、という時点で、もうこの国の術中に半歩入っている気もしたが、そういう自覚まで含めて少し疲れていた。
村の裏手には、低い石垣と、白い花のついた木がある。花は咲いている。咲いているのに、散る気配だけが無い。風が吹いても、花弁は落ちない。傷んでもいない。咲き続けることそのものが、この国では季節の代わりみたいに見える。
陽鳥は石垣に手を置き、そこで初めて、自分の中に生まれていた考えへ気づいた。
ここなら、止めたままにできる。
紺野を。
自分を。
あの夜の続きを。
東都の空で紺野を止めた時、あれは正しかったと今も思っている。思っている。だが正しかったことと、傷にならないことは別だ。止めた。後悔はしていない。していないくせに、ずっと引きずっている。
この国では“止める”ことが、正しさとも優しさとも違う形で成立している。壊れたものは壊れたまま、危ういものは危ういまま、それでも先へ行かせずに残しておける。
もし紺野をここへ置けば。
いや、置く、という言い方が既に嫌だった。
けれどもし、ここでなら。あの底をまた見ずに済むかもしれない。見たくないし、見たいし、見たら多分また止める。その繰り返しよりは、この国の静かな停滞の方がましに思える瞬間が、ほんの少しだけあった。
「……最悪ね」
声に出す。
自分の考えを、まず自分で嫌うために。
石垣の向こうから、彼方の主の声はしない。
誰も囁かない。
国そのものが誘惑しているのではない。
この国が用意しているのは、“そう考えられるほど静かな条件”だけだ。だから厭らしい。人の弱いところを、外から押さずに、内側から芽吹かせる。
陽鳥は目を閉じる。
止めたまま残す。
それは救いに似ている。
だが、自分が本当に欲しいのは多分、紺野を止めることそのものではない。止めた後に、それでも自分の足でどこへ行くのかを見届けることだ。
そこを奪ってしまえば、止めた意味まで腐る。
「……ええ。駄目よ」
自分へ言う。
確認のように。
石垣から手を離すと、掌に白い粉が少しついた。石は長くここにある。長くあるくせに、風化の手触りだけが少ない。
残るということは、こういうことだ。
変わらずに済むのではない。変われずに、同じ手触りだけが延命する。
陽鳥は踵を返した。
村へ戻る。
戻る理由は大したものではない。紺野の顔を見れば、多分少し腹が立つ。荒臣の顔を見れば、もっと気味が悪い。綾瀬の顔を見れば、まだ尖っているなと思う。
その程度の人間臭さの方が、この国の整い方よりよほどましだった。
178-3
綾瀬は森の入口に立っていた。
止まっている森。
葉擦れの少ない、時間の擦れ方だけが薄く抑えられた森。
昨日はただ嫌悪した。今日も嫌悪はしている。だが、その嫌悪の奥へ別の感情が少しだけ混じる。
理解したい、ではない。
ああ、こういう形の“護り”なら確かに成立するのだろう、という嫌な納得だった。
ここでは出ていかない。
ここでは散らない。
ここでは壊れても、その壊れた形ごと保存される。
護るという言葉を、ここまで露骨に“閉じる”へ寄せれば、たしかに多くのものは失われない。
それが嫌だった。
綾瀬は家のことを思い出す。
護国家。
護ることのために、線を引き、囲い、切り分け、必要なら閉じる家。
兄はそれを知った上で使う。自分はまだ、その言葉を嫌うことでしか距離を取れていない。
けれど、もしこの国の理屈を徹底すれば、護ることは完成する。誰も外へ出さず、外からも何も入れず、壊れた形のまま保存し続ければ、失われる量だけは確かに減る。
「……それは、護っているんじゃない」
綾瀬は低く言った。
森は答えない。
答えないまま、静かに立っている。
その静けさがまた厭らしい。
言い返さないことで、こちらに自分の言葉を何度も反芻させる。
護る。閉じる。残す。停める。
その四つが限りなく近く見える場で、自分が何を嫌っているのかを、自分の口で確かめさせる。
背後で足音がした。
紺野ではない。
陽鳥でもない。
荒臣でもない。
軽いが、わざと軽くしている足音。
振り返ると、白い森の住人の一人が立っていた。
何も言わない。
ただ綾瀬を見る。
その視線は、勧誘でも同情でもない。
“ここに残ることも可能だ”と知っている者の無色のまなざしだ。
綾瀬は視線を逸らさなかった。
「私は」
誰に向けるでもなく言う。
「家を嫌い切れていません。だからこそ、ここは嫌です」
森の住人は、僅かに首を傾げる。
綾瀬は続けた。
「嫌い切れていないものを、そのまま完成形に見せられると、逃げ道が無くなる」
そこで初めて、住人の目が少しだけ細くなった。
理解したのだろう。
そして、理解したところで慰めることはしない。それもまた、この国らしい。
綾瀬は弓を肩へ掛け直し、森へ背を向けた。
閉じれば、守れる。
それは事実だ。
だが、それだけで済ませた瞬間に、人は自分で選び直す権利まで保存の底へ沈める。
綾瀬はそこまで従順ではない。
少なくとも、今はまだ。
178-4
夕方、四人は再び浜に揃った。
桟橋の先の舟は朝と同じ位置にある。
波も変わらず静かだ。
変わっていない。
それ自体が、この国では少し怖い。
彼方の主は石段の上に立っている。
見送りに来た顔ではない。最初からそこにあり、四人がどちらを選ぶかをただ見ているだけの顔だ。
「決まりましたか」
穏やかな問いだった。
紺野は答えない。
陽鳥も。
綾瀬も。
一番先に声を出したのは荒臣だった。
「帰る」
短い。
だが、その短さの中に迷いが無い。
彼方の主は頷く。
「そうですか」
「惜しくはないのか」
荒臣が問う。
「お前は、こちらに残る者が増えても困らぬ顔をしている」
彼方の主は少しだけ考えるように目を伏せた。
それから、静かに言う。
「惜しい、という言葉は少し違いますね。私は、残ることも、帰ることも、それぞれの形だと思っています」
「便利な言い方だ」
「保存の側ですから」
荒臣はそこで、小さく鼻で笑った。
皮肉だ。だが、その皮肉の底に少しだけ乾いた親しさがある。ここ数日で、彼方の主との会話にも独特の手触りが生まれていた。
「私はここには残らん」
荒臣が言う。
「似合うと言われようが、魔王の役を与えられようが、ここで止まるつもりは無い」
彼方の主は答えない。
答えないまま、その先を待つ。
「私は外にも属し切っていない。だが、ここにも属さん」
その一言は、紺野の胸へ少しだけ重く落ちた。
荒臣はどこにも馴染まない。
それは強さの言い換えではない。むしろ逆だ。役に収まりすぎる者が、実はどの役そのものでもあり切れない。その奇妙な孤立。
東屋で聞いた二千年前の話の続きを、彼はまだ三人へ話していない。話していないまま、自分の位置だけは既に知っているようだった。
彼方の主が、そこで初めて荒臣へだけ少し深く視線を置いた。
「当然です」
声音は穏やかだ。
穏やかなのに、その一言だけが妙に冷たく届く。
「今のあなたは、本来の“理解”ではありませんから」
砂浜の風が、一瞬だけ止まったように感じた。
陽鳥が目を細める。
綾瀬の指先が、弓袋の縁を無意識に掴む。
紺野は何も言わない。言わないが、今の一言が“聞いていいものではない”類の重さを持っていると直感で分かる。
荒臣だけが、表情を動かさなかった。
「……続けろ」
短いが、その短さの下で何かがひどく硬くなっている。
彼方の主は視線を逸らさない。
「あなたは作られた人格です。仮初めの整理であり、仮初めの均衡です。今この場で立っているあなたは、確かに硯荒臣でありながら、本来の“理解”の役そのものではない」
誰も口を挟まない。
波の音だけが、やけに遠い。
荒臣は、そこでようやく小さく息を吐いた。
驚きではない。否定でもない。
ずっと自分の輪郭の底で引っかかっていた違和へ、他人の口から冷たい名札を掛けられた時の息だった。
「お前は、どこまで知っている」
「保存の側から見える範囲までは」
彼方の主は答える。
「ですが、それ以上を語るのは私の役ではありません」
「では誰だ」
そこで彼方の主は、ほんの僅かに微笑んだ。
「知りたければ、天帝本人にお聞きなさい」
その言い方には、一片の逃げも無い。
自分は知っている。
だが、ここで自分が答えることではない。
そういう切り方だった。
荒臣の目が、初めて僅かに伏せられる。
その沈黙は長くなかった。だが、今の彼女にとっては十分すぎる重さを持っていた。
「……そうか」
それだけだった。
問い返さない。食い下がらない。
食い下がらないこと自体が、聞いた内容の深さを示していた。
彼方の主は、それ以上はそこへ踏み込まない。
踏み込まないまま、視線を元の穏やかさへ戻す。
「ですから、あなたがここへ残らぬのは自然です。あなたはここに保存されるべきものではなく、まだ向こうで答えを受け取る側ですから」
荒臣は返事をしなかった。
返事をしないまま、目だけで海を見る。
その横顔は静かだ。静かだが、昨日までと同じ仕組みで静かなのではない。
紺野はそこで初めて、自分がこの国に入ってから感じていた“荒臣の半拍の遅れ”が、今ようやく別の言葉へ繋がりかけているのを知る。
作られた人格。仮初めの整理。
それは答えではない。だが、継ぎ目の名前としてはあまりにも重かった。
陽鳥が静かに言う。
「私は残りません」
彼方の主が視線を向ける。
「理由を聞いても?」
「聞いたところで、きれいなものにはなりませんよ」
陽鳥は少しだけ笑った。
薄い笑みだ。だが空回っていない。
「止めたまま残すのは、私には向いています。だからこそ、ここにいると多分、やりすぎる。止めなくていいものまで、全部止める」
彼方の主は頷いた。
「ええ。そうでしょうね」
その肯定に、陽鳥は少しだけ眉を寄せた。
見抜かれている。けれど、今は腹が立つより先に正しさが勝つ。
綾瀬は、石段の下から彼方の主を見る。
「私は残れば、護るという言葉を嫌い切れなくなりそうです」
声は平坦だ。
だが、その平坦さの中にだけ、わずかな熱がある。
「閉じることで守れるものがあると、ここは何度も見せてくる。見せてくるから嫌です。私はまだ、その嫌悪を捨てたくありません」
彼方の主は微笑んだ。
「それで良いのでしょう」
最後に、紺野の番だった。
彼方の主は何も言わない。
待つ。
ここで何を選ぶかは、たぶん最初から分かっているのだろう。分かっていて、なお本人の口から言わせる。そういう国だ。
紺野は海を見た。
穏やかだ。穏やかすぎる。
この国に残れば、危ういものも、壊れたものも、終われなかったものも、みな少しずつ静かになっていく。
自分の底も、もしかするとそうだ。東都の夜のあれも、ここなら“そのまま”残しておけるのかもしれない。
だが、それは理解ではない。
見失わないこととも違う。
ただ、止めるだけだ。
「俺は」
紺野はゆっくりと言った。
「残ったら、多分、分かった気になる」
彼方の主の目が、少しだけ細くなる。
「それが気に入らない」
紺野は続ける。
「分からないまま変わる方がまだましだ。ここは綺麗すぎる。止まったまま答えだけ残る」
その言葉は、自分でも少し意外だった。
上手く言えたわけではない。だが、今の自分にはそれがいちばん近かった。
彼方の主は、しばらく何も言わなかった。
やがて、ごく静かに頷く。
「ええ」
ただそれだけを返す。
肯定でも否定でもなく、こちらの歩幅だけをそのまま受け取る頷きだった。
四人は桟橋へ向かう。
彼方の主は引き留めない。
手も伸ばさない。
だからこそ、この国の怖さは最後まで変わらなかった。
帰れない場所ではない。
いつでも、残してくれる場所だ。
その“優しさ”が、最後の最後まで嫌に静かだった。




