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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
番外章 ニライカナイ 未来彼方
177/193

百七十五話 魔王の役目


百七十五話


175-1 魔王の役目



朝は、村の方が先に決めていた。


夜の獣を退けた翌朝だ。

本来なら、人は助かった後に少しだけ声を大きくする。鍋の湯気が上がり、昨夜の傷を見せ合い、今夜はもう来ないだろうかと半端な希望を口にする。そういう俗な回復が、朝というものにはよく似合う。

だが、この村の朝は違った。


静かだった。

感謝もある。礼もある。だが、そのどれもが昨夜の続きを踏みしめない。助かった人間の喜びではなく、保存された手順の次の頁をめくる時の静けさだった。

村の中央、井戸の脇へ、細長い卓がひとつ運び出されていた。


昨日まで無かったはずだ。無かったはずなのに、“今朝あるべきもの”として最初からそこへ置かれていたみたいな顔をしている。黒でも白でもない板に、浅い器が四つ。乾いた果実、硬いパン、塩、そして小さな鍵のようなものが一つ。


鍵に見える。だが、扉を開けるための形ではない。もっと古い、権利そのものを象る細工だった。

紺野健太郎は、その卓を見た瞬間に嫌な予感を覚えた。


予感の根は単純だ。この国で、何かがちょうどよい顔をして待っている時は、たいてい誰かの役目が先に決まっている。


村の男が、井戸の前で深く頭を下げる。


「どうか、お受け取りください」


言葉は荒臣へ向けられていた。

紺野でも、陽鳥でも、綾瀬でもない。昨夜、実際に最前へ立った者も、罠を組んだ者も、矢を通した者もいる。

なのに村の視線だけは、最初から硯荒臣ひとりへ集められていた。

陽鳥が小さく息を吐く。


「……露骨ですね」


声は柔らかい。だが、少しも軽くない。

綾瀬は村人たちの立ち位置を見ていた。誰が言い出したのか、どうして今朝これがあるのか、その線を無意識に辿っている。


荒臣は卓の前に立ち、鍵めいた小物を見下ろした。


「これは何だ」

「領分の印です」


男は答える。


「村を通った者が次の道へ行くには、魔王のお許しが要ります」


紺野の眉が動く。

許し。

勇者でも剣士でもなく、魔王の。

この遊戯世界は最初から配役の悪趣味を隠していない。だが、隠していないことと、実際にそれが朝の手順として出てくることは別だ。目の前の卓は、役というものがもう遊びの外へ滲んでいる証拠だった。


「受け取らなければ」


綾瀬が先に問う。

男は顔を上げずに答える。


「次の道が閉じます」


答えは簡素だった。

その簡素さにこそ、世界の強制があった。

選択の形をしている。だが実際には、もう配られた役を拒む自由が細く痩せている。


荒臣はそれを聞いて、少しだけ口元を歪めた。


「分かりやすい脅しだ。嫌いではない」

「好きなんですか」


陽鳥が言う。

荒臣は視線を外さない。


「好悪の話ではない。ここまで露骨なら、少なくとも悪趣味を趣味のまま誤魔化してはいない」


彼はそこで、迷わず鍵めいた印へ手を伸ばした。

その所作にためらいがない。

無いこと自体が、紺野には少し不気味だった。


175-2


印に触れた瞬間、井戸の水面が先に揺れた。


風は吹いていない。

人が桶を落としたわけでもない。水だけが、地の底から細い震えを貰ったみたいに円く波立つ。

次いで、村の四方で小さな音が鳴った。扉の蝶番。柵の縄。軒先の鈴。昨日までただの村の生活音だったものが、今だけひとつの手順として並ぶ。


荒臣の手の中の印が、鈍く光る。

強い光ではない。

弱い。むしろ見落としそうなほどだ。だが、その弱さがかえって厄介だった。魔王という役に与えられるのが、派手な威圧でも、明白な力でもないと一目で分かるからだ。


これは権能ではなく、権利に近い。世界の方が“その役の言葉だけ通す”時に使う細い鍵だ。


村人たちは一歩下がった。

恐れているようにも、敬っているようにも見える。だがどちらも少し違う。

もっと機械的だ。村そのものが、魔王の印が誰の手へ渡ったかを確認し、その確認に従って立ち位置を調整したような下がり方だった。


綾瀬が低く言う。


「人が反応しているんじゃありません」

「村の方が先に決めている」


陽鳥が続ける。

その通りだった。

目の前にいる村人たちの意志が薄いという意味ではない。意志の前に、もう盤面の方が“魔王へ印を渡す村”として形を整えてしまっている。


それが気味悪い。

そしてその中心に、荒臣が立っている。

彼は印を持ったまま村人たちを見た。


「次の道はどこだ」


問いは短い。

だが声に、僅かな変化があった。天帝へ向ける丁寧さとも、普段の皮肉とも違う。

命じる者の声音だ。


それも、演じているというより、役に“そう発声しろ”と形を与えられた時の声だった。

村の男は顔を上げ、村外れの森を指す。


「北の森の奥に、閉じた門があります。印を持たぬ者には、ただの崖に見えます」

「持てば」

「開きます」


荒臣は小さく頷く。


「結構」


その一言だけで、村の空気がまたひとつ手順を進めた。


さっきまで“助けられた村”だったものが、今は“魔王に次の門を示した村”の顔へ滑っていく。

紺野はその変化を見て、胸の奥に薄い苛立ちを覚えた。世界の都合に人が従わされているからではない。従わされている世界の中心へ、荒臣があまりにも違和感なく立っているからだ。


陽鳥が、声を抑えて言う。


「嫌ね」


紺野は視線を外さないまま答える。


「何がだ」

「似合っていることよ」


綾瀬が、珍しくすぐに同意した。


「ええ。あまりにも」


それは悪口に近いが、それで済ませられるほど浅くない。魔王の役を与えられ、その役の言葉だけが世界に通る時、硯荒臣は戸惑いも恐れも見せず、ただ少しだけ不機嫌そうにそれを受け取る。

その収まりの良さが、強さよりずっと気味悪かった。


175-3


村を出て北の森へ向かう道で、紺野は荒臣の隣へ並んだ。


陽鳥と綾瀬は半歩後ろを歩いている。二人とも黙っていた。

黙りながら、耳の一部だけはこちらの会話へ向けている。そういう距離だ。


「ひとつ聞く」


紺野が言う。

荒臣は前を見たまま答える。


「許そう」

「許可は要らない」

「そうか。では勝手に聞け」


いつもの荒臣だ。

皮肉があり、言葉の角もある。

だが今の紺野には、その“いつも”すらどこか作り物めいて見える。役が人を押すのではない。人が役へ収まりすぎる時、元から持っていた棘や癖まで“それらしく見える位置”へ整えられてしまう。その感じが、ひどく嫌だった。


「あんた」


紺野は少しだけ言葉を選ぶ。


「嫌じゃないのか」


荒臣が目だけで紺野を見る。


「何がだ」

「魔王とかいう役がだ」


問いは直線だった。

紺野は普段、もう少し回りくどく苛立つ。だが今は回りくどさに意味がないと感じた。

荒臣はすぐには答えなかった。

その沈黙のあいだに、足元の土がきしむ。森の匂いは薄い。昨日見た止まっている森の気配が、今日も先の方で静かに待っている。


「嫌かどうかで言えば、好ましくはない」


荒臣がようやく言う。


「だが、役というものは元来そういうものだ。気に入ったから被るのではない。被らされるから役になる」


紺野は眉を寄せる。


「納得しすぎだろ」

「そう見えるか」

「見えるな」


荒臣は小さく鼻で笑った。


「お前は、役をまだ“自分の外から乗ってくる仮装”だと思っているな」

「違うのか」

「半分は違う」


荒臣の声は低い。

説明している。だが、誰かを教え導くための声音ではない。自分の中で何度も反芻した理屈を、必要なぶんだけ外へ出しているだけだ。


「人は役に押し込められる。だが、押し込められるだけでは済まない。長くその中にいれば、役の方も人の骨格を覚える」


紺野は黙った。

それは、あまりにもこの目の前の人物に似合いすぎる説明だったからだ。

荒臣は続ける。


「剣でも、守護でも、副官でも、隊長でも、魔王でも同じことだ。最初は外から与えられた枠でも、使っているうちに内側がそれに合わせて削れる。削れてなお残るものを、人間の核と呼ぶなら呼べばいい」


「……それは、危ない話に聞こえるな」

「危なくない役などあるものか」


即答だった。


「ただ、危うさに自覚がある役はまだましだ。自分を役そのものだと信じ始めた時が最も醜い」


紺野はそこで、少しだけ息を詰めた。

今の言葉は荒臣自身へも向いている。向いているからこそ、こんなふうに平然と口にできるのかもしれない。


後ろから、陽鳥が静かに言う。


「閣下は、そのましな側にいるつもり?」


荒臣は歩幅を変えない。


「さてな」

「そこは否定しないのね」

「否定できるほど、私は自分を信用していない」


陽鳥は、それ以上は言わなかった。

言わなかったが、その横顔には疲れに似たものが差している。止める者としての癖だ。危ういものに危ういまま整合がついている時、彼女は本能的に一歩引いて観測に回る。


綾瀬が低く言う。


「役を受け入れすぎるのも、一種の弱さです」


荒臣は振り返らないまま答える。


「結構。お前はようやく、少し私に似た悪口を言えるようになってきた」


綾瀬は不快そうに眉を寄せた。


「褒められた気がしません」

「褒めていないからな」


荒臣の返答は早い。


早いが、その速さがかえって皮膚に引っかかる。

この人物は今、自分が何者に見えているかを分かった上で、その見え方ごと扱っている。

それが紺野には、強さよりもずっと危うく見えた。


175-4


森の奥に門はあった。


門、といっても城門のようなものではない。

岩壁の裂け目に見える。二枚の大岩が左右から噛み合い、その真ん中だけが人ひとり通れる程度に黒く沈んでいる。遠目にはただの崖だ。

だが近づくと分かる。崖の顔をしているのに、こちらの足音へ僅かに遅れて反応している。石なのに、待っている。


綾瀬が先に立ち止まる。


「ここです」


荒臣は前へ出た。


手の中の印が、さっきより少しだけ重い。重く見えるのではない。本当に重さが増している。役を受けるとは、こういうことかと紺野は思う。目に見える武器や鎧ではなく、言葉を通す権利の方が先に重くなる。

荒臣が門の前で足を止める。


風が消えた。

森の音も、虫も、葉擦れも、全部が一歩だけ退く。

魔王が役目を果たす時の静けさだと、世界の方が先に察している。


「開け」


荒臣が言った。

それだけだった。

叫びも呪もない。ただ一語。

だが印が光り、岩壁の裂け目が内側からゆっくりと広がる。開くというより、最初から“魔王が来た時だけ道である”ように作られていた部分が、役目に応じて形を戻した。


紺野はその光景を見て、ぞっとした。

強いからではない。

術を使ったからでもない。

配役が似合いすぎる。世界の側が、荒臣の一語を“それでいい”と受け入れる。その成立の仕方そのものが怖い。


門の向こうには、暗い坂道が続いていた。

上りか下りかも一瞬では分からない。空気だけが少し冷たい。先に何かが待っている。

だが今、紺野の意識はそこへ向かなかった。

視線はどうしても荒臣へ戻る。


小柄な背中。白い軍装。黒の外套。魔王の印。

そして、役へ押し込まれてなお、それを“上手く受け取りすぎてしまう”人物の輪郭。

荒臣は門の前で半身だけ振り返る。


「何をしている。入るぞ」


声はいつも通りだ。

いつも通りのはずなのに、紺野にはその“いつも通り”が一番危ないものに見えた。


「……分かってる」


そう返してから、紺野は初めてはっきり自覚した。

硯荒臣は、強い人間なのではない。

強い、だけならまだ扱える。


そうではなく、この人は役に収まりすぎる。剣にも、守護にも、判決にも、そして魔王にも。

そのこと自体が、ひとつの欠け方なのだと。

陽鳥が紺野の横へ並び、門の奥を見ながら低く言う。


「嫌なものを見ましたね」

「今さらだろ」

「ええ。でも、今まででいちばん質が悪い」


紺野は何も返さない。

返せない。

質が悪いという表現が、あまりに正確だったからだ。

綾瀬が最後に門の縁へ指を触れた。


「似合いすぎます」


それは呟きだった。

だが、この場では判決に近い重さを持った。

荒臣はそれを聞こえなかったふりで受け流し、門の向こうへ足を踏み入れる。


紺野、陽鳥、綾瀬も続く。

森は静かだ。門は閉じない。

ただ、四人が暗い道へ消えるにつれて、外の空気だけが一歩ずつこちら側から痩せていった。


魔王の役目は、力を振るうことではない。

盤面に似合いすぎることだ。

その事実だけが、門の向こうへ長く尾を引いていた。


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