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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
番外章 ニライカナイ 未来彼方
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百七十六話 理解の側


百七十六話


176-1 理解の側



門をくぐった瞬間、道は下りに見えた。

だが、実際には違った。


数歩進むだけで分かる。足は下へ落ちていない。地面は沈んでいない。なのに、景色の方だけがこちらより低い場所へ続いている。


坂というものは、本来、身体が先に知る。膝の角度、重心の置き方、足裏の擦れ方。そういうものが先に変わって、「下っている」と人へ教える。

ここでは逆だった。景色だけが、勝手に下っている。


紺野健太郎は剣の柄へ手を置いたまま、白い道の先を見た。


左右は岩壁だ。

ただの岩ではない。何か大きな器が途中で割れ、その断面だけが地表へ突き出したような白い壁。表面には古い亀裂が走り、ところどころに浅い浮彫りがある。人にも、樹にも、波にも見える。だが、どの形も最後の一線で崩されていて、断定させない。


道の先には広場があった。広場というには狭い。祭壇というには開けている。

円形の石床。その中央に、井戸とも棺ともつかぬ縦穴が穿たれていた。

空は見えない。

見えないのに、暗くない。

頭上のどこかに光はある。あるが、差し込む先が見当たらない。白い岩壁と石床だけが、元からその明るさを含んでいたように淡く照っている。


綾瀬が短く言う。


「……嫌ですね」


紺野は視線を外さない。 


「昨日からずっと言ってるな」

「昨日よりずっと明確です」


声は平坦だった。

平坦にしていないと、嫌悪が先に出すぎるからだろう。


陽鳥は道具袋の口を片手で押さえ、広場を見ていた。

観測する目だ。だが、今の彼女の目には職人的な冷たさだけでなく、少しばかり呼吸の浅さが混じっている。


「ここ、静かすぎる」

「そうか」


紺野が答える。

陽鳥は少しだけ眉を寄せた。


「音の話じゃない。盤面が静かすぎるの」


荒臣が一歩前へ出る。


魔王の印は、外套の内でまだ鈍く重い。彼女は広場の中央を見て、わずかに口元を歪めた。


「結構。ようやく終わりが見える場所が出てきたな」

「ありがたくないわね」


陽鳥が言う。


「感謝など期待していない。私は今、かなり正しく気分が悪い」


荒臣の声音には皮肉がある。

だが、その皮肉の底には、昨日までより少しだけ冷たい慎重さが混じっていた。

役に収まりすぎる者は、盤面が役を求めてくる瞬間を誰より先に嗅ぐ。


その時だった。


広場の中央、縦穴の底から、音がした。

水音に似ている。

だが水ではない。もっと重い。

何かが長く沈められ、その沈められた時間ごと持ち上がってくるような、鈍い摩擦音だった。


176-2


最初に見えたのは、手だった。


人の手に見える。

見えるだけだ。指は五本ある。節もある。爪もある。だが、持ち上がり方が人ではない。井戸の底から這い上がってくるというより、“そこに残されていた形”が、また表へ出る順番を与えられたみたいに滑り上がる。


次に肩。頭。胸。

ひとつの人影が縦穴から現れ、石床の中央へ立った。

白い。肌が白いのではない。

衣も、髪も、肉の輪郭も、全部が一度水へ浸して色を抜かれたみたいに淡い。


女にも男にも見える。若くも老いても見える。

ただ、立ち姿だけが異様にきれいだった。剣を持っている。細い長剣。儀礼具に近い。


その刃をこちらへ向けた瞬間、紺野はすぐに分かった。


「こいつ、最初から俺たちを見ていない」


言葉が先に出た。


理由はまだ無い。だが分かる。

目は開いている。こちらへ向いている。なのに、“敵を見る目”が無い。人を斬る前の殺気ではなく、もっと古い動作の続きを再生するような構えだった。


綾瀬の矢が、即座に飛んだ。

速く正確だ。

今の身体でできる限りの最短だった。

だが、矢は白い人影の肩へ届く寸前で、軌道を少しだけ滑った。外されたのではない。肩に“届くはずだった軌道”が、そのまま肩を避ける軌道へ書き換わったみたいに、綺麗に逸れた。


「……は?」


綾瀬の声がわずかに低くなる。

陽鳥は同時に細い札を二枚投げた。

札は人影の足元と肩口で割れ、半拍だけ空気を遅らせる。昨日までならそれで足りた。


だが白い影は、その遅れた空気の中でまるで最初からそう動く予定だったみたいに、刃だけをまっすぐ前へ滑らせる。


紺野が前へ出る。

剣で受ける。軽いはずの刃が想像より重い。いや、重いのではない。

“同じ重さで受けてはならないもの”を、こちらの人間の腕が無理に受けている。


火花が散った。

白い影の剣は、力任せではなかった。

むしろ逆だ。無駄が無さすぎる。殺意ではなく、型の純度だけで斬ってくる。


受けるたびに、紺野の右肩が軋む。以前なら、こういう純度の攻撃に対してはこちらの異常さで押し返せた。今は押し返せない。人間の身体で、人間より一段だけ綺麗な型を受け止めるしかない。


「健ちゃん、離れて」


陽鳥の声が飛ぶ。


「離れると崩れる」


紺野は歯を食いしばったまま返す。


「崩れた方がマシよ。このままだと、正面から削られる」


綾瀬が二射目、三射目を続ける。

白い影は避けない。避けないのに当たらない。こちらの攻撃だけが、相手へ届く直前で“そうではない形”へ少しずつ折られていく。


壊せない。削れない。

荒臣すら、一歩引いた位置から動かない。


「閣下!」


綾瀬が叫ぶ。

荒臣は視線を外さず答える。


「私が前へ出れば、盤面が閉じる」


それだけで十分だった。

魔王の役目が、ここでは介入そのものを制約している。世界の側が“まだお前の手番ではない”と決めている。だから動けないのだ。

気味が悪い。

だが、それをいちばん嫌っているのも多分荒臣自身だった。


白い影の剣が、今度は紺野の脇を浅く裂いた。

熱い。

傷自体は深くない。だが、深くないまま積まれるこの種の斬撃は、今の身体には十分致命へ近い。


「……詰んでるな」


紺野が低く吐く。

陽鳥が答える。


「ええ。普通にやれば」


その時、白い影が一歩だけ引いた。

引いて、剣を胸の前へ戻す。最初の構えに戻った。

戻った、というより、また同じ手順を頭から始めるつもりの動きだった。


そこで紺野は、ようやく確信する。


「違う」


誰に向けてでもなく言った。


「こいつ、戦ってない」


176-3


次の一太刀が来る前に、紺野は半歩だけ退いた。


綾瀬が息を呑む気配。

陽鳥が何か言いかける。

だが紺野はそれを聞かなかった。聞かずに、白い影の剣先を見る。剣先では足りない。肩を見る。腰を見る。足運びを見る。


綺麗すぎる。だからこそ分かる。これは今この場で紺野たちを殺すための剣ではない。もっと前にあった何かの“続き”だけが、保存されたまま繰り返されている。


「お前」


紺野が言う。

白い影は答えない。答えないまま、また踏み込む。

今度、紺野は正面から受けなかった。


半歩だけ斜めへずらし、刃と刃をぶつける代わりに、相手の軌道を横へ流す。

それで分かった。

斬り合っているのではない。白い影の剣は、こちらを越えてその先へ届こうとしている。相手の視線の焦点が、紺野の肩越し、ずっと後ろにある。


「誰を斬ろうとしてる」


問う。

答えは無い。だが、剣の震えが一瞬だけ違った。

陽鳥が、その変化を見逃さなかった。


「……紺野少尉」


声が低い。

観測者の声だった。


「今の、少し変わった」

「変わった、じゃ足りません。僅かに遅れました」


綾瀬が言う。

紺野は白い影から目を離さない。


「こいつを壊すのは、たぶん違う」


「違うからどうするんです」


綾瀬の声は硬い。

責めているのではない。詰んだ盤面の中で次の一手を要求しているだけだ。


紺野は言葉を探した。

探している間にも、白い影はまた最初の構えへ戻る。

戦っているのではない。何か一つの瞬間だけが、終わらないままそこへ留められている。


「……見ろ」


紺野が言う。


「何を」


陽鳥が問う。


「剣じゃない」


紺野は低く続ける。


「こいつが、何を終わらせられずに残ってるのかだ」


その言葉を口にした瞬間、自分の中で何かが少しだけ整う。


東都の夜に自分の底が開きかけた時の、あの嫌な“寄せる”感じではない。

今やっているのは、相手をこちらへ引き込むことではない。

相手が何の形でここへ残されているのか、その輪郭を壊す前に見ることだ。


白い影がまた来る。

紺野は今度、剣を真正面へ出さなかった。

刃を少し下げ、相手の一太刀を自分の剣の腹で“受ける”のではなく、“沿わせる”。


白い剣が滑る。

滑った先で、石床の中央へ刻まれた古い傷跡がひとつ見えた。

人の血で染まったことのある線だ、と直感が告げる。


ここだ。


「こいつ、守ってたんじゃない」


紺野が言う。


「終わらせようとしてる」


陽鳥の目が僅かに見開く。


「終わらせる、相手を?」

「違う」


紺野は首を振る。


「この一撃そのものをだ」


綾瀬が、そこで初めて息を止めた。

理解はしていない。だが、紺野の声が東都の夜とは違うことだけは分かる。

無理に引き寄せていない。押し潰そうともしていない。

見ようとしている。

ただ、それだけで盤面の質が少し変わり始めていた。


紺野は半歩踏み込む。


白い影の懐へではない。

その一太刀が終わるはずだった位置へ。

剣と剣がぶつかる。だが今度は、斬り合いではない。相手の型が向かっていた“終点”へ、自分の刃を先に置く。

一撃は止まらない。止まらないが、初めて“終わり”に届く。


白い影の身体が一瞬だけ静止した。


「……そうか」


紺野の口から、自然に言葉が落ちた。


「ここで終われなかったのか」


白い影の顔が、初めて少しだけ人に見えた。


176-4


それは崩壊ではなかった。


白い影は、砕けない。

消えない。暴れもしない。

ただ、今まで何百回も繰り返していた同じ構えの続きを、初めて持て余したみたいに立ち尽くす。


剣先が、わずかに下がる。

陽鳥はその瞬間を見ていた。

見て、背筋に冷たいものが走る。


東都の夜、自分が止めた紺野の底は、もっと嫌な動き方をしていた。相手の輪郭を呑み込み、自分の側へ寄せる危うさ。触れたものの理由ごと奪ってしまいそうな、あの最悪の傾き。


今、目の前で紺野がやっていることは違う。

相手を壊していない。奪ってもいない。

自分の形へ引き直してもいない。

ただ、“ここで終われなかった一撃”として見て、その終点へ自分の刃を置いただけだ。


陽鳥は低く呟く。


「……違う」


綾瀬が横目で見る。 


「何がです」


陽鳥はすぐには答えない。

言葉にすると、まだ早い気がした。


「前と」


それだけ言う。


綾瀬は問い返さない。

問い返さずに、白い影を見る。

見れば分かる。盤面が変わっている。こちらが押し勝ったのではない。相手の型の方が、“終われる形”をひとつ得たのだ。


白い影は剣を下ろし、紺野を見る。

目がある。初めからあった。だが今ようやく、人の焦点が宿る。

唇が動いた。音は出ない。

けれど意味だけは、かすかにこちらへ伝わる。


――ようやく。


それだけだった。

次の瞬間、白い身体が砂のように崩れる。

崩れる。だが、嫌な崩れ方ではない。

壊れたのではなく、留められていた形が“もう要らない”と判断されて、静かに卓上の塵へ戻るみたいな崩れ方だった。


広場の中央、縦穴の底から、細い光がひとすじだけ上がる。

道だ。

いや、道の方が“続きはある”と示しただけだ。


紺野はしばらく動かなかった。

剣を握ったまま、荒い息だけが肩を揺らす。

弱い身体のままだ。傷も痛む。勝った実感も薄い。

それでも、何か一つだけはっきりしたものが残る。

壊す以外の手が、あった。


それは救いではない。

たった一度の、たまたま通った盤面かもしれない。

けれど、少なくとも東都の夜の底と同じものではなかった。


荒臣が、その後ろで静かに言う。


「悪くない」


紺野は振り返らない。


「褒めてるのか」

「まさか。気味が悪いと言っている」


その声音には、いつもの皮肉があった。

だが今は、その皮肉の底にほんのわずかな本音が混じる。


荒臣も見ていたのだ。

紺野が相手を押し潰さず、呑み込まず、ただ“残されていた形”として見たことを。

綾瀬が弓を下ろす。


「理解した、という顔ではありませんでした」

「理解したんじゃない」


紺野はやっとそう答えた。


「これが何かを見て、終われなかった形に見えただけだ」


陽鳥はその言葉を胸の内で反芻する。


まだ名前にはしない。だが、違う。

そこだけは、もうはっきりしていた。

彼方の主が見せたがっているものの一端が、ここで初めて盤面の上へ出た気がする。

強さを奪われた時、人は何で前へ出るのか。

壊すでも呑むでもない、その途中の何か。


広場の奥、縦穴の底から伸びる光が、次の道を静かに照らしていた。

保存の国は、まだ答えをくれない。


だがこの一局だけは、紺野に“別の届き方”があり得ることを見せた。

その事実だけが、夜の薄い空気の中で、妙に重く残っていた。


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