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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
番外章 ニライカナイ 未来彼方
176/193

百七十四話 荒臣の仮面


百七十四話


174-1 荒臣の仮面



人が同じ顔で戻ってきた時ほど、違和は細いところに出る。

海辺から村へ戻る坂道は、夕方になると影の方が先に長くなる。


この国ではいつもそうだ。陽が落ちるから暗くなるのではない。地面の側が、空より先に夜へ寄る。白い石の温度が少しずつ抜け、井戸の縁の欠けが昼より濃く見え、木戸の蝶番だけが妙に新しく浮く。

壊れたものを壊れたまま残す国の夕方は、何もかもが一拍遅れて沈む。


紺野健太郎は村境の石垣にもたれ、坂の上を見ていた。


待っていた、というほど律儀な気持ちではない。放っておけばそのうち戻るだろう、という程度だ。だが視線だけは海の方へ置いていた。置いていたということは、結局待っていたのと大差ない。


隣では陽鳥が道具の手入れを終えたばかりだった。

調律師の細い針と糸、小瓶、薄板。神術ではない。神術ではないからこそ、彼女はひとつひとつを指先で確かめる。東都戦のあとより、物へ触れる手つきが少しだけ静かになっていた。軽口で先回りする代わりに、今は沈黙の方へ仕事をさせている。


綾瀬は少し離れた場所で矢羽を揃えている。

折れた矢を捨てる。まだ使える矢だけを残す。迷いのない手つきだった。だが、その迷いの無さが今日は少しだけ固い。森で見た古い枝たちと、泉のそばに置かれた設計図めいた石板が、護国家の教育で鍛えた線の見方へ嫌な影を落としているのだろう。


坂の上に、人影が出た。


硯荒臣。

黒の外套。白基調の軍装。小柄な輪郭。

見慣れた姿だった。見慣れた姿なのに、見た瞬間、紺野は胸の奥で小さく舌打ちしたくなる。理由はまだ分からない。分からないが、“同じだ”と言い切るには何かが少しずれていた。


荒臣は三人の前まで来て、立ち止まる。


「待たせたな」


声はいつも通りだった。

少女の姿に似合わぬ、成熟した男の声。低く、冷めていて、言葉の先へ常にわずかな皮肉を置く声。

だがその一言のあとにだけ、沈黙が半拍あった。必要な間ではない。言葉を置いた後、自分が何を言ったかを向こう側で一度だけ確認してから次へ進むような、わずかな遅れ。


陽鳥が最初に気づく。

気づくが、口にはしない。彼女はそういう時、相手の体温がどこまでいつも通りかを先に見る。


「長かったのね」


柔らかいが、軽くはない。探る言い方だ。


荒臣は陽鳥を見る。

視線が合う。その合い方は正しい。だが正しすぎた。人を見る時の自然さではなく、相手の輪郭を“見落とさぬよう”整えている目つきだ。


「古い話は、長くなる」


それだけ言って、視線が今度は紺野へ移る。

そこにも同じ半拍がある。

紺野はその遅れに、まだ言葉を与えない。与えた瞬間に、違和感の方がこちらの中で形を持ってしまう気がした。


綾瀬だけが、あからさまに眉を寄せた。


「何かありましたか」


質問は真っすぐだった。

遠慮がない。だが、遠慮がないからこそ、この場では一番正しい。

荒臣は答える。


「何か、とは」


返しは皮肉めいている。

けれど、その皮肉がいつもより少し遅い。遅れたぶんだけ、刺さる前に形を選び直しているように聞こえた。


「閣下」


綾瀬は矢を束ねたまま言う。


「質問の意味は理解されているはずです」


陽鳥がそこで、ほんの少しだけ視線を伏せた。

このやり取りの中で、彼女はもう確信に近いものを持ち始めていた。何かがあった。しかも、それは荒臣の“強さ”や“情報量”ではなく、もっと人間の側へ近いところへ触れている。


荒臣は、数を数えるようにわずかな沈黙を置いてから答えた。


「重い話を聞いた。それだけだ」


言葉としては簡素だ。

簡素なのに、そこで切るために払っている力が妙に大きく見えた。


174-2


違和というものは、同じ形では人に刺さらない。

紺野が最初に感じたのは、怒りにも似た落ち着かなさだった。


目の前の荒臣は同じ顔をしている。声音も同じだ。言葉の棘も残っている。

なのに、いつものように“どうせこの人はそういう人だ”と片づけられない。たとえば東都で園業を一撃の判決として断ち切った時の荒臣は、理不尽ではあったが一貫していた。今の荒臣は、理不尽さの表面だけが残って、その下で何か別の歯車が一度だけ噛み直されている感じがある。


陽鳥は別の場所に引っかかっていた。


荒臣はもともと人間臭い。

人間臭いというと誤解を招く。優しいとか温かいとか、そういう意味ではない。むしろ逆で、皮肉も言うし、仕事量に人を換算するし、目の前の悲劇へ即物的な値札をつける時すらある。


けれど、その底には常に“今この場でどう振る舞うかを自分で決めている者”の癖があった。

今の荒臣には、その癖が一枚薄い。決めている。決めているのに、一度だけ内側で遅れる。まるで“今の荒臣”として振る舞う手順を、ほんのわずかに確かめ直しているみたいだった。


綾瀬の違和は、もっと単純だ。

気味が悪い。それが最初の結論だった。

魔王の役を与えられた時も気味が悪かった。だがあれは役の気味悪さだ。今感じているのは、もっと人に近い場所の不気味さだった。


自分たちの前へ戻ってきたこの人物は、確かに硯荒臣なのに、その“確かさ”の作り方が昨日より不自然になっている。


人が深く考え込んで戻ってきた、というだけではない。思考の重さなら、今までだって見てきた。これはもっと、外側の形を内側へ合わせるのに一拍だけ手間取っている感じだ。


綾瀬は、そういう違和を隠さない。


「閣下」


もう一度呼ぶ。

荒臣が視線を向ける。


「何だ」

「いつもより、遅いです」


村の空気が、そこだけ少し止まる。


陽鳥は止めない。紺野も口を挟まない。

綾瀬は棘を引っ込める気がない。護国家の教育は、危険を感じた相手に礼儀の布を厚くかけるより先に、その危険の輪郭を測れと教える。


荒臣は綾瀬を見た。

見て、その視線の中で一度だけ何かが動く。怒りではない。咎めでもない。もっと冷たい計算だ。ここでどう返せば、どの程度までこちら側の“いつも通り”を維持できるか。


そういう計算を、綾瀬は相手の目の中に見た。


「そうか」


荒臣は答えた。


「お前の目には、そう映るか」

「はい」

「結構。目が鈍っていない証拠だ」


いつもの荒臣なら、もう一段皮肉を足す。

例えば“副官の代理でも気取るつもりか”くらいは言う。だが今日はそれをしない。しないから、逆に変だ。

陽鳥が静かに言う。


「羽場桐中尉がいれば、今の返しにもう一言入れていましたよ」


荒臣の目が、ほんの僅かに陽鳥へ流れる。


「そうだろうな」


返答は短い。

短いが、その短さの奥に本物の了解がある。

羽場桐妙子がここにいない。いないことが、荒臣の周囲から“今の荒臣”を自然に繋ぎ止める緩衝材を一枚抜いている。

陽鳥はそれを言外に示し、荒臣も否定しない。


紺野はそこで、やっと口を開いた。


「海辺で何を聞いた」


問いは硬い。

探るためというより、黙って見ているのが少し気持ち悪くなったからだ。

荒臣は視線を外す。

村の向こう、海の方へではない。もっと近い、井戸の欠けた縁へ向ける。視線の逃がし方まで少しだけ遅い。


「二千年前の話だ」


答えはそれだけだった。


「古い文明が、どこまで手を伸ばしたか。なぜ陛下が剣を抜かねばならなかったか。なぜこの国が、壊れたものを壊れたまま残しているか。そういう話を少しだけな」


陽鳥が目を細める。


「少しだけ、でその顔ですか」

「重い話ほど、全部を聞かせてもらえると思うな」


荒臣の声音には、いつもの皮肉が戻りかけている。

戻りかけている、だけだ。まだ完全ではない。

陽鳥はその“不完全さ”ごと受け取って、もう一度だけ視線を伏せた。


174-3


その夜、村で用意された食事は簡素だった。


煮た根菜、薄い魚の汁、硬いパンに似たもの。飢えはしのげる。だが満たされる方へ人を連れていく献立ではない。


四人は村の端の小屋に近い建物へ通され、低い卓を囲んだ。村人は必要なものだけ置いて、長居せずに去る。この国では気遣いまで少し整いすぎていた。

荒臣は卓の上の器へ視線を落としたまま、最初の一口をすぐには取らなかった。


紺野が、それを見ていた。


食事の前に何を考えているのか、などと問う気はない。問う筋合いでもない。だが、いつもの荒臣ならこういう場面ではむしろ饒舌になる。村の飯の量を見て皮肉のひとつも言うし、陽鳥の箸の運びに無駄が多いとか、紺野の顔が傷に引っ張られているとか、そういう余計なことをひとつふたつ落として場を動かす。

今日は、それが無い。

無い、というより、遅い。


「硯少将」


陽鳥が、汁椀へ手をつける前に呼んだ。

この呼び方は普段より硬い。相手の機嫌を窺うためではない。線を引いておくための硬さだ。


「羽場桐中尉がいたら、多分もう少しうるさかったわよ」


荒臣はそこで、ようやく笑った。

笑いはした。だが、その笑いが顔へ乗るまでに、やはり半拍あった。


「確かにな」

「同意が早いのね」

「妙子はやかましいからな。副官というのは、時に上官の黙りたがる沈黙まで勝手に片づける」


紺野は器を持つ手を止めた。


その言い方に、いつもの荒臣らしさが少しだけ戻っている。戻っている。けれど、口にした内容が昨日の執務室とほとんど同じ場所をなぞっていることに気づく。

維持しやすい。緩衝材。黙りたがる沈黙。

荒臣は羽場桐の不在を、思っていたよりずっと大きな穴として認識している。


綾瀬が、そこで躊躇なく言った。


「羽場桐中尉がここにいないことを、閣下は不便だと感じておられる」


陽鳥が横目で綾瀬を見る。

言い方が直線すぎる。だが止めない。止めるほど間違っていないからだ。

荒臣は綾瀬を見返し、今度は沈黙を置かなかった。


「そうだ」


その即答に、逆に全員が少しだけ黙る。


「不便だ。妙子は、私が手を抜きたがるところを抜かせない。抜かずに済むところでは逆に無理をさせない。ああいう人間が横にいると、こちらは“今の自分”を考えずに済む」


陽鳥が低く言う。


「考えないといけない段まで来ているのね

「そういうことだろう」


荒臣は椀を取り、ようやく汁を一口飲んだ。


「海の向こうは趣味が悪い。役だけでなく、人が何によって形を保っているかまで見せたがる」


紺野はその言葉を聞きながら、胸の奥に小さな棘が刺さるのを感じる。

何によって形を保っているか。

それは荒臣だけの話ではない。自分も、陽鳥も、綾瀬も、多分もう見始められている。


卓の上の灯りが小さく揺れる。

村の外では夜が静かだ。静かすぎる。

この小屋の中でだけ、四人の沈黙がそれぞれ違う重さを持っていた。


174-4


食事が終わり、村の灯が一つずつ沈んだ後、紺野は外へ出た。


夜風は冷たい。

冷たいが、東都の空の冷たさとは違う。あちらは高位の理不尽が空を押し潰していた。こちらはもっと静かで、もっと執拗だ。人の時間だけを少しずつ薄くする冷え方だった。


井戸のそばに、荒臣が立っていた。

外套は羽織っていない。

白い軍装のまま、欠けた井戸の縁へ片手を置いている。小柄な後ろ姿が夜へ沈みそうで沈まない。

紺野は少し迷ってから、その数歩手前で止まった。


「寝ないのか」


荒臣はすぐには振り返らなかった。


井戸の水面を一度だけ見て、それからこちらを見る。

その順番自体は自然だ。だが、今この瞬間だけは、その振り返りにまた半拍の遅れがあった。まるで“紺野に振り返る荒臣”という動作を、一度だけ内側で確かめてから表へ出しているみたいに。


「寝ろと言うのか」


返答はいつも通りに近い。

皮肉もある。冷たさもある。

だが、やはり少しだけ遅い。


「言ってはいないが」


紺野は短く返す。


「ただ、起きてるなら起きてるで、理由がある顔している」


荒臣はそこで、ほんのわずかに目を細めた。

怒ったのではない。こちらの言葉を評価した顔だ。


「理由のない不眠など、子供の夜更かしだろう」

「あんたの見た目で言うとややこしいな」


返した瞬間、紺野は少しだけ失敗したと思った。

軽くなった。今の話はそういう軽さで流すべきではなかった。

だが荒臣は、そこで少しだけ――本当に少しだけ――笑った。


「ようやく少し戻ったな」

「何が」

「お前の口だ」


その一言で、紺野は眉を寄せる。


見透かされた気がしたからではない。荒臣自身がまだ戻り切っていないくせに、こちらの戻りだけを先に確認するのが、少し癪だった。


「……あんたの方が妙だろ」


紺野は低く言う。

荒臣は否定しない。


「そう見えるか」

「見えるな」

「結構だ」


返答は短い。

そして、そこで終わらない。


「仮面というものは、普段は被っていることを忘れられる程度に馴染んでいなければ意味がない」


井戸の水面が、夜風で小さく震える。

紺野は黙ったまま、その続きを待った。


「だが、海の向こうでは時々、被っている事実の方が先にこちらへ戻ってくる」


荒臣の声は低い。

説明している。だが、全部は渡さない。


「何を聞いたかは、まだ言わん。言って役立つ段ではない。だが少なくとも、私は今“今の私”を少し意識しすぎているのだろうな」


それは、紺野がこの人の口から聞くにはずいぶん率直な言い方だった。

率直すぎて、逆にそれ以上は踏み込めない。


「中尉なら」


紺野が言いかける。

荒臣が継いだ。


「一言で済ませる」


その返答には、皮肉が少し戻っていた。


「“閣下、遅いです”とでも言うだろう。実際、お前たちより先にそう言いそうだ」


紺野は鼻で息を吐く。


「言いそうだな」

「だろう」


そこまで言ってから、荒臣はようやく井戸の縁から手を離した。


「もう戻れ。お前は寝不足でまともになる顔ではない」

「あんたに言われたくないな」

「私は寝不足でもこの程度だ。お前はその程度にも届かん」

「ほんと嫌な奴だな」

「今さらだ」


返答の速さが、そこで少し戻った。

ほんの少しだけ。

完全ではない。だが、さっきまでの半拍よりはましだった。


紺野はそれ以上何も言わず、踵を返す。

背を向けたあと、井戸のそばの気配だけがまだ少し引っかかった。


仮面。今の私。

意識しすぎている。

それらの言葉は説明としては足りない。だが、足りないこと自体が本質に近い気がした。


小屋へ戻る途中、空を見上げる。

星はある。あるのに、ここでは星まで“ちょうどよく残されている”ように見える。消えもせず、溢れもせず、過不足なく保存された夜空。


この国は、人の仮面まで剥がしたがる。

そして荒臣は、その剥がれ方が昨日より少しだけ見えるようになっている。

それが弱さなのか。仮面の綻びなのか。

あるいは、その両方なのか。


紺野にはまだ分からない。

分からないが、ひとつだけ確かなことがあった。


硯荒臣は、今までより少しだけ人間に見える。

それは多分、良いことではない。

少なくとも、この国では。


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