百七十三話 保存の側の証言
百七十三話
173-1 保存の側の証言
彼方の主が再び荒臣を呼んだのは、日が海へ沈み切る少し前だった。
昨日と同じ東屋。同じ卓。
同じように潮風が吹き、同じように波音だけが一枚濾されて届く。変わったのは空の色だけだ。昼の白さが抜け、海と空の境目が薄い藍へ沈み、その境界だけが昨日より少し低く見える。
境界というものは、夜に近づくほど人を騙す。見えているから安心できるわけではない。見えているものほど、実際には既にこちらの手を離れていることがある。
荒臣は卓の前へ腰を下ろした。
彼方の主は既に座っている。待っていたのだろう。だが“待たせていた”感じは少しも無い。この場所では、先に席へ着いている者が時間の側に立つ。後から来た者は、遅れたのではなく、ようやく辿り着いただけになる。
「律儀だな」
荒臣が言う。
「続きを語るために、わざわざ同じ席を用意するとは」
彼方の主は穏やかに微笑んだ。
「昨日の話は、昨日の場所へ置いたままの方が綺麗でしょう?」
「綺麗に整えられる話ではあるまい」
「ええ。ですから、せめて席だけでも」
その返しに、荒臣は少しだけ口元を歪めた。
この人は本当に柔らかく喋る。柔らかく喋るのに、譲るところが少しもない。人を宥めるための声音ではなく、既に決まっている順序を丁寧に告げる声音だ。
「では聞こう」
荒臣は卓へ片肘もつかず、まっすぐに座った。
「昨日は伐採の前提までだ。文明が行きすぎ、管理が必要になった。だが、伐るだけでは足りぬ。そういう話だったな」
「はい」
彼方の主は頷く。
「今日は、その先です」
風が吹く。
海の匂いが濃くなる。
この場所では、話の重さに合わせて景色の方も少しだけ濃淡を変える気がした。
「伐採だけでは足りなかった理由は単純です」
彼方の主が言う。
「減らすことはできます。終わらせることもできます。けれど、人という種は“終わったあと”の手当てまで含めて考えなければ、同じ誤りを別の形で繰り返します」
荒臣の目が僅かに細くなる。
「管理だけでは、種の輪郭を残し切れぬと」
「ええ。残す者が必要でした」
「保存か」
「はい」
一拍置いて、彼方の主は続けた。
「けれど、それだけではやはり足りませんでした。保存とは、止めることではあっても、終わらせることではありませんから」
荒臣はそこで、少しだけ笑った。
皮肉屋の笑いだ。だが笑っている中身は、愉快さより理解に近い。
「ようやく、厭な話らしくなってきたな」
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彼方の主は笑わない。
笑わずに、海を見る。
その横顔は穏やかだった。穏やかなのに、語られる内容だけが穏やかさから遠い。
「文明を伐れば、人は死にます」
静かな声だった。
「伐採は、理念だけを刈り取ることではありません。器も、記憶も、環境も、手を伸ばしすぎた枝も、時には国ごと落とさねばならない。管理が線を引く時、その線は必ず誰かの命をまたぎます」
荒臣は黙って聞く。
これが保存の側から見た歴史だということを、最初から承知して。
「けれど、人は死をただの終わりとして扱うには、あまりに長く自分を拡げすぎていました」
彼方の主の指が、卓の表面を一度だけ撫でる。
「接続された知識。分けられた枝。設計された適性。環境へ合わせて作られた器。そうしたものを、管理の剣だけで切れば、切断はできます。できますが、その切断は“終わらせる”とは少し違います」
荒臣が口を挟む。
「中途半端に残るのか」
「ええ。あるいは、終わるべきでないものまで終わる」
彼方の主は頷いた。
「だから、人類は終わらせる役を必要としました」
「死滅」
その一語だけ、東屋の空気が少し冷えた。
彼方の主は否定しない。
「少なくとも保存の側から見れば、そうです。管理は線を引く。けれど、引かれた線の先で、何を終わりとみなすかまで一手に担うには、あまりに重かった。終わらせるものが、独立した役として必要になった」
「そして、お前たち保存の側は、その逆を担う」
「逆というほど単純ではありません」
「どう違う」
彼方の主は少し考えるように視線を落とした。
考えるのではない。言葉を、こちらの理解できる深さまで落としているのだろう。
「保存は、救済ではありません」
その言い方には、わずかな疲労があった。
この国の主としては珍しく、人間に近い疲れだった。
「残す。留める。失わせない。そういう言葉は美しく聞こえます。ですが実際には、保存とは選別です。何を止めて、何を進ませるか。どこまでを“まだ残す価値がある”と判断するか。止めることは、終わらせないことではありません。終わるべきものを残し続ければ、それはただの停滞です」
「だからお前は、壊れたものを壊れたまま置く」
「ええ」
彼方の主は静かに頷いた。
「完全に戻すことは偽りになります。けれど、消してしまえば次に繋がらない。だから、壊れた形のまま残すのです。恥も、失敗も、歪みも、枝の違いも。保存の役は、その醜さごと預かる役でした」
荒臣はそこで、ようやく背もたれへ僅かに体を預けた。
「死滅と保存が対である、というわけか」
「ええ。少なくとも私には、そう見えています」
またその言い方だ。
絶対の真実とは言わない。保存の側から見れば、そうだった、とだけ語る。
その慎重さが、逆に彼方の主の証言の重さを増していた。
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海が返す。東屋の柱の陰が伸びる。
彼方の主は、その影の移ろいを見ながら次の言葉を置いた。
「人類は、自分たちの行く末を一つの意思だけで担えないと知ったのです」
荒臣は視線を上げる。
「だから分けた」
「ええ」
「五つに」
彼方の主の目が、ほんの少しだけ細くなる。
問いではない。荒臣はもうそこまで辿り着いている。だから、あとは並べるだけだ。
「管理」
彼方の主が最初に言う。
「種の輪郭を守るため、線を引くもの」
「理解」
二つ目は、僅かに声音が変わった。
重いというより、少しだけ遠い響きだ。
「人を、人でないものを、枝分かれしたものを、繋ぎ直されたものを、そのまま把握するもの。拒絶せず、だが飲み込まれず、理解するもの」
荒臣の目がわずかに揺れた。
表情に出るほどではない。だが、そこだけ僅かに反応が早い。
「観測」
「始まりと終わり、推移と帰結、役と役のあいだにあるものを見続けるもの」
「保存」
彼方の主は、自らを示すでもなく言った。
「失わせず、壊れた形も含めて残し、次のための器を預かるもの」
最後に。
「死滅」
声が少し低くなる。
「終わらせるもの。止めるのではなく、終わりそのものを与えるもの」
五つ。
管理。理解。観測。保存。死滅。
言葉にしてしまえば簡潔だ。
だが、その簡潔さが逆に恐ろしい。人類は自分たちの行く末を、一つの思想では抱え切れず、五つの役へ分けて預けた。
それは制度ではない。肩書きでもない。種としての自己分解に近い。
荒臣が低く言う。
「役を立てたのではないな」
「はい」
彼方の主が頷く。
「役を立てて、それへ相応しいものを据えたのではありません。人類は、自分たちの中から、そうならざるを得ないものを切り出した」
「切り出した、か」
「ええ。必要だから生んだ、と言い換えても良いでしょう。けれど、保存の側から見れば、あれは“生む”よりも“切り出す”に近い」
荒臣はそこで、初めて少しだけ苦い顔をした。
苦い、というより、自分の内側にある何かへ無関係ではいられない顔だ。
彼方の主はそれを見ていたが、そこへはまだ踏み込まない。
踏み込まないまま、もう一つの真相へ手を伸ばす。
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「そして」
彼方の主が、ほんの少しだけ声を落とした。
「枝を分けた者たちについてです」
荒臣は何も言わない。
だが、目だけは少し鋭くなる。
「昨日、森で見た者たち」
彼方の主は続ける。
「彼らは自然に生まれたのではありません。自然へ戻りきったわけでもない。人が人の適性へ手を入れ、別の環境へ届くための枝として設計したものです」
「前文明の仕事か」
「ええ。ひとりではありません」
彼方の主はそう言って、そこで初めて特定の名へ近づく。
「ですが、その系統の中核にいた者のひとりとして、凛藤義貞の名は避けられません」
東屋の空気が、一段だけ鋭くなる。
凛藤義貞。
現代では東方守護。神術大聖の使い手。
だが、その本質には旧世界の科学者としての顔が残っている。それは荒臣も知っている。知っているが、こういう形で彼方の主の口から置かれると、また別の重さになる。
「血を分けた親ではありません」
彼方の主は先にそう言った。
「ですが、発生条件の起点にはいる。彼が関わった設計思想、適性改造、枝分けの理論が、森の者たちにも、そして私にも、遠い意味で繋がっている」
「お前にも、か」
「ええ」
彼方の主は少しだけ目を伏せた。
「保存の役は、ただ天から降ってきたものではありません。人が自分たちの行く末を管理しようとし、その過程で枝を作り、器を試し、適応を設計した。その長い過程の先に、私はいる。ですから凛藤義貞は、私にとって血縁の親ではありませんが、間接的な親と呼ぶしかない位置にいます」
荒臣はそこだけ、すぐには言葉を返さなかった。
凛藤。
前文明の科学者。現代の守護。
彼が女王――いや、彼方の主と森の枝の“親”に近い位置へいる。
それは感傷的な意味ではない。もっと嫌な話だ。人類が種を伸ばすために手を入れた、その古い設計の一端が、今も守護としてこの世界を飛んでいるということなのだから。
「本人はそれをどこまで知っている」
荒臣が問う。
「かなり深く」
彼方の主は即答した。
「すべてではなくとも、自分がどこへ手を入れ、何を分け、何を残し、何を取り返せなかったかについては」
「なるほどな」
荒臣は小さく息を吐いた。
「面倒な男で済ませるには、背景が重すぎる」
「ええ」
彼方の主は微笑む。
「けれど、面倒な男であることも事実でしょう?」
その返しに、荒臣は少しだけ口元を歪める。
否定しない。否定する意味がない。
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話が終わった時、海はもう藍へ沈んでいた。
東屋の外では、夜が地面から生えている。
この国ではいつもそうだ。空が暗くなるより先に、足元の白さが少しずつ冷え、影の濃さだけが先に深くなる。
彼方の主は席を立たない。荒臣もまだ立たない。互いに、今聞いた話が簡単に次の動作へ移せる類のものではないと知っているからだ。
「ずいぶん重い土産だな」
荒臣がようやく言った。
「まだ半分ほどです」
彼方の主は穏やかに返す。
「充分に悪質だ」
「そうでしょうね」
彼方の主の笑みは、少しだけ人間に近かった。
だが、その近さは慰めにならない。海辺で一瞬だけ凪いだ波が、次の引きに備えているだけなのと似ている。
荒臣は立ち上がる。
「これを、向こうの三人に話すつもりはない」
それは確認ではなく宣言だった。
彼方の主は頷く。
「ええ。今はまだ、その方がよろしいでしょう」
「分かっているなら、最初から私だけを呼ぶな」
「それでは意味がないからです」
彼方の主は視線を上げた。
「あなたにだけ話すことに意味がある。持ったまま、まだ言わないことにも意味がある。重いものは、誰にでも等しく配れば済むというものではありません」
荒臣は鼻で息を吐く。
否定しない。否定できない。
この国の保存は、物だけではなく言葉の重さにまで及んでいる。何を誰へいつ渡すか。その順序まで含めて、彼方の主は保存の側なのだ。
東屋を出る前に、荒臣は一度だけ振り返った。
「彼方の主」
「はい」
「次は何だ」
問いは短い。
だが、その短さに皮肉は少ない。今は純粋に、次の重さを測ろうとしている。
彼方の主は、少しだけ目を細める。
「あなたが今のあなたである理由に、少し近づきましょう」
その返答だけで十分だった。
荒臣は何も言わず、踵を返す。
外套が風を受ける。海の匂いが少しだけ濃い。
浜へ戻る道を歩きながら、彼は聞かされた五つの役を頭の中で並べ直した。
管理。理解。観測。保存。死滅。
そこへ、森の枝と、古い設計者と、凛藤の名が重なる。
どれも持ち帰るには重すぎる。
だが、持ち帰らぬわけにはいかない。
村の手前で、紺野たちの人影が見えた。
三人ともこちらを待っている顔をしている。問いを抱えている顔だ。
荒臣はその顔を見て、一瞬だけ、自分が何を言い、何を言わぬかを決める。
「何かあった?」
陽鳥が問う。
荒臣は三人を見回し、淡々と言った。
「この国が、思っていた以上に古いだけだ」
綾瀬が眉を寄せる。
「それだけですか」
「今はな」
紺野はそれ以上追わない。
追わないまま、しかし“何かがあった”ことだけは正確に受け取る目をしている。
荒臣は村の方へ歩き出した。
「戻るぞ。夜は待ってくれん」
三人が続く。
海の向こうへ来てから、この国は少しずつ正体を見せている。だが見せ方はいつも同じだ。全部を与えず、次に必要なだけの傷口だけを開く。
保存の国。
そこでは真実でさえ、一度に明かされることを許されていなかった。




