百七十二話 止まっている森
百七十二話
172-1 止まっている森
森は、生きているものほど騒がしい。
葉擦れ。虫。獣。湿った土。枝を踏む小さな足音。見えないものの気配が幾重にも重なって、ようやく森は森になる。
そういう意味では、その日の森は最初から少し間違っていた。
村の北側、低い丘陵の向こうに広がる樹林帯へ入った瞬間、綾瀬は足を止めた。
木はある。背の高い広葉樹が何本も立ち、その根元には白い花とも苔ともつかないものが薄く張りついている。蔦が幹を這い、枝葉は重なり、頭上の光を細く切って落としてくる。見た目だけなら、海辺に近い山地の森として不自然ではない。
なのに、音だけが少ない。
風は吹いている。吹いているのに、葉が鳴らない。
土は湿っている。湿っているのに、腐葉の匂いが薄い。
木々は生きている。生きているはずなのに、その生が時間の中で擦れていく音だけが、ごっそり抜け落ちていた。
「……嫌な感じですね」
綾瀬が言う。
紺野が前へ出かけていた足を止める。
「昨日からそればかりだな」
「昨日より、ずっとはっきり嫌です」
返答は即座だった。
感想ではない。判定に近い声音だった。
陽鳥は道具袋の口を押さえたまま、少しだけ首を巡らせる。
観測する目だ。だが、この森へ向ける彼女の視線には、普段の好奇心より先にわずかな警戒が乗っていた。
「静か、というより……」
彼女は言葉を選ぶ。
「減衰してないわね」
「何がだ」
紺野が問う。
陽鳥は近くの木の幹へ触れた。
樹皮は冷たい。冷たいのに、死んでいる木の温度ではない。
「普通、森はもっと“古く”なる」
「抽象的ですね」
綾瀬が言う。
棘はある。だが、刺すためというより早く先を聞きたい時の硬さだった。
陽鳥は構わず続ける。
「葉は落ちるし、土は腐るし、虫は食べるし、水も通る。そうやって全部少しずつ減って、別の形になる。森って本来、その途中の音がすごくうるさくなる」
指先を幹から離す。
「ここは、それが薄い。生きているのに、生きている最中の擦れ方が少ない」
綾瀬は少しだけ黙り、それから頷いた。
「止まっている、と」
「ええ。少なくとも、私にはそう見える」
荒臣は最後尾から歩いていた。
外套の裾が草を払う。彼女は木々を見上げも見下ろしもせず、まるで既に知っている場所を再確認する程度の目つきで周囲を眺めている。
「結構」
低い声が森の中へ落ちる。
「保存とは、何も壊れぬことではない。壊れ方の速度を握ることだ。ここは恐らく、その手つきが最もよく出る場所なのだろう」
「ありがたくない話ね」
陽鳥が言う。
柔らかい口調だが、軽くはない。東都の前なら、もう少し冗談に逃がしていたかもしれない。今はそうしない。
荒臣は少しだけ笑う。
「感謝など期待していない。お前は嫌悪を持て。それで十分だ」
172-2
森の奥へ進むほど、光の質が変わった。
暗くなるのではない。
明るさが薄く均される。木漏れ日というものは本来、揺れる。葉の間を抜ける風の速度だけ明るさも揺れ、地面へ落ちる形を細かく変える。
ここではその揺れが少ない。光まで“ちょうどよく残されている”感じがした。
綾瀬が手を上げる。
全員が止まる。
前方、白い幹の木々のあいだに、人影があった。
ひとりではない。三つ、いや四つ。
こちらを見ている。逃げない。隠れない。
距離にして二十歩ほど。届かない間合いではない。
だが、こちらから不用意に詰めると何かが壊れる気がする程度には、景色の中へ静かに嵌まっていた。
最初に目についたのは、耳だった。
人より長い。長いが、物語めいた誇張には見えない。むしろ、その長さが身体全体の骨格へ自然に馴染んでいる。肌は白い。病的な白さではない。長く陽を避けて生きてきた者の白に近い。
髪は淡い色をしていた。銀とも灰とも違う。木漏れ日を薄く吸った草の裏側みたいな色だ。
背は高い。だが華奢ではない。細い筋肉が長く均されていて、人間の兵や神術師とは違う“無駄の少なさ”を持っていた。
綾瀬の指先が、弓へ伸びかけて止まる。
「人……ではありませんね」
「ええ」
陽鳥の返答も短い。
「でも、獣とも違う」
前に立つ一体が、ゆっくりと口を開いた。
声は低い。澄んでいる。だが、人の声にある“喉の湿り”が少し薄い。
「彼方の主がお連れした方々ですね」
言葉は神州と同じ言葉に聞こえる。
聞こえる、というのがいちばん近い。実際に同じ言葉を喋っているというより、相手の意味だけがこちらの頭へ滑り込んでくる。翻訳ではない。もっと乱暴で、もっと滑らかな理解だった。
紺野が一歩前へ出る。
「お前たちは何だ」
それは、今の彼にしてはずいぶん真っ直ぐな問いだった。
相手が人でないからといって、妙に虚勢を張る段ではない。だが怯えてもいない。そういう硬さの出し方になっている。
白い一体は、目を細める。
敵意は見えない。だが好意とも言いにくい。こちらを見慣れていないのではなく、“また来たのか”に近い静かな観察だった。
「古い枝です」
その答えが、森に妙に似合っていた。
古い枝。
種の枝か、人の枝か。どちらへも取れる言い方だ。
陽鳥がわずかに眉を寄せる。
「枝、ですか」
「そうです。遠い昔、人のままでは少し届きにくい場所へ根を下ろすために、分けられた形」
その言い方で十分だった。
完全な説明ではない。だがこの森とこの身体を前にして、意味は伝わる。
人から遠く離れたのではない。人の輪郭をどこまで伸ばせるか、その試みの途中で分かれたもの。
綾瀬の喉の奥が小さく鳴る。嫌悪とも警戒ともつかない、ごく薄い音だった。
荒臣がそこで初めて前へ出る。
「森を見せるために、お前たちはここにいるのか」
白い一体は頷いた。
「その一部です」
「彼方の主の差し金か」
「主は、見せるべき順番をよくご存じです」
荒臣は鼻で息を吐く。
それだけで、彼女が納得していないことは十分に伝わる。だが今は刃を立てる局面でもない。
172-3
一体が、近くの白い樹へ手を触れた。
その瞬間、幹の表面に走っていた細いひびが、ひびのまま滑らかに見えた。
塞がったわけではない。消えたわけでもない。ひび割れとしての形を残しながら、それを“あるべき表面”として木の方が受け入れ直したようだった。
陽鳥の目が僅かに見開く。
「……修復ではありませんね」
「ええ」
白い一体は答える。
「戻しているのではなく、残しているのです」
綾瀬が低く言う。
「それを、気持ち悪いと言っているんです」
返答は少し早かった。
礼を欠く程度には。
だがこの森へ入ってから、綾瀬の嫌悪は一貫していた。その一貫さが、かえって場違いではない気もする。
白い一体は怒らない。
怒るというより、その反応を想定の中へ入れている顔だった。
「嫌うのは自然です」
「自然、ですか」
綾瀬の声音が少し硬くなる。
「ええ。止まることは、外にいる者には死に似て見える」
「似ている、では足りません」
綾瀬は視線を外さない。
「これは閉じ込めているだけです」
その言葉に、森の空気だけが少し薄く揺れた。
他の一体たちは何も言わない。だが、その沈黙の中にわずかな隔たりが生まれる。綾瀬の言葉は、この森の理屈にきちんと刃を立てていた。
紺野はそのやり取りを黙って見ていた。
見ながら、胸の内側に別の違和感が生まれているのを知る。
理解したい。
東都で襲ったものと同じ衝動が、ほんの少しだけ動く。
目の前にいる存在は気味が悪い。人の延長に見えて、人の輪郭から半歩外れている。その半歩がどうして生まれたのか、どういう理屈でここに留まっているのかを知りたい。
だが、その知りたさの先にある感覚が、あの夜とは少し違っていた。
寄せたいわけではない。そこが違う。
相手を自分の方へ引き寄せ、あるいは自分が相手の輪郭へ飲み込まれる、あの危険な底とは違う。今ここで動いているのは、もっと外側から“形を見たい”欲求だ。
欲求であることに変わりはない。けれど、飲み込む向きが違う。
紺野はその違いをまだ言語化できない。できないが、東都の後から初めて“違う”とだけははっきり思えた。
陽鳥が、そんな紺野の横顔を一瞬だけ見た。
何かを察したようにも見える。だが何も言わない。観測して、今はまだ棚に置く。そういう目だった。
白い一体が、今度は紺野へ視線を向ける。
「あなたは、こちらを怖がっていますね」
「当たり前だ」
紺野は即答する。
「怖がらない理由がない」
「ええ」
一体は頷く。
「それは健全です」
その言葉に、紺野は眉を寄せた。
健全。ここでその語を使うのは、どうにも腹立たしい。
「だが、嫌悪だけではない」
一体は続ける。
「知ろうとしている」
紺野の指先が、剣の柄でわずかに強ばる。
見抜かれたこと自体より、その見抜き方が気に入らない。
だが否定もしきれない。
「それは」
陽鳥がそこで口を開いた。
声は柔らかい。だが今は一切、軽さへ逃がさない。
「そちらに寄っているのではなく、まだ人の側から見ようとしているだけです」
白い一体は、ゆっくりと彼女を見る。
「違いがあると」
「あります」
陽鳥ははっきり言い切った。
「少なくとも今は」
その言い方に、紺野は少しだけ横目を向けた。
東都の夜以降、陽鳥は自分の底に触れる話題へ不用意に踏み込まない。だが今の一言は、踏み込みではなく線引きだった。
寄せる危険。理解したい欲求。
その違いを、彼女もまたまだ完全には言葉にできていない。けれど、違うものとして見始めている。
172-4
森を抜ける前、一体たちは一行を小さな泉のような場所へ案内した。
泉というには静かすぎた。
水は湧いている。だが湧き出す音がしない。丸い石で囲まれた浅い水面の底に、淡い光だけが揺れている。
水辺の周囲には、何かの記号が刻まれた石板が幾つか置かれていた。文字ではない。術式とも違う。規則はあるのに、生きた言葉へ繋がる前の設計図のよいな形。
綾瀬が石板へ目を落とし、すぐに眉を寄せる。
「これは……」
「知っている形か」
紺野が問う。
「知っている、というほどではありません」
綾瀬は慎重に言葉を選ぶ。
「ただ、家に古い資料が残っています。術式でも、神術でも、兵の訓練体系でもない。人間の方を先に作り替えるための設計図に近いものが」
陽鳥も石板を覗き込む。
その目は好奇心を隠していない。だが、好奇心だけではない。嫌悪も、警戒も、研究者の手つきも全部混ざっている。
「血筋の設計、適性の調整、環境への適応……そういう系統ね」
「できますか」
綾瀬が訊く。
「今の神州で、ここまで露骨にはやらないわよ」
陽鳥は短く答えた。
「でも、思想の根だけなら分かる。肉を術へ寄せるのではなく、術を前提にした肉を先に作る発想ね」
泉の水面が、風もないのにわずかに揺れる。
その揺れの中へ、紺野はひどく古い匂いを感じた。自分たちの今へ至る前に、一度どこかで試され、失われ、いや、失われ切らずに残った何かの匂い。
白い一体は、石板のひとつへ手を置く。
「遠い昔、人は自分たちの枝を設計しました」
その言い方は、まるで誰か特定の名を避けているようだった。
だが避けていても、影は差す。
前文明の科学者。人の適性へ手を入れ、枝を分け、環境に合わせた器を作ろうとした者。
名前はまだ出ない。出ないが、ここまで来れば輪郭だけは見える。
荒臣が一体を見る。
「親、というには遠い」
一体は頷いた。
「血ではありません」
「だが、発生条件の起点にはいる」
「ええ」
短い応答だった。
だが、その短さで十分に嫌な意味が残る。ここにいる彼らは自然に生まれた枝ではない。人が伸ばそうとした枝だ。設計し、適応させ、残そうとした結果の一部。
保存の国に棲むのに、これほど似合う由来もない。
綾瀬は泉から目を離し、森の向こうを見る。
嫌悪は消えない。だが、その嫌悪に少しだけ別の色が混じった。自分の家が抱えている“護る”の理屈も、この森の“残す”の理屈も、どこかで同じ古い病へ根を伸ばしている気がしたのだろう。
陽鳥が、小さく息を吐く。
「……嫌な感じ」
「どこがです」
綾瀬が問う。
陽鳥は少しだけ考えてから、はっきり言った。
「全部よ。賢い人間が遠くまで行きすぎた匂いがする」
その一言に、誰もすぐには返さなかった。
森を出る時、振り返ると木々はやはり静かだった。
止まっている。
止まっているのに、死んでいない。
その不気味さだけが、村へ戻る道のあいだじゅう、四人の背中に薄く張りついていた。
海の向こうへ来てから、嫌悪の種類だけが少しずつ増えている。
そしてその嫌悪が、どうやら間違っていないらしいと分かり始めていた。




