百七十一話 彼方の主
百七十一話
171-1 彼方の主
夜は、鳴り終わった後の方が気味が悪い。
村の三差路に仕掛けた細糸は二度切れ、綾瀬の矢は五本減り、紺野の右肩は二度開きかけた。
獣は四つ出た。二つは路地の途中で崩れ、一つは陽鳥の遅らせた半拍に足を取られて紺野の剣へ喉を差し込み、最後の一つは荒臣の一言で壁際へ追い立てられ、綾瀬が眼窩から射抜いて終わった。
勝った、とは言いにくい。終わらせた、の方が近い。しかも綺麗ではない。血は出る。汗も出る。息も上がる。今の身体は、傷を負えばそのまま痛み、踏み込みを誤ればそのまま死に寄る。
それでも夜は越えた。
越えたはずなのに、村の空気は安堵の方へ倒れなかった。
井戸の縁の欠けはそのまま残り、倒れた柵は倒れた角度のまま置かれ、獣の死骸だけが村外れへ運ばれている。人が助かった夜の終わりではない。保存された不運の続きを、ひとまず一晩分だけ先送りした朝の顔だ。
紺野健太郎は村の外れで、井戸水を含ませた布を右肩へ押し当てていた。
痛みは浅くない。だが我慢できる。できるから厄介だ。この国へ来てから、自分は何度も“まだ耐えられる”と判断している。耐えられるということは、次をやれるということでもある。次をやれるという感覚は、時に人間を誤らせる。
陽鳥が少し離れたところで道具を拭っている。
昨日より無駄が少ない。調律師という役に身体が少しだけ追いつき始めていた。小瓶の蓋を閉める手つきも、針の並べ方も、最初にここへ来た時の違和感だけではもう動いていない。
綾瀬は村境の石へ腰掛け、折れた矢を選り分けていた。
表情は薄い。薄いが、夜のあいだじゅう張り詰めていた棘が一本だけ抜けている。
荒臣は浜へ続く坂の途中に立っていた。
誰より傷が少ない。だが無傷には見えない。魔王という役に与えられた便宜は、力そのものではなく“盤面がわずかにこちらへ傾く”程度のものだ。そこに慣れすぎれば、逆に自分の歩幅を失う。荒臣はたぶん、それを知っている顔で朝の海を見ていた。
その背へ、彼方の主が近づいた。
音は無かった。
無いわけではないのだろう。だが、この国ではあの人の歩みだけがいつも景色に混ざりきっていて、視線を向けた時に初めて“そこにいた”という事実だけが浮かび上がる。
「よく眠れましたか」
彼方の主が言う。
荒臣は振り返らずに答えた。
「眠れる盤面ではなかったな。だが、眠らぬほどでもない」
「それは結構」
「結構ではない。四人とも、この国の第一印象としてはあまり好まぬ類の夜を渡ったぞ」
彼方の主は小さく笑う。
「好かれるために用意したものではありませんから」
そのやり取りを、少し離れた場所で羽場桐ならどう聞いただろうと、紺野は一瞬だけ思った。
今ここに彼女はいない。いないことが、この場では妙に露骨だった。彼方の主と荒臣の会話には、横から整えてくれる人間がいない。だから、言葉の削れ方がそのまま見える。
彼方の主は、ようやく荒臣の隣へ立つ。
「少し、お時間をいただけますか」
それは問いの形だった。
だが断りを待つ声ではない。
荒臣はそこで初めて視線だけを横へ動かした。
「構わん」
そして、紺野たちへ振り返る。
「私は少し外す。村の中へは深入りするな。昨夜の続きを探るのは構わぬが、勝手に次の夜を始めるなよ」
陽鳥が頷く。
「分かってる」
紺野も短く答える。
「了解」
綾瀬は無言で一礼した。
荒臣はそれ以上言わず、彼方の主とともに浜の奥、白い岩場の方へ歩き出す。
その背中が村から遠ざかるにつれ、朝の空気だけが少しずつ薄くなる気がした。
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彼方の主が荒臣を案内したのは、浜の奥にある低い東屋だった。
東屋、と呼ぶには柱が少なく、祭壇と呼ぶには生活に近い。海へ向かって開かれた木と石の混ざりもの。屋根はあるが半分ほどしか影を作らず、潮風も陽も遠慮なく入り込む。
中央に卓がひとつある。茶を飲むための卓にも見えるし、昔ここで誰かが死者の名を読み上げていたようにも見える。そういう曖昧な造りだ。
海は近い。
近いが、打ち寄せる音だけが少し遠い。向こうから来るはずの波音が、ここへ届く前に一度だけ薄く濾される。
保存された場所というのは、何も物だけを残すのではない。音の荒れ方まで削って置くのだと、荒臣は黙って理解した。
彼方の主は卓の向こうへ座る。
勧められるまでもなく、荒臣もその前へ腰を下ろした。二人の間に湯気はない。茶器もない。ただ、席だけが先に整っている。
「改めて申し上げます」
彼方の主が、穏やかな声音で言った。
「ようこそ、荒臣。こちらへ」
「歓迎されるほど素直な客ではないがな」
「ええ。存じています」
彼方の主はその返答を楽しそうにも不快そうにも扱わない。
荒臣はその無色さを見て、いつも通り少しだけ皮肉を足したくなる。だが、今ここでわざとらしく棘を増やすのは、こちらの余裕の無さを晒すだけだとも知っていた。
「陛下が私を寄越された。なら用件は一つではないのだろう」
「そうですね」
彼方の主は頷く。
「けれど、今日お話しすることは一つです」
「聞こう」
風が吹いた。
東屋の柱に掛けられた古い貝殻飾りが、小さく鳴る。鈴より鈍く、骨より軽い音だった。
彼方の主は海を見る。
見るというより、海の向こうにある時間を一枚だけめくるみたいな目だった。
「二千年前、人は少し遠くへ行きすぎました」
言葉は静かだった。
大仰な始まりではない。だからこそ、かえって重い。
「遠く、とは」
荒臣が問う。
「高みでも、深みでもなく?」
「どちらもです」
彼方の主は答える。
「けれど、保存の側から見れば、それらは全て同じ方向でした。人が人の輪郭を保ったまま届いてよい範囲を、少しずつ越えていく方向です」
荒臣は黙って聞く。
二千年前の前文明。その語は神州においても完全な禁句ではない。だが、まともに触れれば必ず現代の理屈が痩せる。だから皆、知識の端だけを摘まんで歩く。
彼方の主は続ける。
「最初は便利さでした。病を減らし、寿命を延ばし、飢えを押し返し、遠い土地と一瞬で繋がる。文明とはいつも、そのように人を甘やかして始まります」
「否定はせん。人は不便を憎む生き物だ」
「ええ。だから手を伸ばした」
彼方の主の声音は柔らかい。
柔らかいが、そこで話される過去へ温かさは無い。
「一人の身体で足りなくなった。個の記憶では足りなくなった。人は自分たちの知識と経験と判断を、より大きな器へ移そうとした。繋げば、失わずに済むと思ったのです」
荒臣の目が、ほんの少しだけ細くなる。
「集合意識か」
「まだその名が似合うほど成熟してはいませんでした」
彼方の主は首を振る。
「もっと粗く、もっと願望に近いものでしたよ。けれど、方向は同じでした。人を人の単位で閉じ込めないこと。それが善であるかのように、彼らは少しずつ信じ始めた」
海が遠くで返る。
波は穏やかだ。穏やかなのに、話の中の過去だけが次第に不穏な密度を持ってくる。
「繋ぐ、混ぜる、共有する、残す。便利な言葉は多かった」
彼方の主の指が、卓の表面を一度だけなぞる。
「人は、自分たちの知を種の外郭へ拡げることを、進歩と呼びました。肉を改め、適性を調整し、異なる環境へ住まうための枝を設計し、足りぬものを埋めるために、自らの定義そのものへ手を入れた」
荒臣はその一言を聞きながら、声には出さず凛藤義貞の名を心の中へ置いた。
まだ出てこない。だが、既にどこかで影が差している。
「保存の側から見れば」
彼方の主が、ほんの少しだけ笑った。
「当時の人類は、自分たちがどこまで壊れずに拡張できるかを、試すことに夢中だったように見えました」
「そして壊れた」
「ええ」
その頷きに躊躇は無い。
だが断言の中にも、彼方の主自身の立場が混じっている。これは絶対の歴史ではない。保存の側から見た、壊れ方の記録だ。
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「壊れ方にも種類があります」
彼方の主はそう言って、今度は荒臣を見た。
「文明が滅びる、という言い方では足りませんでした。当時の人類が向かっていた先は、滅びよりも厄介だったのです」
「どう厄介なのだ」
「終わらない」
その一語だけで十分だった。
東屋の海風が少し冷える。
荒臣は表情を崩さない。崩さないが、その目の奥で何かの計算が静かに始まる。
「滅びならば、いずれ止まります。戦争でも、疫病でも、飢饉でも、大きな破局はやがて焼け跡へ落ち着く。けれど、あの時代の人類が進もうとしていた先は、そうではなかった」
彼方の主は卓へ置いた指先を止めた。
「拡張が止まらない。接続が止まらない。個でなくなっても、それをなお繁栄と呼ぶ。種としての輪郭を食い潰しながら、自分たちはより高度になったのだと信じ続ける。そういう壊れ方です」
荒臣が低く言う。
「病に近いな」
「病と呼ぶには意志がありすぎました」
彼方の主は答える。
「狂気と呼ぶには理性が残りすぎていた。だから厄介だったのです。自らの破綻を発展の言葉で覆えてしまうから」
風の向こう、海面に白い反射が走る。
それは陽の角度のせいだろう。だが、この会話の中では全てが別の符丁に見えてくる。
「陛下が担われた“管理”は」
荒臣が静かに言葉を継いだ。
「その流れを伐るために必要になった、ということか」
彼方の主は、そこでようやくはっきりと頷いた。
「少なくとも保存の側から見れば、そうです」
そこを明確にしたのは意図的だろう。
これが唯一絶対の真相ではない。だが、彼方の主の位置から見れば、文明伐採は嗜虐でも支配欲でもなく、種の輪郭を守るための切断だった。
「人類は、自分たちの可能性に酔いすぎた」
彼方の主の声音は責める調子ではない。
もっと静かな、葬列を見送る者の声だ。
「手を伸ばせば届くものが増えたことで、手を伸ばしてよい範囲まで失った。管理が必要になったのは、そのためです。誰かが“ここまでだ”と線を引かねば、種そのものが自分の境界を食べ続ける段に入っていた」
荒臣は椅子にもたれず、まっすぐ座ったまま聞いている。
天帝の命、東都の夜、海の向こう、今ここで聞かされている二千年前の話。それらが一本の線になりかけている。
まだ結論には届かない。だが、問うべきものの輪郭だけは確かに濃くなっていく。
「伐採だけでは足りなかったのだろうな」
荒臣がそう言うと、彼方の主は少しだけ目を細めた。
「ええ」
「だから、残す役が要った」
今度は彼方の主が答える前に、わずかな間があった。
その間にだけ、海の音が一枚挟まる。
「そうです」
彼方の主は穏やかに言う。
「伐れば減る。減れば失われる。失われすぎれば、管理した意味そのものが痩せる。だから、終わらせるだけでは足りませんでした」
荒臣はその言葉の先を追おうとする。
だが彼方の主は、そこで一度だけ話を切った。
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「今日はここまでです」
あまりにも自然にそう言われて、荒臣はわずかに眉を上げた。
「焦らす趣味か」
「趣味で済むなら可愛らしいのですけれど」
彼方の主は微笑む。
やはり、その笑みは人を安心させるためのものではない。海辺の風景みたいに柔らかいのに、こちらの歩幅だけを静かに奪う。
「一度に語りすぎると、人は聞いたつもりになります。聞いたつもりになった知識ほど、あとで腐りやすい」
「難儀な配慮だな」
「保存の側は、腐り方にも敏感でなくては務まりませんから」
その返答には、少しだけ皮肉があった。
人知を超えた存在にも皮肉はある。だが荒臣のものとは違う。刃ではなく、波の返しのような皮肉だ。
荒臣は小さく息を吐く。
続きは明日か、と問おうとしてやめた。この国では時間の単位をこちらから決めるのが少し愚かに思える。
彼方の主の方が先に、こちらの考えを読んだように言う。
「明日も、お時間をいただきます」
「拒否権は」
「あるように見せてはいます」
荒臣はそこでようやく笑った。
皮肉屋らしい、乾いた笑いだった。
「結構。ようやく会話らしくなってきた」
彼方の主は頷く。
「あなたは、言葉に少し棘がある方が落ち着くのでしょう」
「人を扱い慣れているな」
「長く見てきましたから」
そこまで言ってから、彼方の主はほんの僅かに視線を浜の方へ向ける。
遠く、村の端で紺野たちがまだ動いているのが見えた。小さな人影だ。だが、その三つの欠け方は、ここからでもよく分かる。
「やさしい人選ですね」
彼方の主が、もう一度同じ言葉を口にする。
荒臣はその視線の先を見ない。
「そう見えるか」
「ええ。根のところで、皆まだ壊れ切っていません」
荒臣は返事をしなかった。
返さないこと自体が肯定にも否定にもなり得ると知っている沈黙だ。
やがて立ち上がり、外套の裾を整える。
「では戻る」
「どうぞ」
彼方の主は席を立たない。
送らないのではない。ここでは、こちらが立ち去ることまで含めて“もう整っている”のだ。
東屋を出ると、海の音が少しだけ戻る。だが完全ではない。
荒臣は浜を歩きながら、聞かされた言葉を頭の中で並べ直した。
二千年前。拡張。接続。終わらない破綻。文明伐採。管理。残す役。
まだ足りない。
だが足りないこと自体が、今は重要だった。
村へ戻る途中、紺野がこちらへ視線を上げる。
陽鳥も、綾瀬も。
三人とも何かを問いたそうな顔をしている。だが、今すぐ口にしない程度には、この国の会話の重さをもう学び始めていた。
荒臣は三人の前で足を止める。
「何か分かった?」
陽鳥が最初にそう問う。
声は柔らかい。だが芯は軽くない。
荒臣は三人を見渡し、それから口元を僅かに歪めた。
「少なくとも、この国が趣味の悪いだけではないことは分かった」
綾瀬が眉を寄せる。
「昨日から同じことを仰っています」
「同じことを繰り返しているのではない。意味が少し重くなっただけだ」
紺野が問う。
「答えは聞けたのか」
「まさか」
荒臣は即座に返す。
「答えなど、そう簡単に貰えるものか。貰えるなら、そもそも陛下が私を寄越しはせぬ」
そこで一度だけ、海の方を振り返る。
「だが、問うべきものの位置は少し見えた」
夕方が近づいていた。
この国では夜が先に地面から生える。浜の白さが少しだけ冷え、村の影が長くなり、遠くの海だけがまだ変わらぬ顔で光を返している。
二千年前の前文明も、たぶんこんなふうに日常の顔をしたまま、少しずつ遠いところへ行きすぎたのだろう。
荒臣は踵を返す。
「戻るぞ。今夜も夜は来る」
それだけ言って歩き出す。
三人も続いた。
彼方の主との会話は終わった。だが終わった気はしない。海の向こうへ来た意味が、ようやく最初の傷口だけを見せ始めた。
保存の国は、まだ何も明かしていない。けれど、隠しているものの輪郭だけは少しずつ濃くなっていく。




