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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
番外章 ニライカナイ 未来彼方
172/193

百七十話 護る家


百七十話


170-1 護る家



村の外れには、夜が来る前から夜に似た場所がある。


畑のさらに先、低い潅木と白い石がまだらに続く斜面へ入ると、光の減り方が少しだけ早くなる。

陽が沈んでいるわけではない。空はまだ高い。だが、地面の方が先に夕方を始める。石の影が長くなり、草の先の白さだけが妙に冷えて見えた。


綾瀬はその斜面を、誰より先に歩いていた。


狩人の役を与えられたからではない。

与えられる前から、こういう地形を読む歩き方が身体に染みついているのだ。足を置く位置、視線を切る順番、振り返らずとも後ろの距離を測る癖。護国家の教育が何を人間に残すかといえば、まず最初にこういう無駄のない移動だった。


後ろを歩くのは紺野と陽鳥、そのさらに後ろに荒臣。

本来なら逆だろう。あの人物を後ろへ置く配置は気味が悪い。だが今の盤面では、荒臣自身が前へ出るより、三人の歩幅を見ている方が都合が良いのだと綾瀬にも分かった。


「止まってください」


綾瀬が言うと、後ろの三人はすぐに足を止めた。


地面には獣の跡がある。

昨日村を荒らしたものと同じ形。犬に近いが、歩幅が安定していない。右へ流れたと思えば、急に左へ寄る。獣道を辿っているようで、途中で“道だったはずのもの”を忘れる。

その乱れ方に、綾瀬はかえって一定の規則を見た。


「どうだ」


紺野が低く問う。

綾瀬は膝をつき、土へ指を添える。


「二頭分。ここで別れています」

「昨日の残りか」

「たぶん違います」


綾瀬は顔を上げなかった。


「逃げた個体なら、もっと一直線に戻るはずです。これは最初から行き先を一つに決めていません。彷徨ったのではなく、迷うこと自体を含んでいる」


陽鳥が後ろから静かに言う。


「歩き方を忘れたって事?」

「ええ。けれど、完全に失っているわけではありません」


綾瀬は立ち上がる。


自分の言葉が、思ったよりはっきり出た。最初の戦いで、彼女はこの国の嫌な整い方をもう少しだけ掴み始めていた。


「忘れているのに、忘れ切れていない。残されている、という方が近い」


荒臣が後方で小さく笑う。


「結構。お前はやはり、そういう不快なものを見る目がある」


綾瀬は返事をしない。

評価として受け取るには、言葉が悪すぎる。だが否定する材料も無い。


斜面の先には、岩場が見えた。

大きな岩が幾つも口を開けるように重なり、その奥へ細い裂け目が続いている。獣が棲むには浅い。人が隠れるには狭い。けれど“何かが一度だけ留まる”場所としては、妙に似合っていた。


綾瀬はそこへ視線を留め、低く言う。


「今夜はあそこを使います」


170-2


準備のため村へ戻る途中、綾瀬は一人だけ少し歩幅を落とした。


紺野と陽鳥が前へ出る。

荒臣はそれを見ていて何も言わない。言わないことが、この人物の“放っておく”ではないと、綾瀬ももう知り始めていた。必要な時だけ拾い上げ、それまでは意図的に人間を放置する。そういう見方だ。


隣へ、紺野が並ぶ。


「疲れたか」


問いは短い。

ぶっきらぼうだが、投げ捨ててはいない。

綾瀬は前を見たまま答える。


「この程度で疲れるなら、最初から来ていません」

「そうか」


会話はそこで切れてもよかった。

だが紺野は珍しく、すぐに離れなかった。

綾瀬が先に言う。


「何ですか」

「いや」


紺野は少しだけ言葉を探してから、低く続ける。


「さっきのお前の見方が、少し気になっただけだ」

「どのあたりがです」

「残されてる、ってところだ」


綾瀬は一瞬だけ口を閉じる。

自分の言葉を自分で反芻する。そうすると、少しだけ別の顔が出てくる。


「護国家は」


綾瀬は視線を前へ置いたまま言う。


「“護る”という言葉を使いたがります」


紺野は黙って聞く。


「国を護る。民を護る。線を護る。秩序を護る。言い方はいくらでもあります」

「悪いことじゃないだろ」

「ええ。悪いことではありません」


綾瀬はそこで、ほんの少しだけ口元を歪めた。


「だから厄介なんです」


風が、白い石の間を抜ける。

海の匂いが薄く混じる。村は近いのに、ここではまだ人の生活の音が届かない。


「護る、という言葉は便利すぎるんです」


綾瀬の声は平坦だった。

だが、平坦にしなければ棘が出すぎるのだと分かる平坦さだった。


「囲うのも、閉じるのも、切るのも、捨てるのも、全部“護るため”の顔ができる。家はそういう言葉の使い方を、当たり前のように仕込む」


紺野は眉を寄せる。


「兄貴もそんな感じか」

「兄さんは、まだましです」


即答だった。

少しだけ、強い声音だった。


「少なくとも、自分が何を終わらせるためにその言葉を使うのかを、分かった上で使っている。家の中には、そこまで考えずに口にする人間もいます」


紺野は小さく息を吐く。


「面倒な家だな」

「ええ」


綾瀬は否定しない。


「でも、その面倒さで育ったので、全部を切ることもできません。骨の方が先にそれで組まれている」


そこまで言ってから、綾瀬は少しだけ沈黙した。

紺野は急かさない。彼もまた、自分の中の説明しにくいものを他人に言う難しさを、東都の後で少し覚えた。


「だから」


綾瀬はゆっくり言う。


「この国が嫌なんです」


紺野が視線を向ける。


「壊れたものを壊れたまま置いておく。止めたまま残す。そういうのは、護るという言葉に一番近い顔をしているのに、たぶん一番たちが悪い」


その言葉は、この国そのものへの嫌悪であると同時に、自分の家の論理へ向けた反発でもあった。


紺野はそれを全部は理解しない。理解しないが、理解しようとする顔だけは作らなかった。無理に分かったふりをしない。それが今の彼なりの誠実さだった。


「……お前が選ばれた理由が少し分かった気がする」


紺野が言う。

綾瀬はそちらを見ずに返す。


「私はまだ分かりません」

「そういうところよ」


横から、陽鳥が言った。


いつの間にか少し歩幅を緩め、二人の会話が聞こえる位置まで戻ってきている。

声は柔らかい。だが、以前のような軽さには逃がして

いない。


「綾瀬さん、自分の嫌悪をちゃんと持ってるでしょう。ここではそれが最も役に立つ」


綾瀬は少しだけ眉を寄せる。


「褒めているのですか」

「半分はね」

「残り半分は」

「私がその役をあまり持ってないって話」


陽鳥はそう言って、微かに笑った。

笑みは薄い。だが、空回りしていない。本音を少し混ぜた時の笑い方だった。


170-3


村へ戻ると、夕方はもうかなり深くなっていた。


井戸のそばに、村人たちが集まっている。

集まっているが、騒いでいない。夜ごと獣に襲われる村の顔ではない。諦め切ってもいない。けれど助かる未来を切実に欲している顔でもない。

この国では、困窮の表情まで少し整いすぎている。

綾瀬は村の中央で一度立ち止まり、四方を見た。


井戸。石組み。低い塀。

細い路地。畑へ抜ける道。


獣は夜に出る。村へ入る。荒らし、人を噛み、また消える。

だったら迎えるしかない。通した後で追うのではなく、入る線を先に整える。


「ここを使います」


綾瀬が指したのは、村の中央を少し外れた三差路だった。


道幅が狭い。左右に低い塀があり、頭上には乾物を干すための細い梁が渡っている。獣の体格なら、速度を落とさずに抜けるにはわずかに窮屈だ。


綾瀬は周囲を見て、続ける。


「一頭ずつに割らせます。数で押されると、今の身体では受け切れません」


紺野が頷く。


「前に立つのは俺か」

「少尉しかいません」

「お前でもいいだろう」

「私が前に立つと、狭い場所での撃ち筋が死にます」


綾瀬の返答は早い。

言い返す余地がない程度に、冷たく正しい。

陽鳥は周辺の壁と梁を見回し、静かに言った。


「なら、私はここに手を入れるわ」

「罠ですか」

「ええ。派手なものは作れない。でも、一拍だけズラすくらいならできるはず」


彼女は調律師の道具を並べ始めた。細糸、針、小瓶、薄板。神術ではない。だが万想狂花の使い手だった女の手つきが、そう簡単に道具を死なせるわけがない。


壁の傷、梁の歪み、足元の石の高さ。その全部へ、小さな“不都合”を仕込んでいく。走る者の重心だけを乱し、噛みつく瞬間の首だけを僅かにぶらし、音の反響を半拍だけ遅らせる。


綾瀬はその手元を横目で見て、少しだけ考えを改めた。


「調律師ですか」

「何?」

「嫌いですが、役としては腑に落ちました」


陽鳥が手を止めずに小さく笑う。


「それはどうも」

「褒めてはいません」

「知ってるわよ」


会話は短い。


だが、どちらも以前より余計に軽くしない。言葉の骨だけを残して、そこへ少しだけ血を通す。今の二人の口調は、そのあたりへ落ち着きつつあった。


村人たちに、家へ入るよう伝える。

誰も反対しない。反対しないこと自体が、綾瀬には少し気味悪かった。


「閉じ込めます」


綾瀬が言うと、紺野がこちらを見る。


「何を」

「村人も、獣もです」


綾瀬は三差路を見たまま答える。


「護る、というのは時々、先に出口を減らすことです。外へ逃がすと見えなくなる。中に留めれば終わらせられる」


その言い方に、紺野は少しだけ黙った。


乱暴だ。だが乱暴なだけではない。護国家の理屈だ。護るために囲い、囲うために切り、切るために線を引く。


綾瀬はそれを嫌っている。嫌っているくせに、使える。使えるから厄介なのだと、紺野には少し分かった。


170-4


準備が終わる頃には、村の空気はもう夜の手前まで薄くなっていた。


陽はまだ完全には落ちていない。

だがこの国では、夜は空から来ない。地面の方が先に夜の性質を帯び、石が冷え、路地が深くなり、人の声の輪郭だけが先に削られる。


三差路の中心に立つと、それがよく分かる。さっきまで村の景色だったものが、今はもう獣を迎えるための盤面へ変わり始めていた。


紺野は剣を抜き、短く呼吸を整える。

右肩はまだ少し重い。だが、重いことを前提に剣を持つしかない。弱い身体で前に立つというのは、以前よりずっと真面目な作業だった。


陽鳥は路地脇の壁へ最後の細糸を渡し、小瓶の蓋を閉める。


綾瀬は弓を引き、狭い角度の射線を二度三度確認した。狙うべき場所は多くない。狭いからこそ、一つの誤差が全体を崩す。


荒臣は一歩引いた位置で、村全体を眺めている。何も持たない。何も持たないまま、この場で一番盤面を見ている顔をしていた。


綾瀬は最後に、紺野へ言った。


「少尉」

「何だ」

「無理に押し切ろうとしないでください。今の身体は、前へ出る価値より、止まれる価値の方が高い」


紺野は少しだけ眉を寄せる。


「命令か」

「助言です」

「命令みたいな顔で言うな」

「そういう顔しかできません」


綾瀬は平然と答えた。


その返答に、紺野は鼻で息を吐く。

笑いにはならない。ならないが、少しだけ肩の力が抜けた。


陽鳥が、壁際から低く言う。


「来るわよ」


音はまだない。

だが、来るのだと分かる。村の外れの静けさだけが、少しずつ歩幅を持ってこちらへ寄ってくる。


綾瀬は弓を構え、紺野は剣先を下げた。

陽鳥は指先で細糸の張りを確かめる。

荒臣だけが、外套の裾を揺らしたまま動かない。


夜が来る。

壊れたものを壊れたまま保存する国の夜が。

その夜の入口で、綾瀬は自分の中にある護国家の言葉を一度だけ噛みしめた。


護る。囲う。閉じる。終わらせる。


嫌いな言葉だ。

だが、嫌いだからこそ見える線もある。


路地の奥で、最初の影が動いた。

綾瀬は息を止める。

この国で初めて、自分がこの場へ選ばれた理由の輪郭が、ほんの少しだけ見えた気がした。


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