百七十話 護る家
百七十話
170-1 護る家
村の外れには、夜が来る前から夜に似た場所がある。
畑のさらに先、低い潅木と白い石がまだらに続く斜面へ入ると、光の減り方が少しだけ早くなる。
陽が沈んでいるわけではない。空はまだ高い。だが、地面の方が先に夕方を始める。石の影が長くなり、草の先の白さだけが妙に冷えて見えた。
綾瀬はその斜面を、誰より先に歩いていた。
狩人の役を与えられたからではない。
与えられる前から、こういう地形を読む歩き方が身体に染みついているのだ。足を置く位置、視線を切る順番、振り返らずとも後ろの距離を測る癖。護国家の教育が何を人間に残すかといえば、まず最初にこういう無駄のない移動だった。
後ろを歩くのは紺野と陽鳥、そのさらに後ろに荒臣。
本来なら逆だろう。あの人物を後ろへ置く配置は気味が悪い。だが今の盤面では、荒臣自身が前へ出るより、三人の歩幅を見ている方が都合が良いのだと綾瀬にも分かった。
「止まってください」
綾瀬が言うと、後ろの三人はすぐに足を止めた。
地面には獣の跡がある。
昨日村を荒らしたものと同じ形。犬に近いが、歩幅が安定していない。右へ流れたと思えば、急に左へ寄る。獣道を辿っているようで、途中で“道だったはずのもの”を忘れる。
その乱れ方に、綾瀬はかえって一定の規則を見た。
「どうだ」
紺野が低く問う。
綾瀬は膝をつき、土へ指を添える。
「二頭分。ここで別れています」
「昨日の残りか」
「たぶん違います」
綾瀬は顔を上げなかった。
「逃げた個体なら、もっと一直線に戻るはずです。これは最初から行き先を一つに決めていません。彷徨ったのではなく、迷うこと自体を含んでいる」
陽鳥が後ろから静かに言う。
「歩き方を忘れたって事?」
「ええ。けれど、完全に失っているわけではありません」
綾瀬は立ち上がる。
自分の言葉が、思ったよりはっきり出た。最初の戦いで、彼女はこの国の嫌な整い方をもう少しだけ掴み始めていた。
「忘れているのに、忘れ切れていない。残されている、という方が近い」
荒臣が後方で小さく笑う。
「結構。お前はやはり、そういう不快なものを見る目がある」
綾瀬は返事をしない。
評価として受け取るには、言葉が悪すぎる。だが否定する材料も無い。
斜面の先には、岩場が見えた。
大きな岩が幾つも口を開けるように重なり、その奥へ細い裂け目が続いている。獣が棲むには浅い。人が隠れるには狭い。けれど“何かが一度だけ留まる”場所としては、妙に似合っていた。
綾瀬はそこへ視線を留め、低く言う。
「今夜はあそこを使います」
170-2
準備のため村へ戻る途中、綾瀬は一人だけ少し歩幅を落とした。
紺野と陽鳥が前へ出る。
荒臣はそれを見ていて何も言わない。言わないことが、この人物の“放っておく”ではないと、綾瀬ももう知り始めていた。必要な時だけ拾い上げ、それまでは意図的に人間を放置する。そういう見方だ。
隣へ、紺野が並ぶ。
「疲れたか」
問いは短い。
ぶっきらぼうだが、投げ捨ててはいない。
綾瀬は前を見たまま答える。
「この程度で疲れるなら、最初から来ていません」
「そうか」
会話はそこで切れてもよかった。
だが紺野は珍しく、すぐに離れなかった。
綾瀬が先に言う。
「何ですか」
「いや」
紺野は少しだけ言葉を探してから、低く続ける。
「さっきのお前の見方が、少し気になっただけだ」
「どのあたりがです」
「残されてる、ってところだ」
綾瀬は一瞬だけ口を閉じる。
自分の言葉を自分で反芻する。そうすると、少しだけ別の顔が出てくる。
「護国家は」
綾瀬は視線を前へ置いたまま言う。
「“護る”という言葉を使いたがります」
紺野は黙って聞く。
「国を護る。民を護る。線を護る。秩序を護る。言い方はいくらでもあります」
「悪いことじゃないだろ」
「ええ。悪いことではありません」
綾瀬はそこで、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「だから厄介なんです」
風が、白い石の間を抜ける。
海の匂いが薄く混じる。村は近いのに、ここではまだ人の生活の音が届かない。
「護る、という言葉は便利すぎるんです」
綾瀬の声は平坦だった。
だが、平坦にしなければ棘が出すぎるのだと分かる平坦さだった。
「囲うのも、閉じるのも、切るのも、捨てるのも、全部“護るため”の顔ができる。家はそういう言葉の使い方を、当たり前のように仕込む」
紺野は眉を寄せる。
「兄貴もそんな感じか」
「兄さんは、まだましです」
即答だった。
少しだけ、強い声音だった。
「少なくとも、自分が何を終わらせるためにその言葉を使うのかを、分かった上で使っている。家の中には、そこまで考えずに口にする人間もいます」
紺野は小さく息を吐く。
「面倒な家だな」
「ええ」
綾瀬は否定しない。
「でも、その面倒さで育ったので、全部を切ることもできません。骨の方が先にそれで組まれている」
そこまで言ってから、綾瀬は少しだけ沈黙した。
紺野は急かさない。彼もまた、自分の中の説明しにくいものを他人に言う難しさを、東都の後で少し覚えた。
「だから」
綾瀬はゆっくり言う。
「この国が嫌なんです」
紺野が視線を向ける。
「壊れたものを壊れたまま置いておく。止めたまま残す。そういうのは、護るという言葉に一番近い顔をしているのに、たぶん一番たちが悪い」
その言葉は、この国そのものへの嫌悪であると同時に、自分の家の論理へ向けた反発でもあった。
紺野はそれを全部は理解しない。理解しないが、理解しようとする顔だけは作らなかった。無理に分かったふりをしない。それが今の彼なりの誠実さだった。
「……お前が選ばれた理由が少し分かった気がする」
紺野が言う。
綾瀬はそちらを見ずに返す。
「私はまだ分かりません」
「そういうところよ」
横から、陽鳥が言った。
いつの間にか少し歩幅を緩め、二人の会話が聞こえる位置まで戻ってきている。
声は柔らかい。だが、以前のような軽さには逃がして
いない。
「綾瀬さん、自分の嫌悪をちゃんと持ってるでしょう。ここではそれが最も役に立つ」
綾瀬は少しだけ眉を寄せる。
「褒めているのですか」
「半分はね」
「残り半分は」
「私がその役をあまり持ってないって話」
陽鳥はそう言って、微かに笑った。
笑みは薄い。だが、空回りしていない。本音を少し混ぜた時の笑い方だった。
170-3
村へ戻ると、夕方はもうかなり深くなっていた。
井戸のそばに、村人たちが集まっている。
集まっているが、騒いでいない。夜ごと獣に襲われる村の顔ではない。諦め切ってもいない。けれど助かる未来を切実に欲している顔でもない。
この国では、困窮の表情まで少し整いすぎている。
綾瀬は村の中央で一度立ち止まり、四方を見た。
井戸。石組み。低い塀。
細い路地。畑へ抜ける道。
獣は夜に出る。村へ入る。荒らし、人を噛み、また消える。
だったら迎えるしかない。通した後で追うのではなく、入る線を先に整える。
「ここを使います」
綾瀬が指したのは、村の中央を少し外れた三差路だった。
道幅が狭い。左右に低い塀があり、頭上には乾物を干すための細い梁が渡っている。獣の体格なら、速度を落とさずに抜けるにはわずかに窮屈だ。
綾瀬は周囲を見て、続ける。
「一頭ずつに割らせます。数で押されると、今の身体では受け切れません」
紺野が頷く。
「前に立つのは俺か」
「少尉しかいません」
「お前でもいいだろう」
「私が前に立つと、狭い場所での撃ち筋が死にます」
綾瀬の返答は早い。
言い返す余地がない程度に、冷たく正しい。
陽鳥は周辺の壁と梁を見回し、静かに言った。
「なら、私はここに手を入れるわ」
「罠ですか」
「ええ。派手なものは作れない。でも、一拍だけズラすくらいならできるはず」
彼女は調律師の道具を並べ始めた。細糸、針、小瓶、薄板。神術ではない。だが万想狂花の使い手だった女の手つきが、そう簡単に道具を死なせるわけがない。
壁の傷、梁の歪み、足元の石の高さ。その全部へ、小さな“不都合”を仕込んでいく。走る者の重心だけを乱し、噛みつく瞬間の首だけを僅かにぶらし、音の反響を半拍だけ遅らせる。
綾瀬はその手元を横目で見て、少しだけ考えを改めた。
「調律師ですか」
「何?」
「嫌いですが、役としては腑に落ちました」
陽鳥が手を止めずに小さく笑う。
「それはどうも」
「褒めてはいません」
「知ってるわよ」
会話は短い。
だが、どちらも以前より余計に軽くしない。言葉の骨だけを残して、そこへ少しだけ血を通す。今の二人の口調は、そのあたりへ落ち着きつつあった。
村人たちに、家へ入るよう伝える。
誰も反対しない。反対しないこと自体が、綾瀬には少し気味悪かった。
「閉じ込めます」
綾瀬が言うと、紺野がこちらを見る。
「何を」
「村人も、獣もです」
綾瀬は三差路を見たまま答える。
「護る、というのは時々、先に出口を減らすことです。外へ逃がすと見えなくなる。中に留めれば終わらせられる」
その言い方に、紺野は少しだけ黙った。
乱暴だ。だが乱暴なだけではない。護国家の理屈だ。護るために囲い、囲うために切り、切るために線を引く。
綾瀬はそれを嫌っている。嫌っているくせに、使える。使えるから厄介なのだと、紺野には少し分かった。
170-4
準備が終わる頃には、村の空気はもう夜の手前まで薄くなっていた。
陽はまだ完全には落ちていない。
だがこの国では、夜は空から来ない。地面の方が先に夜の性質を帯び、石が冷え、路地が深くなり、人の声の輪郭だけが先に削られる。
三差路の中心に立つと、それがよく分かる。さっきまで村の景色だったものが、今はもう獣を迎えるための盤面へ変わり始めていた。
紺野は剣を抜き、短く呼吸を整える。
右肩はまだ少し重い。だが、重いことを前提に剣を持つしかない。弱い身体で前に立つというのは、以前よりずっと真面目な作業だった。
陽鳥は路地脇の壁へ最後の細糸を渡し、小瓶の蓋を閉める。
綾瀬は弓を引き、狭い角度の射線を二度三度確認した。狙うべき場所は多くない。狭いからこそ、一つの誤差が全体を崩す。
荒臣は一歩引いた位置で、村全体を眺めている。何も持たない。何も持たないまま、この場で一番盤面を見ている顔をしていた。
綾瀬は最後に、紺野へ言った。
「少尉」
「何だ」
「無理に押し切ろうとしないでください。今の身体は、前へ出る価値より、止まれる価値の方が高い」
紺野は少しだけ眉を寄せる。
「命令か」
「助言です」
「命令みたいな顔で言うな」
「そういう顔しかできません」
綾瀬は平然と答えた。
その返答に、紺野は鼻で息を吐く。
笑いにはならない。ならないが、少しだけ肩の力が抜けた。
陽鳥が、壁際から低く言う。
「来るわよ」
音はまだない。
だが、来るのだと分かる。村の外れの静けさだけが、少しずつ歩幅を持ってこちらへ寄ってくる。
綾瀬は弓を構え、紺野は剣先を下げた。
陽鳥は指先で細糸の張りを確かめる。
荒臣だけが、外套の裾を揺らしたまま動かない。
夜が来る。
壊れたものを壊れたまま保存する国の夜が。
その夜の入口で、綾瀬は自分の中にある護国家の言葉を一度だけ噛みしめた。
護る。囲う。閉じる。終わらせる。
嫌いな言葉だ。
だが、嫌いだからこそ見える線もある。
路地の奥で、最初の影が動いた。
綾瀬は息を止める。
この国で初めて、自分がこの場へ選ばれた理由の輪郭が、ほんの少しだけ見えた気がした。




