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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
番外章 ニライカナイ 未来彼方
171/193

百六十九話 最初の村


百六十九話


169-1 最初の村



最初に腹が立ったのは、敵ではない。自分の身体だ。


景色が裏返った後、一行が立っていたのは、広場から伸びる細い街道の上だった。白っぽい土が踏み固められ、両脇には低い石垣と、背の低い木々が続いている。海は見えない。見えないのに、潮の匂いだけが風に混じる。


空は高い。だが、帝都の空とも東都の空とも違う。色の奥行きが一段薄く、青さの向こうへ距離を逃がしてくれない。見上げるほど、頭上の広がりではなく、何か大きな蓋の内側を歩かされている感じがした。


紺野健太郎は一歩だけ踏み出し、すぐに分かった。

身体が軽いのではない。薄い。


筋肉は動く。呼吸も乱れていない。足も前へ出る。だが、その一歩を“押し切る”ための裏打ちが無い。普段なら、地面を踏んだ瞬間にこちらの出力へ応じて沈み、あるいは軋み、少なくとも自分がどれだけ強く立っているかを周囲が先に教えてくる。


ここでは何も教えてこない。

地面は地面のまま硬く、身体は身体のまま小さい。自分が弱いというより、ようやく人間の大きさへ戻されたと言った方が近い。


右手の剣を握る。

細い。軽い。振れば素直に風を切る。だがそれだけだ。


この刃に自分の異常さは何一つ乗らない。間合いと速度と、振り抜く覚悟だけで人を斬るための剣。正二位の理不尽を受け止める器ではない。だからこそ、手の中でやけに真面目だった。


「どうです」


綾瀬が、背後から短く問う。

彼女はもう弓の弦を張り直し、矢筒の位置まで整えている。適応が早い。早すぎるほどだ。場が変わった時、まず自分の身体と道具の距離を測る。それが染みついた人間の動きだった。


紺野は剣先を軽く下げる。


「良くはない」

「ええ。見れば分かります」


声音は平坦だ。

だが棘は少し弱い。今は互いを刺している暇がないと、綾瀬も理解している。


陽鳥は少し離れた位置で、調律師の道具を一つずつ指先で確かめていた。小瓶、針、細糸、薄板、札に似た小片。器具の名前はまだ与えられていない。けれど、どれが何に近いかを、彼女の手だけが先に嗅ぎ取っている。


「……静かね」


陽鳥が言う。


「何がだ」


紺野が問うと、彼女は少しだけ指を止めた。


「頭の奥。いつもならもう少しうるさい」


それだけで足りた。


虫だ。万想狂花の子機や親機という意味ではない。もっと前段の、観測と制御の回路が静かすぎるのだ。道具はある。けれど、それを増やし、噛ませ、連鎖させる“元の言葉”がここにはない。


「不安か」


紺野が言う。

問いとしてはぶっきらぼうだ。だが、前みたいに投げ捨てる硬さではない。

陽鳥は少し考えてから答えた。


「不安というより、空白に近い。手足を切られた感じではない。今まで使っていた地図だけ抜かれて同じ街に立たされているような……そんな感じ」

「分かりにくいな」

「分かって貰うために言ってないから」

「そういう言い方をするからだ」

「でも、今のはかなり丁寧に言った方よ」


会話は短い。

だが軽くはない。言葉の置き方だけに薄く柔らかさがある。


荒臣は街道の先を見たまま、後ろを振り返らない。


「結構なことだ」

「何がですか」


陽鳥が問う。


「全員、不愉快そうでな」


荒臣の声には、いつもの皮肉が少し戻っていた。


「理不尽を奪われた直後に安堵しているようでは、向こうの思う壺だ。己の弱さにまず腹を立てられるなら、まだ自分の輪郭を見失っていない」


綾瀬が乾いた声で言う。


「閣下は、楽しんでおられるように聞こえます」

「まさか。私は今、胸くその悪いほど不便だ」


荒臣はそこでようやく振り返った。

小柄な身体に、魔王の席を与えられた者の顔が乗っている。だが威圧はない。威圧するだけの理不尽を、今は剥がされているからだ。

その代わり、妙に指揮官らしい落ち着きだけが残る。


「行くぞ。弱い身体で立つ時、人間は二つの誤りをする。怯えて止まるか、以前の癖で踏み込みすぎるかだ。どちらも見苦しい」


紺野は舌打ちしそうになって、やめた。

今の自分は後者に近いと、もう半分ほど自覚していたからだ。


169-2


街道を下りきった先に、村があった。


村と呼ぶには整いすぎている。

だが町と呼ぶには呼吸が少ない。白い壁の低い家が十数軒。屋根は揃って低く、道幅は狭い。中心に井戸があり、その周囲へ干した網と、形の良い木箱と、小さな祭壇めいた石組みが置かれている。


生活の痕跡はある。あるのに、生活の乱れが少ない。洗濯物は風に揺れている。だが乱れていない。木戸は開いている。だが軋んでいない。

人の暮らしというものは、普通もう少し雑だ。ここは、その雑さだけが薄く削がれていた。


村人はいた。

年寄りも、女も、子供もいる。こちらを見る。見るが、ぎょっとしない。旅人が来た時の驚き方を知っていて、その驚き方を丁寧になぞっているような、少し遅い反応だった。


一人の男が井戸端から立ち上がり、こちらへ歩いてくる。三十代半ばほどに見える。潮と風に焼けた肌、丈夫そうな腕、だが目の奥にだけ年齢と噛み合わない静けさがある。


「旅の方ですか」


声は普通だった。

普通だが、“今この瞬間に声をかけるべきだ”と先に決まっている脚本の上へ乗っているみたいに正しい。

荒臣が一歩前へ出る。


「そう見えるか」

「見えます。ここへ来る人は多くありませんから」

「では、少ないものを見慣れている顔だな」


男はそこで小さく笑った。


笑う。だが、その笑いの終わり方がやけに綺麗だ。人の笑いは、もう少し尾を引く。ここでは尾だけが先に切られている。


「困りごとでも」


男が言う。


紺野は周囲を見回した。

困っているようには見えない。腹を空かせた顔も、争った痕跡も、荒れた家屋もない。なのに、荒臣は迷わず問う。


「あるのだろう」


男は頷いた。


「はい」


短い返答だった。

それだけで、村の空気が少しだけ変わる。今まできれいに整っていた日常の面が、一枚だけ剥がれて裏を見せる。


井戸の縁に古い欠けがあった。さっきまではただの傷に見えたそれが、今は“長く直されていないもの”の顔になる。道の先の木戸の蝶番が片方だけ妙に新しい。遠くの柵に干された網は、ひとつだけ目が破れたまま繕われていない。


村人たちは、困っている。

だが、その困り方まで丁寧に保存されている。

騒いでいないのではなく、騒げる段階をもう少し前で止められているのだと、紺野はようやく気づいた。


「獣が出ます」


男がそう言う。


「夜ごとに、畑を荒らし、人を噛みます。殺された者はいません。まだ」


“まだ”がやけに静かだった。

静かすぎて、かえって嫌な重みが出る。

綾瀬がすぐに訊く。


「数は?」


「決まっていません。二つの夜もあれば、六つの夜もある。出る道も、決まっているようで決まっていない」

「傷の特徴は」

「噛み跡と、爪です」


綾瀬の質問は早い。


宗一に似ている。だが似ているだけで、そこにもう少し鋭い棘がある。最短で危険へ手をかけにいく訊き方だ。


陽鳥は別の方向から訊いた。


「死んでいないのに、残る傷はありますか」


男は一瞬だけ考え、それから頷いた。


「夜を越えた方が、朝に少し静かになります」


陽鳥の目が細まる。

それが意味するところを、彼女だけがいち早く嗅いだのだろう。


荒臣が言う。


「案内しろ。畑と、最初に出た場所へ」


男は頷いた。

頷き方まで落ち着きすぎている。困っている村の男の顔をしているのに、その困窮がどこか長く固定されている。


紺野はその横顔に、東都とは別の種類の気味悪さを覚えた。ここでは“助けを求める者”の形まで保存されている。


169-3


獣は、日が落ちる前に出た。


畑は村の外れにあった。

背の低い柵で囲まれ、細い畝が何本も走っている。葉物は食われ、根菜の土は掘り返され、踏み荒らされた跡が湿ったまま残る。荒らし方には一貫性がない。腹を満たすためだけに来ているなら、もっと効率の良い食い方をするはずだ。


綾瀬が膝をつき、足跡を見た。眉間の皺が少し深くなる。


「犬に近い。けれど、足幅が安定していません」

「怯えている?」


紺野が問う。


「違います。どちらかと言えば、歩き方を忘れたみたいです」


その表現が気に入らなかった。

気に入らない、ということは正しいのだろう。


荒臣は畑の端に立ち、村全体を一瞥していた。

何かを探している。何を見ているのかは分からない。だが今の荒臣は、“強さ”ではなく“盤面”を見ている顔をしている。


陽鳥が畝の脇へしゃがみ込み、土を指で擦った。


「匂いは残ってる」

「獣のか」

「それだけじゃない。ここの夜は人を薄くしてる」


言いながら、彼女は小瓶のひとつを開ける。中には透明な液が僅かに入っていた。陽鳥はその液を土へ垂らし、針の先で円を描く。


何が起こるか分からない。分からないまま見ていると、液は土に吸われず、薄い膜のまま広がった。膜の表面へ、夜露にも似た細い粒がいくつも浮く。


「調律師、ね」


紺野が低く言う。

陽鳥は手を止めずに答える。


「嫌いじゃないけどね。この呼び方。神術じゃないけど、噛み合わせる仕事ではあるから」


そこでだった。

柵の向こうの藪が、先に鳴った。

獣が飛び出す。三頭。いや、四頭目もいる。


犬に似ている。だが似ているだけだ。肩が高すぎる。前脚が長く、背骨の曲がり方が途中で一度だけおかしい。何より、目だ。腹を空かせた獣の目ではない。獲物を狙っているのに、狙うという行為に熱がない。

生活の中へ出てきてしまった“保存された飢え”が、そのまま四つ足の形を取ったようだった。


「来ます」


綾瀬が言う前に、もう動いていた。


矢が一本、最も前の獣の前脚へ突き刺さる。正確だ。だが、未来軌道の補助が無いぶん、絶対ではない。獣は軌道を少しだけ変え、肩を捻って傷を浅くしたまま突っ込んでくる。


紺野は前へ出た。

以前の癖で踏み込みすぎないように、意識して一歩を削る。

剣は軽いが、軽いからこそ間合いが厳密になる。半歩ずれれば終わりだ。


最前の獣が跳ぶ。口が開く。牙が見える。紺野は振り下ろさず、横へ払った。喉元ではなく肩口。斬るというより弾く軌道。


刃が肉を裂く。浅い。だが、浅いから次が間に合う。

二頭目が横から来る。陽鳥の投げた細い札が鼻先で弾け、獣の動きがほんの一拍だけ鈍る。その一拍が、人間の身体には十分長い。


紺野の脇腹へ爪が掠めた。

熱い。

浅いが、浅いままでは済まない痛みだった。神術で押し切れない以上、こういう傷がそのまま戦いへ食い込んでくる。


「紺野少尉、下がって」


陽鳥の声が飛ぶ。


「下がらない」

「今の身体で無茶をすると、あっという間に詰むわ」

「分かってる」


答えながら、紺野は三頭目の噛みつきを剣の腹で受けた。重い。重いのに、以前なら重さそのものを壊せたはずの自分の身体が、今は人間の腕としてきちんと痺れる。

腹が立つが、その腹立たしさごと身体の大きさへ戻されている。


綾瀬の二射目が、今度は正確に獣の目を抜いた。

一頭が転がる。残る二頭の片方へ、陽鳥が針付きの細糸を投げる。糸は獣の脚へ絡み、次の一歩だけを不自然にずらす。


ほんの小さな妨害だ。だが、小さいからこそ効く。神術の代わりにはならない。代わりにはならないが、今の戦場ではこれで十分だった。


最後の一頭が、柵を飛び越えて逃げようとする。

綾瀬が追い、紺野が止めるより先に、荒臣が一歩だけ前へ出た。


荒臣は何も持っていない。

剣も、札も、弓もない。魔王という役に与えられた不親切な空白だけがある。


その空白のまま、彼女は低く言った。


「伏せろ」


誰に向けてか、一瞬分からない。

だが綾瀬も紺野も、反射で身を落とした。

次の瞬間、獣の足元の土だけが沈んだ。


術ではない。

少なくとも、こちらの世界で言う術ではない。地面が自分の方から一拍だけ深くなり、跳ねようとした獣の脚をそこで絡め取る。荒臣自身が強いから起きた現象ではない。盤面の側が、“魔王”へ少しだけ便宜を図ったような、そういう不吉な力だった。


獣は転び、綾瀬の矢が喉へ入る。

それで終わった。

終わったのに、誰もすぐには息をつかなかった。

弱い敵だったはずだ。実際、理不尽な格差の戦場で見れば、取るに足らない。


だが今の身体で受けた爪の痛みと、間合いの厳しさと、僅かな誤差で死ねるという感覚が、生々しすぎた。


169-4


村人たちは、戦いが終わってからようやくこちらへ寄ってきた。


助かった者の顔をしている。感謝もしている。

だが、その感謝の温度まで、どこかきれいに整えられていた。

最初に声をかけてきた男が、深く頭を下げる。


「ありがとうございました」


礼としては正しい。

正しいが、紺野はその正しさに背筋が寒くなる。


地面には獣の死体がある。

血も流れている。爪で裂かれた土も、折れた柵もそのままだ。にもかかわらず、村の空気だけが“これもまた村の日常の一部だ”という顔へ戻り始めている。


異常を異常として跳ね返すのではなく、異常ごと自分たちの形へ組み込もうとしていた。

陽鳥が、倒れた獣の脇へしゃがむ。


「……やっぱり」

「何が」


紺野が問う。

陽鳥は獣の瞼を指で持ち上げ、すぐに離した。


「空っぽなのよ、これ。生きてはいた。でも、減り方が普通じゃない」


綾瀬も近づき、死骸を見る。


「減り方?」

「夜を越えるごとに、何かを少しずつ持っていかれていた個体。腹が減っていたというより、減らされた分を埋めるみたいに噛んでいたのね」


男がその言葉を聞いて、静かに言う。


「噛まれた者も、朝には少し静かになります」


誰もすぐには返さない。静かになる。

それは村人が先に言っていた。だが今こうして獣の死骸と並べられると、その意味が嫌でも濃くなる。


ここでは死なない。すぐには。

その代わり、少しずつ静かになる。少しずつ削られる。削られたまま、壊れ切らずに残される。


紺野は村を見た。


井戸の欠け。木戸のずれ。

祭壇めいた石組み。整いすぎた感謝。


全部が一つの方向を向いていた。

壊れたものを直さないのではない。

壊れたままの形を、この国の理屈が先に受け入れてしまう。

東都は壊れたまま動く。ここは壊れたまま止まる。

その違いが、ようやく骨へ入る。


荒臣が村人へ告げる。


「今夜も出るかもしれん」


男は頷く。


驚かない。拒絶もしない。その頷き方にまで、長い停滞が染み込んでいる。


「では、泊まっていきますか」


彼は、ごく自然な調子でそう言った。

紺野はその一言に、村へ入った時よりも強い違和感を覚える。


助けを求める者の言葉ではない。遊戯の盤面が次の場面を提示する時の言葉に近い。

彼方の主は、まだここへ来ていない。


だがもう分かる。

この国では、人も村も獣も、困りごとでさえ“ちょうどよい形”へ整えられて残される。


陽鳥が低く言う。


「最初の村から、趣味が悪いわね」


荒臣は視線を外さないまま答えた。


「だから言っただろう。趣味ではない。思想だ」


夕方が近づいていた。


光はまだ明るい。だが、ここでは夜が昼の続きとして来るのではなく、昼の中から静かに生えてくる。

最初の戦いは終わった。

だが終わった気がしない。


終わらないまま保存されるものがどういう顔をしているのかを、一行はもう見てしまっていた。


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