百六十七話 ニライカナイ
百六十七話
167-1 ニライカナイ
海が口を開いた、という表現は比喩ではなかった。
艦の前方で歪んでいたものは、近づくにつれて霧でも蜃気楼でもなくなった。空気でもない。光でもない。もっと手前の、距離そのものの膜だった。
海面は続いている。波もある。艦首はその波を切って進んでいる。なのに、ある一点を越えた瞬間、進むという感覚だけが急に別のものへ置き換わった。
音が遅れた。
船腹を叩く水音が、一拍遅れて耳へ届く。帆具の軋みも、甲板員の靴音も、皆わずかに遅い。遅いのに、景色の方は先へ進む。
紺野健太郎は咄嗟に手すりを掴んだ。揺れたわけではない。身体の方は揺れていない。内臓だけが、距離の裏返る感覚に小さく遅れた。
「……っ」
声を出しかけて、出すのをやめる。
前方に陸が見えていた。
いや、陸と呼んでよいのか一瞬迷う。島影に見える。白い砂の浜に見える。黒い岩の稜線にも、低い森の縁にも見える。見えるのに、どの見え方にも決め切れない。
近いのか遠いのか、まずそこが定まらない。目は“あそこにある”と告げる。身体は“まだ着いていない”と言う。海だけが、その両方を平然と両立させていた。
陽鳥が手すりへ指をかけたまま、低く言う。
「これ、海を渡っている感じがしない」
「ええ」
綾瀬が短く応じる。
彼女の声は平坦だ。だが平坦にしないと、嫌悪が先に出そうな時の平坦さだった。
「境界に飲み込まれている感じです」
荒臣だけが、艦首側で微動だにしない。
外套の裾が風に揺れる。小柄な背中だ。だが、この異様な海の前で、その背だけが少しも縮まない。
「結構」
荒臣は振り返らずに言った。
「ようやく着いたと考えろ。海というものは本来、陸から陸へ人を運ぶ道ではない。こちらと向こうを、互いに少しずつ諦めさせるための距離だ」
「ありがたくない説明ね」
陽鳥が言う。
軽くはない。言葉の置き方だけが柔らかい。
荒臣はわずかに肩を竦めた。
「感謝されるために説明しているわけではない。むしろこの場で感謝されると気味が悪い」
艦がさらに進む。
進むというより、海の方が一行を少しずつ向こう側へ移していく。背後の空はまだこちらの色をしている。前方の空だけが、既に別の薄さだった。
やがて、艦底の下で波の質が変わった。
深い海の底鳴りが消える。
浅瀬へ入ったのではない。底はまだ深い。なのに、水が何かを遠慮しているみたいに静かになる。
見張りの兵が息を呑む気配がした。誰も口には出さない。出さないことが、この海では正しい気がした。
そして、艦首が一度だけ小さく沈み、次の瞬間にはもう、向こう側の浜を前にしていた。
167-2
最初に陸へ降りたのは荒臣だった。
音がしない。
いや、音はある。靴底が砂を踏む音、遠い波打ち際の擦れる音、風が低い木々を抜ける気配。どれもちゃんとある。あるのに、それら全部が先に一度だけ濾されている。
耳へ入る前に、何かが“響きすぎないように”整えてしまうのだ。
紺野は続いて浜へ降りた。
足元の砂は白い。白いが、眩しい白ではない。何か長く陽を浴びたあと、色だけを薄く洗い落としたような白さだった。
海水は透明に近い。近いが、生きた海の光り方ではない。浅瀬に打ち上がった貝殻が幾つも見える。その幾つかは割れている。割れているのに、捨てられた感じがない。割れた形のまま、丁寧にそこへ置かれている。
綾瀬がしゃがみ込み、足元の貝殻を見た。
「……気持ちが悪い」
それは感想だった。分析ではなく、先に身体が出した判定だ。
陽鳥が少し遅れてその横へ視線を落とす。
「壊れてるのに、片づいてないから?」
「違います」
綾瀬は目を離さない。
「片づいていないんじゃない。これで完成している顔をしています」
その言い方に、陽鳥は何も返さなかった。
返せないのではない。正確すぎるからだ。
浜の先には低い石段があり、その向こうに小さな町が見えた。
町、としか言いようがない。都ほど大きくはない。村と呼ぶには整っている。白い壁、低い屋根、緩やかな坂道、植えられた木々。海辺の街らしい形だ。
だが、そこにも同じ違和がある。
井戸の縁に小さな欠けがある。
軒先に吊るされた木札の角が一つ折れている。
石畳に長く細いひびが走っている。
どれも普通なら修繕されるか、せめて目につかぬように片づけられる程度の傷だ。だがここでは、その傷ごと町の形に組み込まれていた。
壊れている。
壊れているのに、滅びていない。
滅びていないのではなく、滅びないまま止められている。
東都は壊れたまま回り始めていた。
人が歩き、列車が走り、値段が上がり、書類が積まれた。壊れたものを壊れたまま動かす、あの都市の戦後だ。
だが、ここは違う。
ここでは壊れたものが、壊れたまま止まっている。
「……東都の方が、まだ人間の世界ね」
陽鳥が言う。
その声には、薄い疲労が混じっていた。観測者としての好奇心より先に、制御しきれない違和感が来ている。
荒臣は石段を見上げたまま答える。
「当然だ。あちらは壊れてもなお人が住む場所で、こちらは残すために壊れ方まで保存する」
「趣味が悪い」
綾瀬が低く言う。
荒臣はそこで初めて笑った。
「趣味ではない。思想だ。趣味で済むなら、私ももう少し気楽に嫌えた」
167-3
石段の上に、人影が立っていた。
最初からいたようにも見えた。
いなかったようにも見える。
この国では、人の気配だけが景色と同じ遅さで現れる。
それは一人だった。
長い衣をまとっている。白でも灰でもない、海霧を織ったような薄い色。風はあるはずなのに、裾の揺れ方が少し遅い。髪は長い。濡れていないのに、水の近くでだけ見える重さを持って肩から落ちている。
女に見えた。だが、性別を先に考えるのが場違いに思える程度には、その人は人間の尺度から半歩外れていた。
顔立ちは整っている。
整っているが、端正という言葉が先に立たない。先に来るのは“長くそこにあるもの”の気配だ。人が歳を取る時の重さとも違う。もっと大きなものを、一度人の顔へ落とした時の静かな不一致。
彼方の主。
ニライカナイの女王
名を教えられたわけではない。
だが、そうとしか呼べないと紺野は思った。
その人は石段の上から四人を見下ろし、ゆっくりと微笑んだ。
柔らかい。
柔らかいのに、迎えられた気がしない。拒絶されてもいない。ただ、ここへ来たこと自体が既に遅い確認であるような、奇妙な落ち着きがある。
荒臣が一歩だけ前へ出る。
「彼方の主よ」
呼び方に迷いがない。
天帝の前ほどではない。だが、普段の荒臣とも違う。皮肉を引き算した声だ。ここでだけ無駄に刃を見せても意味がないと知っている声音だった。
彼方の主は小さく頷く。
「ようこそ、硯さん」
声は静かだった。
高くも低くもない。丁寧だが、礼儀のための丁寧さではない。人に向ける言葉を長く使ってきたが、今もなお人だけへ向けているわけではない、そういう響きだった。
視線が荒臣の後ろへ移る。
紺野、陽鳥、綾瀬。その順に見て、ほんの少しだけ目を細める。
「ずいぶん、やさしい人選ですね」
綾瀬の眉がぴくりと動く。
陽鳥は何も言わない。紺野は黙ったまま、その人の視線の置き方だけを見ている。値踏みではない。観察でもない。もう少し静かで、もう少し深い。
荒臣は淡々と返す。
「陛下がそう仰った」
「ええ。あの方は、そういうところがお上手です」
彼方の主は笑う。
笑い方も柔らかい。だが、その柔らかさが人間を安心させるようには働かない。波の音が心地よいのに、沖へ引かれる感覚だけは消えない時と似ていた。
「こちらへ」
石段の上から、彼方の主が手を差し伸べる。
差し伸べるだけだ。
命令ではない。催促でもない。
それなのに、一行はその手がこの国の入口そのものであることを、説明される前から理解していた。
167-4
石段を上がる。
たったそれだけで、景色の距離がまた少し裏返った。
町へ近づいたはずなのに、近づくほど町の輪郭が遠くなる。家々はある。木々も、井戸も、坂道も、遠くに塔のようなものまで見える。
だが、全てが“そこにある”ことと“まだ届かない”ことを同時に保っている。
石段の上に立つと、浜がもう一段下の世界に見えた。
背後の海も、先ほどまで乗っていた艦も、まだ見えている。見えているのに、戻るための距離としては既に機能していない。振り返れば帰れる、という感じが綺麗に削られている。
彼方の主は四人の顔を一つずつ見た。
紺野は、その目に東都の夜の自分まで映されている気がした。
陽鳥は視線を受け止めながらも、半歩ぶんだけ肩の力を固めている。
綾瀬は真正面から見返している。嫌悪を隠さない。隠さないことが、この場では一番まともだった。
彼方の主は、ふいに綾瀬へ言った。
「あなたは、この国が嫌いになれそうですね」
綾瀬は少しも怯まなかった。
「最初から、あまり好きではありません」
「そうですか」
彼方の主は嬉しそうでも不快そうでもなく、ただ頷いた。
「それなら大丈夫」
何がだ、と紺野は思う。
だが口へ出す前に、彼方の主の視線がこちらへ移る。
「あなたは、まだ分からないでしょう」
言われた瞬間、紺野の胸の奥で何かがわずかに止まる。
何が、と訊くのは簡単だ。だが、その問いはもう数日来、自分の中に居座っている。東都の夜、自分の底に何があったのか。止められてなお残ったものが何なのか。
分からない。確かに分からない。
彼方の主は、その沈黙へ微かに笑みを足した。
「ええ。それでいいのです」
陽鳥が、その言葉の先を探るように口を開いた。
「私たちは、ここで何をするの?」
彼方の主は、今度こそはっきりと微笑んだ。
「難しいことではありません」
その柔らかい声が、この国の静けさにすっと溶ける。
「少しだけ、遊びましょう」
言葉は軽い。
軽いはずなのに、軽く聞こえない。
遊び。そう呼ばれた瞬間、紺野はかえって背筋が冷え
た。真剣勝負や裁きや試練と名乗られるより、ずっとたちが悪い。遊びという言葉には、相手の尺度を飲み込む怖さがある。
荒臣だけが、そこで小さく息を吐いた。
呆れでも嘆息でもない。予想していたものが、予想通りの顔で現れた時の息だった。
「相変わらずだな」
彼方の主は楽しげに首を傾げる。
「変わらないものを預かるのが、こちらの役目ですから」
その返答に、誰もすぐには言葉を返せない。
風が吹いた。
町の軒先で小さな鈴が鳴る。浜の波が遠くで返る。割れたままの器が、井戸端で光を拾う。
この国は優しい顔をしていた。だが、その優しさは人間を慰めるためのものではない。壊れたものまで壊れた形で残してしまう、もっと大きな原理の優しさだ。
紺野は目の前の町を見た。
壊れたまま止まっている国。
戻ることも進むことも、少しだけ拒まれた景色。
東都では都市が壊れた。
ここでは、壊れ方そのものが保存されている。
彼方の主が踵を返す。
「参りましょう。席はもう整っています」
その言葉とともに、町の奥の方で、目には見えない何かが静かに組み上がる気配がした。
遊びの席。
まだ何も始まっていない。始まっていないのに、一行の足元から、こちら側の法則だけが少しずつ剥がれ始めている。
四人は歩き出す。
彼方の主の後ろを。
壊れたまま止まっている国の中へ。
海の向こうは、既に人間の都合で測れる場所ではなかった。




