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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
番外章 ニライカナイ 未来彼方
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百六十六話 海の向こうへ


百六十六話


166-1 海の向こうへ



出立の朝というものは、たいてい慌ただしい顔をしてやって来る。


荷が足りない、時間が足りない、確認が足りない。誰かが走り、誰かが怒鳴り、最後に誰かが忘れ物をする。そういう俗な騒がしさが、出立というものにはよく似合う。


だが、その朝の近衛本部には、そういう音がほとんど無かった。


静かで、しかも澄んでいるわけではない。東都戦の夜を越えてから居座り続けている、あの静かさだ。物事が落ち着いたからではなく、次に何かが動くまでのあいだだけ、街と人が息を浅くしている時の静けさ。

海の方角だけが、見えない綱で引かれているように薄く重い。


執務室では、羽場桐妙子が机の上の最後の確認を終えていた。


同行者四名の行程整理。帝都側の引き継ぎ。東都後処理に関する連絡優先順位。宗一への文書束。東雲への待機要請。高倉へ流通系統の異常観測の継続指示。必要なものは既に配置され、不要なものは最初から外されている。

副官の仕事というのは、見事に片づいた時ほど目立たない。


荒臣は窓際に立っていた。


黒の外套を肩へ掛け、その下に白基調の軍装。少女の外見に、その衣装だけが似合いすぎる。いや、似合っているのではない。周囲の景色の方が、この人物へ合わせて色を落としている。


「妙子」

「はい」

「もう一度だけ訊くが、ここへ残ることに不服はあるか」


羽場桐は手を止めなかった。

止めないまま答える。


「あります」


荒臣が、そこでわずかに目を細めた。


「珍しく正直だな」

「副官としては同行すべきです。少なくとも私はそう考えています」

「だが残る」

「はい」


返答は淀まない。


感情と判断が綺麗に分かれている声だった。いや、分けるためにここまで整えてきたのだろう。羽場桐は荒臣の横に立つ者であり、だからこそ、横に立てない時の仕事を理解している。


荒臣は机へ戻り、指先で書類束の端を一度揃えた。


「お前が同行すると、向こうで私は少し楽をしてしまう」


羽場桐の睫毛が、ほんの僅かに動く。


「皮肉ですか」

「半分はな。残り半分は、あまり愉快ではない事実だ」


荒臣はそう言って、小さく息を吐いた。


「私は、お前がいると“今の私”を維持しやすい」


その一言は、普段の皮肉めいた饒舌とは違っていた。


説明に見えて、説明ではない。事実の断片だけを、わざと整えずに置いた声だ。

羽場桐はようやくペンを置いた。

机越しに荒臣を見る。見上げるでも見下ろすでもない、距離の正しい視線だった。


「維持しにくい場所へ行かれるのですね」

「だからこそだろう」


荒臣は笑わない。

笑わないまま、どこか自嘲に近い響きを言葉の底へ混ぜる。


「陛下が私を行かせる時というのは、たいていそういう時だ。私ひとりで行っても問題は起こせる。だが、問題が起こった時に私ひとりで片づけるのは、あまり上等な形ではない」

「それで、紺野少尉たちを」

「連れていく」


答えは短い。


だが、その短さの裏にあるものを羽場桐は理解していた。荒臣の本当の選定基準は、強さでも便利さでもない。もっと根の深い、脆さに近いところだ。


それをここで言葉にしてしまえば、たぶん何かが安くなる。だから言わない。

羽場桐は立ち上がり、机の前で一礼した。


「閣下」

「何だ」

「無事にお戻りください、とは申しません」


荒臣の口元が、ほんの少しだけ動く。


「結構。そんな凡庸な言葉をお前が使うと、こちらの病が移りそうだ」

「ですが、戻られた時にまだ“今の閣下”でいられるよう、こちらは受け皿を保ちます」


執務室の空気が、一瞬だけ止まる。

荒臣はそこで初めて、小さく笑った。

皮肉屋の笑いだ。だが、皮肉だけでは済まない色が混じっている。


「妙子」

「はい」

「副官というのは、時に嫌なものだな。本人が見たくないものまで見ている」

「そのためにおります」

「そうか」


それだけ言って、荒臣は軍帽を取った。

外へ出る前のいつもの癖で、内側を指で一度撫でる。


「なら、留守を任せる」

「はい。行ってらっしゃいませ、閣下」


その挨拶は柔らかくない。

柔らかくないからこそ、重かった。


166-2


本部の玄関前には、既に三人が揃っていた。


紺野健太郎は荷を少なくまとめている。必要なものだけを持ち、不要な迷いは顔へ出したまま隠していない。右肩の傷はまだ万全ではないが、それを気遣われる位置からはもう出ている。


珠洲原陽鳥はいつもより荷が多い。多いが、重装備という印象にはしないよう整理されている。彼女らしい、制御の行き届いた積み方だった。


護国綾瀬は最も軽い。軽いのに不足がない。狩人の役をまだ与えられてもいない段階から、既に無駄を削る癖が染みついている。


その綾瀬の前に、宗一が立っていた。

兄妹の別れというには、あまりにも簡素な光景だった。

抱擁も、感傷もない。言葉さえ少ない。だが、少ないからこそ、要るものだけが見える。


「荷は」

「足りています」

「武器以外で、自分の癖に寄りかかれるものは持ったか」


綾瀬は一瞬だけ考え、それから小さく頷いた。


「持ちました」


宗一の視線が彼女の鞄の脇に置かれた細い布包みへ落ちる。

中身までは問わない。問わないのが兄だった。確認だけして、それ以上は踏み込まない。


「向こうで何を見るかは分からん。だが、家の言葉だけで測ろうとするな」

「分かっています」

「本当に分かっている時のお前は、そういう返事をしない」


綾瀬はわずかに口を結んだ。

反発ではない。言い返したいが、言い返す材料がまだ足りない時の顔だ。


「兄さんは」

「残る」


宗一は即座に答える。


「それは昨日聞きました」

「なら、それで十分だ」


宗一の声は相変わらず平静だった。


だが、その平静さの奥にあるものを、綾瀬は長年の付き合いで知っている。止めたいから止めないのだ。行く意味があると判断しているから、感情を先に出さない。


綾瀬は小さく息を吐いた。


「戻ったら、選ばれた理由を少しは理解できると思いますか」


宗一は少しだけ目を細める。


「できるかもしれないし、余計に分からなくなるかもしれない」

「不親切ですね」

「親切が役立つ場なら、そもそもお前は選ばれていない」


綾瀬はその言葉に、一瞬だけ笑いそうになって、笑わなかった。

代わりに視線を上げる。


「死なないでください」

「そちらこそ」


それで終わりだった。

短い。短いが、護国家の兄妹にはその短さで足りる。

少し離れたところで待っていた陽鳥が、紺野へ低く言う。


「あの兄妹は、いつ見ても乾いてるわね」


紺野は視線を外さないまま答える。


「乾いてるんじゃない。あれで通じるんだろ」

「そういう言い方をすると、少しだけ羨ましそうに聞こえるよ」

「聞こえ方の問題だ」


陽鳥の声は柔らかい。だが軽くはない。


紺野も、いつものぶっきらぼうのまま必要以上に崩さない。東都の後から、この二人の言葉は少しだけ硬くなっている。その硬さを、今はどちらも無理に剥がさない。


166-3


荒臣が玄関前へ出てくると、全員の視線が自然にそちらへ揃った。


「行くぞ」


前置きはそれだけだった。


帝都から、古い南海の外縁までの距離は軽くない。

千二百キロをとうに超える。海路だけで丁寧に辿れば、もっと伸びる。風と潮を読み、補給を挟み、島影を伝って下る航路は、人の都合より海の都合に近い。

だから今回の移動は、最初から速度を前提に組まれていた。


帝都を発ち、南方の軍用飛行場へ入る。

長距離輸送機は灰色の機体をしていた。誇示のための紋も、余計な飾りもない。運ぶためだけに作られた顔だ。


四人はそこへ乗り込み、まず本州南縁の山並みを離れる。雲の切れ間の下に、内海の白い反射が見え、そのさらに南には濃い海が続く。最初の飛行はまだ現実の距離感の中にある。帝都は遠ざかる。東都も遠い。だが、地図はまだ人間の味方をしている。


途中で一度、南海の軍港に降りる。

給油、機体点検、短い休息。そこからさらに島伝いに南へ飛ぶ。窓の下には、細い島影が点々と浮かぶ。海と空の青さが帝都のものより強い。強いのに、明るさだけで済まない古い影が混じる。


陽鳥が窓の外を見たまま、低く言う。


「まだ普通ね」


荒臣は目を閉じたまま答えた。


「普通の終わりは、たいてい普通の顔をして近づく」


紺野は何も言わない。


綾瀬は膝の上で指を組み、南へ延びる島列の間隔を目で測っている。実際に役立つ計算ではない。だが、距離を自分の感覚へ引き戻しておきたいのだと分かる。


二度目の仮着陸は、さらに南の海軍補給拠点だった。

そこから先は空路を使わない。


「最後だけは船なんだ」


陽鳥が問う。

荒臣は短く頷く。


「最後まで空で済ませるのは、少し礼を欠く」

「礼ですか」

「そうだ。向こうは、こちらが思う以上にそういうものを見ている」


意味が分かるようで、まだ分からない。

だが、分からないまま従うしかない段に、もう来ている。


小型の艦へ乗り換え、さらに南東へ出る。

帝都から数日にわたって下ってきた距離が、ここでようやく身体の実感へ変わった。空路は距離を潰す。だが最後に海へ戻ると、人は改めて「遠くへ来た」と知る。


背後の都はもう見えない。南海の島々も、ひとつ、またひとつと水平線の向こうへ落ちる。ここまで来てようやく、海の向こうという言葉が比喩ではなくなる。


166-4


海の質が変わり始めたのは、三日目の午後だった。


最初におかしくなったのは、水平線の役目だ。

海は広い。

広いから水平線がある。遠さを教えるために、空と水の境を一本引く。それが海の当たり前だ。


だが、古い南海のさらに外側、失われた島々の記憶だけが残る外縁海域へ近づくにつれ、その一本が距離を教えなくなる。


水平線は見える。

見えるのに、遠くない。

陽鳥が手すりを握り直す。


「……嫌な感じ」


今までの海ではなかった。


波はある。風もある。船腹を叩く水音も、甲板の金具が鳴る音もある。だが、それら全部の上から、もっと薄く、もっと古い静けさが一枚だけ被さってくる。


東都の夜のような圧ではない。あれは重かった。こちらは遠い。遠いくせに、近い。海そのものが、“向こう側”へ寄せてくる感じだった。


艦長が荒臣へ近づき、小声で告げる。


「ここから先は、海図の精度が落ちます」

「落ちるのではない。こちらの精度が足りなくなるだけだ」


荒臣はそう返し、艦の先へ視線を置く。


ここは、かつて南方の人々が幾つもの名で呼んだ海の外れだ。

浅瀬と深みが複雑に噛み、古い航路からも半歩だけ外れた場所。漁場とも交易路とも言い切れず、伝承だけが妙に長く残る。現代の航法でも辿り着ける。だが、そこから先の“どこ”を指すかは、普通の座標では足りない。


綾瀬が目を細めた。


「見えます」


紺野も前を見る。


最初は蜃気楼に見えた。熱で空気が揺らぎ、遠いものが歪む、ありふれた海の現象。だが、ありふれているにしては揺れ方が乾いている。光ではなく、距離そのものが薄く捲れているみたいな歪みだった。


帝都から千二百キロ以上南下し、南海の島列を越え、そのさらに外へ出て、ようやく触れられる違和。

近いから異界なのではない。遠さをちゃんと越えた先に、なお別の遠さが口を開く。だからこそ、これは“向こう”なのだと分かる。


「ここまで来て、ようやく門前か」


紺野が低く言う。

荒臣は頷いた。


「海というものは、本来そういうものだ。人間が簡単に境界を跨げるなら、彼方などという言葉は生まれていない」


陽鳥は海を見たまま、小さく息を吐く。


「礼を尽くして来い、という意味が少し分かったかも」

「分かったなら結構。まだ遅い方だがな」


荒臣の返答には、いつもの皮肉がある。

だがその皮肉も、ここでは少し慎重だった。向こう側へ向かう時、荒臣でさえ自分の言葉の置き方を変える。


艦はさらに進む。


海面の色が抜けていく。

青から灰へ、灰から銀へ、銀から名をつけにくい薄さへ。空も同じだ。雲はある。あるのに、雲の影が海へ落ちない。


前方の歪みは、もう蜃気楼の顔をしていない。海の上に立ちのぼっているのではなく、海そのものが一枚向こうへずれている。

壊れたまま置かれた世界の匂いがした。


紺野は息を呑む。

陽鳥は表情を動かさない。綾瀬はわずかに顎を引く。

荒臣だけが、そこで一言だけ落とした。


「着くぞ」


その声音には、興奮も警戒もない。

ただ、行くべき場所へ長い距離を越えて辿り着いた者の、冷たい静けさだけがあった。


艦はさらに進む。

帝都はもう遠い。都の空も、東都の夜も、紙の山も、近衛本部の白い廊下も、全部一度は後ろへ置いてきた。


それでも、置いてきたものが消えたわけではない。人間は距離で傷を処理できない。千二百キロ南へ下っても、東都の夜はまだ身体のどこかに残っている。


その残り滓ごと、海の向こうへ連れて行かれる。

前方で、海が口を開いた。


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