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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
番外章 ニライカナイ 未来彼方
167/191

百六十五話 天命


百六十五話


165-1 天命



呼び出しには、格式より先に重さがある。

その朝、近衛本部に届いたのは書状ではなかった。


伝令でもない。内線でもない。

もっと静かな形だった。執務室の扉が叩かれ、入ってきた近衛の侍従が一礼し、必要最小限の言葉だけを置いて去る。たったそれだけで、部屋の空気が一段低くなる。


「陛下がお呼びです」


東都戦後の書類が山をなしている執務机の前で、硯荒臣は椅子に座ったまま目を上げた。

白基調の軍装に、今日は黒の外套を羽織っている。十五の少女ほどの外見に、その内側だけが場違いなほど古く、冷めている。


近衛一席、西方守護、従一位。

書類の山は高い。高いが、彼女の前では高く見えない。むしろ紙の方が、並べられた時点で仕事量として切り刻まれている。


羽場桐妙子が、机の向こうで手を止めた。


「時刻の指定は」

「今すぐ、とのことです」


侍従はそう言って、もう一度だけ頭を下げて出ていった。

扉が閉ま理、紙の音が消える。

近衛本部の執務室に満ちていた、東都戦後の鈍い忙しさだけが一瞬だけ宙に浮いた。

荒臣は書類の山を一瞥し、それから小さく息を吐いた。


「仕事というものは、どうして山になる時だけ殊更に美しく見えるのだろうな。誰かが片づける前提で積まれているからか」


羽場桐は無言で、机端の書類を二束に分けた。

戻った時に再開すべきものと、戻らなくても回るもの。その仕分けを、問われる前から始める。


「妙子」

「はい」

「私は少し外す。陸軍の誤作動を“混乱の結果”と書き換えたがっている文面は、戻るまで寝かせておけ。寝かせたところで善くはならんが、温めると余計に腐る」

「承知しました」


荒臣は椅子を引き、立ち上がる。


立ち上がる動作そのものに無駄がない。だが急いでいるわけでもない。呼び出しが急を要するからこそ、自分の速度を乱さない類の人間だった。


「東都の後始末と、今後の人事整理と、恐らくは陸軍への釘打ち。陛下がわざわざ私を呼ばれるなら、そのどれかだと思っていたが」

「違うのですか」

「さあな」


荒臣は軍帽を取り、指先で内側を一度撫でた。外へ出る前の癖だ。

そして、そこでだけほんの僅かに笑う。


「違うから呼ばれたのだろう。陛下は、仕事の分かる方だ。分かるから、紙で済む話をわざわざ対面にはされん」


羽場桐はその言葉を聞いて、ほんの少しだけ目を細めた。

天帝の呼び出し。しかも直々。東都戦後のこの時期に。

国家中枢の実務として考えれば不穏でしかない。だが、目の前の上官は不穏を嫌う類ではない。むしろ、不穏の質で次の一手を測る。


「供は」

「する。お前が」

「承知しました」


即答だった。


羽場桐は迷わない。迷わずに書類を閉じ、上着の皺を整える。

荒臣は扉へ向かいながら、ふいに言った。


「妙子。今から会う方を、決して可憐な少女か何かだと勘違いするなよ」

「致しません」

「だろうな。お前はそういうところで現実的だ」


言葉の最後だけ、皮肉とも信頼ともつかない響きが混じる。

普段の荒臣は饒舌だ。饒舌で、皮肉屋で、人を試すように言葉を置く。だが今は、その声の底で既に別の切り替えが始まっていた。


扉が開く。

近衛本部の廊下は、外の音を少しだけ削っている。

天帝のもとへ向かう時、まず先に変わるのは人間の足音ではない。

建物の側が、喋りすぎる者を勝手に黙らせる。


165-2


帝宮の奥は、広いのではない。

近づくほど、他の広さを失わせる。


重い扉を抜け、長い回廊を二つ折れ、最後の間へ通される頃には、羽場桐は自分の歩幅まで丁寧に揃えていることに気づいた。命じられたわけではない。命じるまでもなく、そうせざるを得ない場だった。


先触れの声も、荘厳な楽もない。

それでも、そこがこの国の中心だと一目で分かる。

高い天井。抑えられた光。磨き抜かれた床。


飾り立てているのではない。飾りがこの場の格に届かないから、逆に少ない。余計なものを排した末に残った広間の奥、わずかに高い位置に、その人はいた。


天帝と呼ばれる者

天照帝由瀬(てんしょうていゆせ)


若い少女の姿をしている。

若い、という言葉でしか仮置きできない外見だった。


華美な装いではない。淡い光を含んだ衣を重ね、金でも銀でもない色の細い意匠だけが縁を流れている。髪は長く、曖昧な色の光を拾って静かに落ちる。


顔立ちは端正だった。だが端正さが先に立たない。先に来るのは、偏在の感覚だ。そこに一人いるのに、そこだけで済んでいない。広間の空気、壁の沈黙、光の届き方、全部の中心に同時にいる。


天帝は二人を見て、柔らかく微笑んだ。


「ご足労おかけします。荒臣。羽場桐さんも、朝から急にごめんなさいね」


声は丁寧だった。女性的で、よく澄んでいて、春の水のように耳へ入る。

だが、柔らかさが命令の強さを削らない。むしろ逆だ。断定を鋭く言わずに済ませる位置に最初から立っている。


荒臣が一歩進み、深く頭を垂れる。


「お呼びとあれば、いつでも。陛下」


天帝の前でだけ、荒臣の声は明確に整う。

普段の皮肉も、余計な饒舌も、今は綺麗に鞘へ納まっている。媚びではない。主従の形を最も正しい角度で置いているだけだ。


羽場桐も一礼する。

伏せた視界のままでも、天帝の存在だけが妙に近い。近いのに圧迫しない。この国の管理という役割が、人の形を取るとこうなるのだと、理性の外側が先に納得する。


「顔を上げてください」


天帝が言う。


「今日は、東都の後始末のお話ではないのです。もちろん、あれも大事なことでしたけれど」


天帝はゆるやかに手元の杯を置いた。

ほんの小さな音だった。だが広間の空気がそれを拾って、話の本題だけを静かに浮かび上がらせる。


「荒臣。一度、海の向こうへ行ってきてください」


羽場桐の指先が、袖の内でほんの少しだけ固くなる。

荒臣は顔色を変えない。


「どちらへ」


天帝は、その問いにすぐには答えなかった。

少しだけ視線を上げる。広間の向こう、天井でも壁でもない、もっと遠いものを見る目だ。


「彼方の主が、貴女を待っています」


その呼び方を、羽場桐は初めて聞いた。

だが重さは分かる。分かってしまう。海の向こう。彼方の主。


天帝は続ける。


「今は、そちらへ行くのが良い頃合いなのでしょう。向こうも、こちらも」


柔らかい言い方だった。

“命じる”ではなく、“そうなのでしょう”と言う。だが、その婉曲さの中に異議の余地はない。天帝は命じる時ほど、命令に見えない形を選ぶ。


荒臣は静かに問う。


「私ひとりで」

「いいえ」


天帝の微笑みが、ほんの僅かに深くなる。


「あなたひとりでは、少し偏りがすぎます」


その一言だけで、荒臣の目の奥にわずかな光が走った。

皮肉ではない。理解の早い者が、自分の前提を一つ修正した時の光だ。


「伴う者は、貴女が選びなさい」


天帝はそう言ってから、すぐに付け加える。


「けれど、強い者を選べばよいわけではありません」


羽場桐はそこで初めて、天帝の意図が東都の戦後整理ではなく、もっと深い選別に触れていると確信した。

強者の選抜ではない。役割の整列でもない。もっと別の、人の芯に関わる選別だ。


荒臣は一拍だけ沈黙し、それから恭しく答える。


「承知いたしました」


天帝は頷く。

その頷き一つで、広間の温度が少しだけ戻る。命令は終わったのだと、場そのものが知る。

だが天帝は、そこで話を切らない。


「荒臣」

「はい」

「向こうで答えを貰えるとは思わないでくださいね」


その言い方は穏やかだった。

穏やかなのに、妙に胸へ残る。先回りの警告だ。


「けれど、何を問うべきかは、今より少し見えるかもしれません」


荒臣は深く頭を垂れた。


「陛下のお心のままに」


天帝はそれを聞いて、ほんの少しだけ目を細める。


「そういう言い方をする時のあなたは、いつも半分ほど本気ではありませんね」


羽場桐の呼吸が、一瞬だけ止まりかけた。

だが荒臣は崩れない。崩れず、より丁寧に答える。


「恐れながら、残り半分も十分に従順です」


天帝が柔らかく笑う。

その笑いの中に、咎める色はない。むしろ、この主従だけが共有する長い了解がある。


「ええ。それで構いません」


そこでようやく、話は終わった。


165-3


近衛本部へ戻った頃には、夕方の光が窓を斜めに切っていた。


小会議室に呼ばれたのは、紺野健太郎、珠洲原陽鳥、護国綾瀬。

羽場桐は壁際に立っている。席にはつかない。記録を取るためでも、監督のためでもない。部屋の外側を支える位置だ。


荒臣は着席していた。

天帝の前で見せた丁寧さは、もう鞘へ戻っている。代わりにいつもの皮肉めいた静けさが口元にある。


「私は、海の向こうへ行く」


前置きはそれだけだった。

陽鳥が最初に口を開く。


「東都の後に、ずいぶん景気のいい話ね」

「景気で済むなら結構なことだ。だが、残念ながらそういう類ではない」


荒臣は机上に置いた一枚の紙へ指を触れた。


書状ではない。同行者の整理でもない。空白に近い紙だ。何も書いていないのに、決定だけが先に置かれているみたいな一枚だった。


「陛下より直命があった。彼方の主のもとへ赴く」


綾瀬の目がわずかに細まる。

紺野は黙っている。陽鳥も、それ以上の軽口は挟まない。東都の後に天帝が直々に荒臣を動かす。その事実だけで、話の軽重は十分だった。


荒臣は続ける。


「同行者は三人。紺野、珠洲原、綾瀬」


そこで、綾瀬だけが即座に反応した。


「……私ですか」


問う声は平らだった。

自信の無さではない。選定基準の合理を求める声だ。

荒臣は視線を向ける。


「不服か」

「不服ではありません。ただ、理解が追いついていません」


綾瀬は淡々と言う。


「紺野少尉と珠洲原主任は分かります。東都戦の当事者であり、閣下に同行する意味も見えます。ですが私には、兄や羽場桐中尉を差し置いて選ばれる理由が、現時点では測れません」


部屋が静かになる。

良い問いだった。綾瀬らしい問いでもある。

荒臣はそれを否定しなかった。むしろ少しだけ満足そうに見えた。


「測れないなら、今はそれでいい」

「説明は、いただけないと」

「全部はな」


荒臣は背もたれに軽く身を預ける。


「宗一は帝都へ残す。妙子もだ。東都戦後のこちら側は、まだ歪んでいる。外へ持ち出すより、ここで形を保たせる方が重い」


羽場桐は無言のまま、わずかに目を伏せる。

綾瀬も、そこで一度だけ納得した顔をした。宗一が残る理由。羽場桐が残る理由。

だがそれでも、自分が行く理由の芯まではまだ届かない。


「では、私は何を見込まれているのです」


荒臣は、そこで少しだけ笑った。


「線を見る目だ」


綾瀬の背筋が、ほんの少しだけ張る。


「終わるべきところと、終わらぬまま残るところ。お前はそこに嫌悪を持てる」


その言い方は、評価であり、同時に見抜きでもあった。

綾瀬はすぐには返せない。なぜなら、それは自分でもあまり他人に言葉を与えていない部分だったからだ。

陽鳥が、いつものように軽さで割り込もうとして、今日は少し抑えた声で言う。


「ずいぶん買ってるのね、綾瀬さんを」

「買っているのではない。向いていると言っている」

「同じようなものでは」

「違う。期待は外れるが、適性はそう簡単には曲がらん」


荒臣の返答は即座で、わずかに皮肉がある。

その饒舌さに、天帝の前での口調との差がくっきり出る。

紺野が腕を組んだまま言った。


「俺が入る理由は」

「あるから呼ばれた」

「雑だな」

「雑に聞こえるうちは、お前もまだ余裕がある」


そこで荒臣は、少しだけ目を細めた。


「紺野。東都でお前は、自分の中に残ったものをまだ測れていない。珠洲原も同じだ。綾瀬も恐らくそうだ」


そして最後に、さらりと落とす。


「私もな」


三人とも、その一言にはすぐ反応できなかった。

荒臣が“自分も”と言う時、それは比喩で済まない。東都の空で園業を判決のように断ち切った存在が、自分もまた変化の外にいないと、静かに認めている。


それが何を意味するかは、まだ分からない。

だが、軽くはない。


165-4


会議の後、綾瀬は真っ先に立ち上がらなかった。


陽鳥は黙って窓の外を見ている。

紺野は言葉の少ないまま椅子を引いた。二人とも、荒臣の最後の一言をまだ飲みきれていない。

綾瀬は席に浅く座ったまま、もう一度だけ荒臣へ問う。


「閣下」

「何だ」

「向こうで、私は場違いでしょうか」


羽場桐の視線がわずかに動く。

陽鳥も紺野も、その問いに初めて綾瀬の内側の温度を知った顔をした。

場違い。

それは卑下ではない。自分の位置を測る言葉だ。


荒臣は綾瀬を見た。

少し長く見てから、肩を竦める。


「場違いでない人間だけを集めた隊など、私は知らん。御親領衛という時点で、全員いくつか場を間違えている」


陽鳥が、小さく息だけで笑う。

紺野も口元をわずかに歪める。だがその笑いは軽くない。


荒臣は続けた。


「お前が向こうで何を役に立てるかは、今ここで全部説明する気はない。説明して役立つなら苦労はないからな」


綾瀬は黙って聞く。


「だが一つだけ言える。場違いかどうかを自分で疑える者は、まだ場に呑まれ切っていない」


その言葉を、綾瀬はすぐには飲み込まなかった。

飲み込めない程度にまっすぐだった。

羽場桐がそこで、ようやく口を開いた。


「出発まで時間は多くありません。必要な準備だけ整えてください。不要な想像は持ち込まない方が賢明です」


陽鳥が壁際から体を起こす。


「それ、健ちゃんに向けて言ってる?」

「全員です」

「妙子ちゃんにしては優しい言い方だ」

「今はまだ、です」


羽場桐の声は静かだ。だが、残る者の重さがそこにある。

同行しないからこそ、彼女は今この部屋の現実側を引き受けている。

紺野が扉へ向かいかけて、ふと止まる。


「海の向こうに行ったからって、答えがあるとは限らないだろう」


荒臣は頷く。


「限らん」

「なら、何しに行く」


その問いには、荒臣もすぐには答えなかった。

わずかに視線を落とし、天帝の言葉をそのまま反芻するような間があった。


「問うべきものが、何であるかを見るためだ」


それだけ言って、荒臣は椅子から立ち上がる。


「行け。準備をしろ。海の向こうは、こちらの事情が整うのを律儀に待ってはくれん」


三人が部屋を出ていく。

最後に羽場桐だけが残る。

扉が閉まった後、荒臣は窓の外を一度だけ見た。帝都の空は静かだ。静かすぎる。東都戦の後から続くその静けさに、今夜は方向がある。海の方へ、まだ見えない何かがこちらを薄く引いている。


羽場桐が問う。


「閣下」

「何だ」

「陛下は、向こうについて他に何か」


荒臣は、そこでだけほんの少し声音を落とした。


「多くは仰られなかった」


天帝の前でだけ使う丁寧な口調の残り香が、その一言にだけ薄く残る。


「だが十分だ。陛下が“今だ”とお決めになった。なら、今なのだろう」


羽場桐は頷く。


それ以上は問わない。問わないことも、副官の仕事だった。

そして心のどこかで、もう一つだけ理解していた。


荒臣が連れていく三人は、単に使えるから選ばれたのではない。もっと根の深いところに、似た傷か、似た欠けか、そういうものがある。

けれど、それを言葉にしてしまうのは違う。違うから羽場桐は口をつぐむ。


帝都の夕方は静かだった。

その静けさの内側で、海の向こうの別の法則が、もうこちらへ手を伸ばし始めている。


招かれたのではない。

行くべき時に、行くべき者が動かされただけだ。

そのことだけが、薄く、しかし確かな重さで部屋に残っていた。


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