百六十四話 名無しの観測
百六十四話
164-1 名無しの観測
偶然というものは、二度続くと少しだけ薄汚れる。
帝都南区の外れ、小さな橋を渡った先にある古書店街は、夕方になると人の流れが緩む。昼の客は去り、夜の客にはまだ早い。店の前に積まれた古本の背表紙だけが薄い陽を受け、紙の匂いが風に混ざる。
紺野健太郎は、その通りを一人で歩いていた。
目的はない。
というより、目的があるような顔で歩きたくなかった。東都の後から、どこかへ向かう足取りそれ自体が、少し重い。行き先があると、それだけで自分の中の何かも決まり切ってしまう気がする。だから今日は、決めないまま街へ出た。
橋を渡り切ったところで、見覚えのある女が立っていた。
本屋の軒先に置かれた木箱を覗き込み、片手で頁をめくっている。歳の頃は二十代半ばほど。前に古物屋で見た時と同じ、急ぐ必要のない顔だった。若い女の顔をしているのに、視線の置き方だけが妙に古い。
隣には、黒い給仕服の女――未来が紙袋を抱えて立っている。
紺野は、足を止めるほどではないが、歩幅を少しだけ崩した。
向こうも気づく。気づいて、それを驚きにしない。
「また会ったね」
本から目を上げた女が、そう言った。
口調は軽い。軽いが、その軽さのせいで余計に胡散臭い。偶然の顔をしているくせに、出会うこと自体は最初から知っていたような言い方だった。
「……よく会うな」
「帝都は案外狭いんだよ」
「広いだろ」
「広いけど、同じところをぐるぐる歩く人は決まってる」
未来が横から口を挟む。
「その言い方だと、ずっと見てるみたいですよ」
「見てないよ」
「今の間で信じる人は少ないと思います」
二人のやり取りには、前と同じ生活感がある。
あるのに、その生活感が一段ずれている。紺野は、こういう会話に普通の温度を見出しかけて、毎回その手前で嫌な寒気を覚える。
女は本を閉じ、木箱へ戻した。
「散歩?」
「そんなところだ」
「逃げる場所を、あんまり遠くにしないのは偉いね」
紺野の眉がわずかに動く。
逃げる、という言葉が気に入らなかったのではない。気に入らないほど図星に近かったからだ。
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「お前、前もそうだったが」
紺野は女の前で足を止める。
「人の顔見て、勝手に中身まで知ったような口利くな」
女は笑わない。
笑わずに、少しだけ首を傾げる。その傾げ方が、同意でも反論でもなく、観察の続きに見える。
「知ってるわけじゃないよ」
「じゃあ何だ」
「見えてるだけ」
未来が小さく息を吐いた。
「店の外でそれを言うと、ただの変な人です」
「店の中なら違うの?」
「少しは雰囲気が助けてくれます」
「便利ね、店って」
会話は軽い。
軽いまま、紺野の中に嫌な棘だけが残る。
見えている。
それは何だ。表情か、癖か、歩き方か。そんな表面のことだけではないと、紺野には分かっていた。あの古物屋でもそうだった。まだ自分で言葉にしていないものの輪郭を、この女は先に眺めているみたいな目をする。
「東都の後」
女は通りの向こうへ一度だけ目をやってから、何でもない声で言った。
「まだ、人の顔してるね」
風が止まった気がした。
未来の視線が、ほんの少しだけ下がる。
通りを歩いていた老人が一人、本の山を避けて脇を抜ける。その小さな日常の動きだけが、今の一言を余計に薄気味悪くした。
紺野はすぐには口を開かなかった。
人の顔。
それは褒め言葉ではない。安心の確認にも聞こえない。
もっと危うい。あの夜、自分がどこまで行きかけたのかを、この女は知っているわけではない。ないはずだ。なのに、止まったからまだ人でいられている、という含みだけを、やけに自然な調子で口へ乗せた。
「……何の話だ」
「難しい話じゃないよ」
女は視線を戻す。
「止まる場所があるうちは、まだ大丈夫だって話」
「誰に止められたかまで言う気か」
「そこまで親切じゃないよ」
親切。
その単語の選び方まで腹立たしい。
紺野は舌打ちしたくなったが、通りの真ん中でやるほど子供でもない。
未来が、少しだけ場を和らげるように言う。
「この人、よくこういう言い方をしますけど、半分は趣味です」
「半分もあるのかよ」
「多い日で七割くらい」
「未来」
「はい」
「後で覚えておきなさい」
「帳面につけておきます」
その軽口のおかげで、通りの空気は一応、日常の顔へ戻る。
だが戻ったのは表面だけだった。紺野の胸の奥には、さっきの言葉がそのまま沈んでいる。
まだ、人の顔してるね。
あまりにも近い。
近いくせに、決定的なところだけは言わない。その距離の取り方が、見透かされるよりずっと気味が悪い。
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女は木箱の上に置かれた細い本を一本、指で軽く叩いた。
「壊れたものって、派手に壊れた方が分かりやすいでしょう」
唐突なようでいて、前の店での会話の続きみたいな言い方だった。
「粉々なら、誰でも捨てるか、直すかを考える。でも、半端に形が残ってると困る。まだ使えそうに見えるから、無理に持ち続ける」
紺野は黙って聞く。
聞くしかない。反論の言葉を差し込むと、かえって自分の側の何かを言い当ててしまいそうだった。
「止められてよかった側、ってあるんだよ」
女は本を持ち上げもせず、ただ木箱の中へ視線を落としたまま言った。
「本人は嫌だろうけどね。だいたい怒るし、恥ずかしいし、みっともないし、次からその相手の顔を見るのも少し面倒になる」
未来が、その横顔を見て小さく眉を寄せる。
言いすぎだ、という顔だった。だが止めない。止めない程度には、これもいつものことなのだろう。
紺野はようやく口を開く。
「お前」
声が少し低くなる。
「何も知らねえくせに、勝手に決めつけるな」
「決めつけてないよ」
女はそこで初めて、まっすぐ紺野を見た。
「見えてる範囲で言ってるだけ」
その目は澄んでいた。
澄んでいて、底が見えない。濁っていないから安心なのではない。濁りで深さを誤魔化さないぶん、余計に測りにくい。
「それに」
と言って、彼女はほんの少しだけ表情を緩めた。笑みに近い。けれど、人を安心させるための笑みではない。
「止められてよかった側って、止めた方もだいたいろくでもない顔してるから、おあいこだよ」
その一言で、紺野の頭に陽鳥の顔が浮かんだ。
東都の空で、自分を止めた時の顔。終わったあと、何も終わっていないみたいな顔。
思い出した瞬間、自分の内側にあった怒りと別種の感情が、また少しだけ動く。
女はそれを見たのだろう。
見たと確信できるほど、こちらが何かを言う前に、彼女の目が少し細くなった。
「ね」
とだけ言う。
それ以上は続けない。
だからこそ腹が立つ。言い切らないまま、一番近いところだけを撫でていく。
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通りの風が、本の頁を一枚だけめくった。
それが合図みたいに、女は木箱から手を離す。
「じゃあ、今日はこのへんで」
「今日は、って何だよ」
「また会うかもしれないでしょ」
「会いたくねえな」
「そういう人ほど、よく会うんだよ」
未来が紙袋を抱え直し、紺野へ軽く頭を下げる。
「すみません、変な話ばかりして」
「お前が謝るのか」
「店の外なので」
「便利だな、その理屈」
「使えるものは使います」
二人はそのまま並んで歩き出す。
急がない歩幅だった。追いつける。追いつけるはずなのに、追う気が削がれる。背中へ声を投げれば、また何か言われる気がした。言われる前から嫌なところを先に触られる、その感じがもう十分だった。
紺野はその場に残る。
通りにはまだ夕方の人の流れがある。古書店の店主が札を掛け替え、向かいの時計屋が椅子を引き、遠くで子供が笑う。何もおかしくない。帝都の一角として、ちゃんと生きている。
その日常の中を、さっきの二人も普通の顔で歩いていく。
普通の顔をしている。
だから余計におかしい。
紺野はしばらく二人の背を目で追い、やがて見失った。
角を曲がっただけだ。それだけのはずなのに、通りそのものが少し薄くなったみたいに感じる。
会話の内容は覚えている。
だが残るのは、言葉より視線だった。
見られていた。
見透かされた、ではない。
その手前だ。まだ形になっていないものの輪郭だけを、先に指でなぞられていた感覚。答えを言い当てられたのではなく、答えが出るのを待たれている感じ。
それが何より気味が悪い。
紺野は小さく息を吐き、通りの端に積まれた古本へ視線を落とした。
紙は古い。黄ばんでいる。だが、文字はまだ読める。捨てられなかったものが、こうして残る。
止められてよかった側。
その言葉が、また胸の奥に沈む。
否定したい。
だが、否定するほど綺麗に割り切れてもいない。あの夜、自分の中で何が開きかけたのかを思えばなおさらだ。
そして、そのことを何も聞かずに先回りしてくるあの女の存在が、どうしようもなく薄気味悪い。
紺野は眉間を押さえ、歩き出した。
夕方の帝都は静かだった。
静かで、狭かった。
東都の夜を越えてから、日常は元の大きさへ戻っていない。街も空も普通の顔をしているのに、その普通の内側へ、誰かの観測だけが先に入り込んでいる気がした。




