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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
番外章 ニライカナイ 未来彼方
166/193

百六十四話 名無しの観測


百六十四話


164-1 名無しの観測



偶然というものは、二度続くと少しだけ薄汚れる。

帝都南区の外れ、小さな橋を渡った先にある古書店街は、夕方になると人の流れが緩む。昼の客は去り、夜の客にはまだ早い。店の前に積まれた古本の背表紙だけが薄い陽を受け、紙の匂いが風に混ざる。


紺野健太郎は、その通りを一人で歩いていた。


目的はない。

というより、目的があるような顔で歩きたくなかった。東都の後から、どこかへ向かう足取りそれ自体が、少し重い。行き先があると、それだけで自分の中の何かも決まり切ってしまう気がする。だから今日は、決めないまま街へ出た。


橋を渡り切ったところで、見覚えのある女が立っていた。

本屋の軒先に置かれた木箱を覗き込み、片手で頁をめくっている。歳の頃は二十代半ばほど。前に古物屋で見た時と同じ、急ぐ必要のない顔だった。若い女の顔をしているのに、視線の置き方だけが妙に古い。

隣には、黒い給仕服の女――未来が紙袋を抱えて立っている。


紺野は、足を止めるほどではないが、歩幅を少しだけ崩した。

向こうも気づく。気づいて、それを驚きにしない。


「また会ったね」


本から目を上げた女が、そう言った。

口調は軽い。軽いが、その軽さのせいで余計に胡散臭い。偶然の顔をしているくせに、出会うこと自体は最初から知っていたような言い方だった。


「……よく会うな」

「帝都は案外狭いんだよ」

「広いだろ」

「広いけど、同じところをぐるぐる歩く人は決まってる」


未来が横から口を挟む。


「その言い方だと、ずっと見てるみたいですよ」

「見てないよ」

「今の間で信じる人は少ないと思います」


二人のやり取りには、前と同じ生活感がある。

あるのに、その生活感が一段ずれている。紺野は、こういう会話に普通の温度を見出しかけて、毎回その手前で嫌な寒気を覚える。

女は本を閉じ、木箱へ戻した。


「散歩?」

「そんなところだ」


「逃げる場所を、あんまり遠くにしないのは偉いね」


紺野の眉がわずかに動く。

逃げる、という言葉が気に入らなかったのではない。気に入らないほど図星に近かったからだ。


164-2


「お前、前もそうだったが」


紺野は女の前で足を止める。


「人の顔見て、勝手に中身まで知ったような口利くな」


女は笑わない。

笑わずに、少しだけ首を傾げる。その傾げ方が、同意でも反論でもなく、観察の続きに見える。


「知ってるわけじゃないよ」

「じゃあ何だ」

「見えてるだけ」


未来が小さく息を吐いた。


「店の外でそれを言うと、ただの変な人です」

「店の中なら違うの?」

「少しは雰囲気が助けてくれます」

「便利ね、店って」


会話は軽い。

軽いまま、紺野の中に嫌な棘だけが残る。


見えている。

それは何だ。表情か、癖か、歩き方か。そんな表面のことだけではないと、紺野には分かっていた。あの古物屋でもそうだった。まだ自分で言葉にしていないものの輪郭を、この女は先に眺めているみたいな目をする。


「東都の後」


女は通りの向こうへ一度だけ目をやってから、何でもない声で言った。


「まだ、人の顔してるね」


風が止まった気がした。

未来の視線が、ほんの少しだけ下がる。

通りを歩いていた老人が一人、本の山を避けて脇を抜ける。その小さな日常の動きだけが、今の一言を余計に薄気味悪くした。


紺野はすぐには口を開かなかった。

人の顔。

それは褒め言葉ではない。安心の確認にも聞こえない。

もっと危うい。あの夜、自分がどこまで行きかけたのかを、この女は知っているわけではない。ないはずだ。なのに、止まったからまだ人でいられている、という含みだけを、やけに自然な調子で口へ乗せた。


「……何の話だ」

「難しい話じゃないよ」


女は視線を戻す。


「止まる場所があるうちは、まだ大丈夫だって話」

「誰に止められたかまで言う気か」

「そこまで親切じゃないよ」


親切。

その単語の選び方まで腹立たしい。

紺野は舌打ちしたくなったが、通りの真ん中でやるほど子供でもない。

未来が、少しだけ場を和らげるように言う。


「この人、よくこういう言い方をしますけど、半分は趣味です」

「半分もあるのかよ」

「多い日で七割くらい」

「未来」

「はい」

「後で覚えておきなさい」

「帳面につけておきます」


その軽口のおかげで、通りの空気は一応、日常の顔へ戻る。

だが戻ったのは表面だけだった。紺野の胸の奥には、さっきの言葉がそのまま沈んでいる。


まだ、人の顔してるね。


あまりにも近い。

近いくせに、決定的なところだけは言わない。その距離の取り方が、見透かされるよりずっと気味が悪い。


164-3


女は木箱の上に置かれた細い本を一本、指で軽く叩いた。


「壊れたものって、派手に壊れた方が分かりやすいでしょう」


唐突なようでいて、前の店での会話の続きみたいな言い方だった。


「粉々なら、誰でも捨てるか、直すかを考える。でも、半端に形が残ってると困る。まだ使えそうに見えるから、無理に持ち続ける」


紺野は黙って聞く。

聞くしかない。反論の言葉を差し込むと、かえって自分の側の何かを言い当ててしまいそうだった。


「止められてよかった側、ってあるんだよ」


女は本を持ち上げもせず、ただ木箱の中へ視線を落としたまま言った。


「本人は嫌だろうけどね。だいたい怒るし、恥ずかしいし、みっともないし、次からその相手の顔を見るのも少し面倒になる」


未来が、その横顔を見て小さく眉を寄せる。

言いすぎだ、という顔だった。だが止めない。止めない程度には、これもいつものことなのだろう。

紺野はようやく口を開く。


「お前」


声が少し低くなる。


「何も知らねえくせに、勝手に決めつけるな」

「決めつけてないよ」


女はそこで初めて、まっすぐ紺野を見た。


「見えてる範囲で言ってるだけ」


その目は澄んでいた。

澄んでいて、底が見えない。濁っていないから安心なのではない。濁りで深さを誤魔化さないぶん、余計に測りにくい。


「それに」


と言って、彼女はほんの少しだけ表情を緩めた。笑みに近い。けれど、人を安心させるための笑みではない。


「止められてよかった側って、止めた方もだいたいろくでもない顔してるから、おあいこだよ」


その一言で、紺野の頭に陽鳥の顔が浮かんだ。

東都の空で、自分を止めた時の顔。終わったあと、何も終わっていないみたいな顔。

思い出した瞬間、自分の内側にあった怒りと別種の感情が、また少しだけ動く。


女はそれを見たのだろう。

見たと確信できるほど、こちらが何かを言う前に、彼女の目が少し細くなった。


「ね」


とだけ言う。

それ以上は続けない。

だからこそ腹が立つ。言い切らないまま、一番近いところだけを撫でていく。


164-4


通りの風が、本の頁を一枚だけめくった。

それが合図みたいに、女は木箱から手を離す。


「じゃあ、今日はこのへんで」

「今日は、って何だよ」

「また会うかもしれないでしょ」

「会いたくねえな」

「そういう人ほど、よく会うんだよ」


未来が紙袋を抱え直し、紺野へ軽く頭を下げる。


「すみません、変な話ばかりして」

「お前が謝るのか」

「店の外なので」

「便利だな、その理屈」

「使えるものは使います」


二人はそのまま並んで歩き出す。

急がない歩幅だった。追いつける。追いつけるはずなのに、追う気が削がれる。背中へ声を投げれば、また何か言われる気がした。言われる前から嫌なところを先に触られる、その感じがもう十分だった。


紺野はその場に残る。

通りにはまだ夕方の人の流れがある。古書店の店主が札を掛け替え、向かいの時計屋が椅子を引き、遠くで子供が笑う。何もおかしくない。帝都の一角として、ちゃんと生きている。


その日常の中を、さっきの二人も普通の顔で歩いていく。

普通の顔をしている。

だから余計におかしい。

紺野はしばらく二人の背を目で追い、やがて見失った。


角を曲がっただけだ。それだけのはずなのに、通りそのものが少し薄くなったみたいに感じる。

会話の内容は覚えている。

だが残るのは、言葉より視線だった。


見られていた。

見透かされた、ではない。

その手前だ。まだ形になっていないものの輪郭だけを、先に指でなぞられていた感覚。答えを言い当てられたのではなく、答えが出るのを待たれている感じ。

それが何より気味が悪い。


紺野は小さく息を吐き、通りの端に積まれた古本へ視線を落とした。


紙は古い。黄ばんでいる。だが、文字はまだ読める。捨てられなかったものが、こうして残る。

止められてよかった側。

その言葉が、また胸の奥に沈む。


否定したい。

だが、否定するほど綺麗に割り切れてもいない。あの夜、自分の中で何が開きかけたのかを思えばなおさらだ。 

そして、そのことを何も聞かずに先回りしてくるあの女の存在が、どうしようもなく薄気味悪い。


紺野は眉間を押さえ、歩き出した。

夕方の帝都は静かだった。

静かで、狭かった。


東都の夜を越えてから、日常は元の大きさへ戻っていない。街も空も普通の顔をしているのに、その普通の内側へ、誰かの観測だけが先に入り込んでいる気がした。


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