百六十三話 止めた者と止められた者
百六十三話
163-1 止めた者と止められた者
夕方の屋上は、日中より少しだけ人間に優しい。
本部棟の屋上には、訓練場の怒号も事務室の紙の音も上がってこない。遠くで車が走り、帝都のどこかで夕餉の支度が始まり、空の色だけが白から薄い橙へゆっくり傾く。
平和な時間だ。そう見える。そう見える程度には、この国はまだ壊れ切っていない。
だが、壊れていないことと、元に戻っていることは別だった。
紺野健太郎は手すりにもたれず、屋上の中央に近いところで立っていた。
右肩はまだ完璧ではない。風が吹くと、服の布が触れるだけで奥が鈍く疼く。だが今日ここへ来た理由は、傷の具合を確かめるためではなかった。
扉が開く音がする。
振り返らなくても分かった。
足音が軽い。けれど、軽さで中身をごまかせるほど浅い足取りではない。
珠洲原陽鳥が出てきた。
白衣ではない。勤務の上着も着崩していない。いつも通りに見えるよう整えた格好だった。整えていること自体が、今日は少し目につく。
彼女は紺野の隣までは来ない。二歩ぶんほど距離を残して止まった。
「妙子ちゃん、ほんと余計なことするわよね」
開口一番、それだった。
「私が断る選択肢、最初から無い面して呼び出すの、あの人たまにすごいよ」
「お前だって断らなかっただろ」
「断ると逃げたみたいじゃない」
陽鳥は小さく鼻で笑う。
その笑い方は、東都の後から増えた空回る軽さではなかった。ちゃんと相手へ返している時の笑い方だ。だから紺野の胸の奥が、逆に少しだけ重くなる。
ここへ来た理由を、二人とも知っている。
けれど、どちらも先に本題へ触れない。触れた瞬間に、会話の逃げ道が消えるからだ。
陽鳥が空を見る。
「静かだね」
「最近お前もそればっか言うな」
「そっちが先に言ったんでしょ」
「そうだったか」
「そうよ」
会話の内容だけなら、他愛のないものだった。
だが、その薄さの下で、二人ともずっと同じ夜を見ている。東都の空。園業の飢え。自分の底。陽鳥の虫が、最後の最後で紺野を噛み止めた瞬間。
どの言葉もまだ口へ上らない。上れば戻れないと分かっているからだ。
風が吹く。
陽鳥の髪が頬にかかる。彼女は払わない。払うより先に、紺野の方が口を開いた。
「……で」
その一音だけで十分だった。
陽鳥も、空から視線を下ろす。
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「怒ってる?」
陽鳥が先にそう聞いた。
問いの形をしているが、答えの半分はもう知っている声だった。
紺野はすぐには返さない。答えを選んでいるのではない。選ぶほど整理がついていない。
「怒ってる、で済むなら楽なんだけどな」
しばらくして、そう言う。
陽鳥の目が、少しだけ細くなる。
笑ってはいない。警戒でもない。痛いところへちょうど指が届いた時の顔だ。
「そっか」
「謝る気あるなら今のうちに聞いとく」
「ないよ」
即答だった。
風の抜ける屋上で、その言葉だけが妙に重く落ちた。
だが紺野は驚かなかった。こいつはそういう女だ。嘘の謝罪で場を丸くするくらいなら、嫌われる方を選ぶ。分かっている。分かっているから腹が立つ。
「後悔はしてる?」
「してない」
「それも即答かよ」
「した方がいい?」
「知らねえよ」
紺野の声が少し荒くなる。
怒鳴るほどではない。だが平らでもない。陽鳥はその揺れを受け止めたまま、目を逸らさない。
「私は止めるしかなかった。あの時、あれ以上行かせたら駄目だった。だから止めた」
「そのせいで園業が怒った」
「うん」
「空がああなった」
「うん」
「こちらも死にかけた」
「知ってる」
淡々としている。
淡々としているが、他人事ではない。むしろ逆だ。全部自分の判断の射程に入れて、その上でなお引かない声だった。
陽鳥は続ける。
「でも、それでも止めた」
その言い方が、紺野の胸へ刺さる。
言葉の正しさではない。覚悟の置き方だ。目の前の女は、自分の選択がどれだけ悪い結果を連鎖させたかを知った上で、それでもあれだけは譲らないと言っている。
「嫌われたかもって思った」
陽鳥はそこで初めて、少しだけ視線を落とした。
「思ったし、今も思ってる。あんたにとって、あれがどれだけ屈辱だったかも、たぶん私が思ってる以上なんだろうなって分かる」
「分かってる面すんな」
「分かってないよ。分かってない。でも想像はできる」
そこだけ、声が少し薄くなる。
空回る軽口とも、東都で虫を噛ませた時の狂気じみた集中とも違う。もっと素直な薄さだった。
「それでも、止めたことは後悔してない」
言い切る。
その強情さが、この女の核だと紺野は知っている。
優しいから止めたのではない。正しいと思ったから止めたのでも、単純な保護欲だけでもない。怖かったのだ。紺野の底が、あのままどこまで行くか分からなかった。分からないまま、それでも手を離せなかった。
愛着も、執着も、保護も、恐怖も、全部混ざった最悪に近い感情の束で、それでも最後に止める側を選んだ。
だからこそ、謝らない。
163-3
紺野は一度、深く息を吐いた。
怒っている。
それは本当だ。あの時、自分の中に手を突っ込まれて、無理矢理に現実へ引き戻された感覚は、今思い出しても気分が悪い。みっともないとか情けないとか、そういう平たい言葉では足りない。もっと根の深いところを見られて、しかもその上で止められた。
屈辱だ。間違いなく。
だが、それだけではない。
「……許してほしいのか」
紺野が言うと、陽鳥は一瞬だけ目を丸くした。
問いの方向が少し想定と違ったのだろう。
「さあ」
「そこで濁すな」
「濁してるんじゃなくて、分からないだけ」
陽鳥は苦笑する。
その苦笑も弱い。誤魔化しではなく、本当に整理できていない時の顔だった。
「許してほしい、って言うと違う気がする。許されなきゃ困る、でもない。たぶん私は、あんたがどう思ってようが、次も同じ状況ならまた止める」
「最悪だな」
「うん。知ってる」
「そこはせめて否定しろよ」
「したら嘘になるでしょ」
紺野は顔をしかめる。
本当に面倒臭い。面倒臭いが、その面倒臭さがこの女の一番信用できるところでもあると知っている自分が、もっと面倒臭い。
しばらく沈黙が落ちた。
帝都の夕方の風は穏やかだった。
東都の空を裂いた重さとはまるで違う。遠くで烏が鳴く。屋上の端で風見が小さく軋む。その程度の音しかない。
紺野は手すりの向こうを見ながら、低く言った。
「許してはねえよ」
陽鳥は何も言わない。
「少なくとも今は。あの時のこと、まだ思い出すだけで腹立つし、気持ち悪いし……お前の顔見ると余計に思い出す」
「ひどいね」
「ひどいのはそっちだろ」
「それはそう」
この即答の速さに、紺野は思わず笑いそうになって、笑わなかった。
「でも」
と言って、言葉が止まる。
でも、の先が綺麗な文章にならない。
怒りはある。屈辱もある。だが、そこから先に、切る、だけが来ない。切れないのではない。切る方向へ自分の内側がちゃんと揃わない。
陽鳥が静かに待っている。
急かさない。促さない。言葉の続きを奪わない。その待ち方が、珍しくまともだった。
「……でも、それだけでもない」
絞り出すみたいに、紺野は言った。
「お前が止めなきゃ、あの時どうなってたかは、俺にも分からない」
陽鳥の表情が、わずかに揺れる。
安堵ではない。痛みの方が近い。
「分からないし、分かりたくもない。だから今すぐ、お前が間違ってたとも言えない」
夕方の空気が、一段だけ冷たくなる。
それは和解ではない。許しでもない。
もっと中途半端で、もっと厄介な形の本音だった。
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陽鳥はしばらく黙っていた。
黙ったまま、風に髪を揺らしている。その横顔は疲れて見える。東都の空で見た狂気の切っ先とは違う。もっと静かな、人間の摩耗だった。
彼女はやがて、小さく息を吐いて言う。
「じゃあ、ちょっとだけ助かった」
「何が」
「全部切られたわけじゃないって分かったから」
紺野は眉を寄せる。
「勝手に安心してんじゃねえよ」
「してないよ。安心はしてない」
陽鳥は笑う。今度の笑みは薄いが、空回ってはいない。
「むしろ前より危ないなって思った」
「は?」
「だって、あんた今、私のこと完全には嫌い切れてないでしょ」
「……殺すぞ」
「ほらそういうの。そういう言い方で誤魔化してる時点で、前より深い」
紺野は本気で顔をしかめた。
だが、否定しきれない。否定できないことを、この女はきっちり嗅ぎ取る。
陽鳥は続ける。
「私もたぶん、前より危ない」
「自覚あるのかよ」
「あるよ。止めた側って、思ったより引きずるのね」
そこで初めて、彼女は真正面から紺野を見た。
「次も見るかもしれない、って思ってる」
その言葉の意味を、紺野はすぐに理解した。
また危ない底を見るかもしれない。見たくない。でも、目を逸らせない。逸らさない。
それは恐怖であり、執着でもある。
「見せねえよ」
紺野は反射で言った。
陽鳥は肩をすくめる。
「努力はしてよ」
「軽く言うな」
「軽く言ってない。かなり本気」
夕日が屋上の床へ長く伸びる。
二人の影も伸びる。重ならない。だが離れきってもいない。二歩ぶんの距離が、以前より遠くて、以前より近かった。
謝罪は無い。許しも無い。
東都の夜にできた傷口は、まだ開いたままだ。そこへ綺麗な言葉を貼る段ではない。
それでも、完全に切れなかった。
それが救いかどうかは分からない。
むしろ、以前より危険な形で繋がり直してしまっただけかもしれない。
だが少なくとも今ここで、二人ともそれを見ないふりはしなかった。
陽鳥が先に扉の方へ体を向ける。
「妙子ちゃんに長いって怒られる前に戻ろうか」
「お前が先に呼び出されたんだろ」
「でも遅いのはだいたいあんたのせいにされるよ」
「ふざけんな」
「隊長だからね」
軽口を残して、陽鳥が歩く。
紺野はすぐには続かなかった。沈みかけた空を一度だけ見上げる。
静かだった。
静かすぎる帝都の空の下で、自分たちは何一つ片付けていない。
それでも、前へ進むための傷の持ち方だけは、少しだけ変わった気がした。
危ない線だ。
前より深い。
だが、もうそのこと自体を否定する段ではなかった。




