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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
番外章 ニライカナイ 未来彼方
164/193

百六十二話 静かすぎる病室


百六十二話


162-1



医務棟の静けさは、休息のために作られている。

そういう建前になっている。


実際には違う。あれは回復のための静けさではない。音を減らし、歩幅を揃え、無駄な気配を一つずつ削ることで、壊れかけたものをこれ以上刺激しないための沈黙だ。軍の病室にある静けさは、優しさではなく管理に近い。


その日の午後、紺野健太郎は羽場桐妙子に半ば追い立てられる形で医務棟の奥へ通された。


「五分で済ませてください」

「見舞いに時間制限あるのか」

「相手によります」


即答だった。


羽場桐はいつも通りの顔をしている。だが、そのいつも通りは、東都の夜を跨いでなお崩れないように丁寧に整えられた表情だった。扉の前で足を止め、彼女は声を少しだけ落とす。


「余計な挑発はしないでください。向こうは怪我人ですが、それでも向こうです」

「分かってる」

「分かっている人ほど余計なことを言います」


紺野は言い返しかけてやめた。

そのやり取り自体が、扉の向こうにいる相手を前にすると少し軽い気がしたからだ。


病室の前には警備兵が二名。扉の左右に立ち、視線だけでこちらの入室を確認する。形式だけの警備ではない。意味のある配置だった。あの中に横たわっている男は、回復中の患者であると同時に、それ自体で国家級の戦力でもある。


東方守護、凛藤義貞。

神術を千単位で噛み砕いて繋ぎ替え、万単位で同時に走らせる神術大聖の使い手。東都では園業律心斎に敗れた。

敗れた、という言葉でしか括れないからそう呼ぶだけで、その実態はもう少し醜い。直前の消耗、想定外の連戦、そして千載一遇を嗅ぎ取った怪物に喉元を噛み切られかけた、その結果だ。


だが、傷ついた守護は終わった守護と同義ではない。

羽場桐が扉を開く。

病室は広い。

広いのに、広さが余って見えた。白い壁、白い天井、消毒薬の匂い、記録端末の淡い光。余計なものが少ない。少ないせいで、中央のベッドに横たわる人影だけが、妙に濃く見える。


凛藤義貞は上体を起こしていた。

包帯は多い。肩、胸、脇腹、左腕。どれも深い。だが、その深さは衰弱に見えない。むしろ、そこまで壊れてなお形を保っていること自体が、この男の格を証明していた。

顔色は良くない。だが、目が死んでいない。死んでいないどころか、あまりにもいつも通りこちらを測ってくる。


紺野は扉の内側で一歩だけ止まった。

止まった理由は礼儀ではない。病室の空気が、負傷者の部屋にしては張りすぎていたからだ。寝台の上にいるはずの男が、この部屋の一番高い場所に立っているみたいに見える。


凛藤が、先に口を開いた。


「立ったままでいい。見舞いの花も果物も無いなら、長居する理由はないだろう」


声は低く、乾いていた。

弱ってはいる。だが、折れてはいない。

その事実だけで、病室の温度が一段下がる。


162-2


紺野は病室の中へ入り、ベッド脇の椅子を見た。


座れと言われていない。だから座らない。陽鳥は窓際に立ったまま、視線だけで室内を測っている。扉の近くには羽場桐。彼女は同行者というより監督役だ。

凛藤は紺野を見て、唇の端だけをわずかに動かした。


「顔色は、お前の方が悪いな」

「そっちほどじゃねえよ」

「慰めのつもりか」

「そんな気の利いたことは言わない」

「なら結構」


短いやり取りだった。

だが、その短さに余計な情が混じらないぶん、会話の骨格だけが剥き出しになる。


凛藤は枕元の水差しへ手を伸ばし、途中でやめた。

腕が痛むのだろう。陽鳥がそれを見て動きかけるが、凛藤は視線だけで止めた。自力で届く位置まで体をずらし、コップに少しだけ水を注ぐ。そういう小さな動作にすら、普段この男がどれだけ他人の補助を必要としていないかが透けて見える。


一口飲んでから、凛藤は淡々と言った。


「今回は、負ける理由が先に揃っていた」


羽場桐がわずかに眉を動かす。

紺野も黙って聞く。言い訳ではないと、全員が最初から分かっていた。凛藤義貞は、そういう言い方をしない。


「お前たちを軽く見たつもりはなかった。だが、想定より削られた。そこへ園業が来た。それだけだ」

「……それで済ませるのかよ」


紺野が言うと、凛藤はむしろ少しだけ興味を持った顔をした。


「何を期待している。私が悔しがって机を叩くところか。それとも、自分の不運を長々と数え上げるところか」

「別に」

「なら聞け。守護が敗れる時は、格が落ちたからではない。盤面がそうなったからだ。今回の私は、そういう盤面の上で負けた」


それだけのことだ、と言わんばかりの口調だった。

傲慢ではない。事実を事実の大きさで置いているだけだ。だから余計に重い。


紺野は息を吐く。

この男は、自分の敗北すら一段引いた場所から見る。見た上で、折れない。折れないどころか、もう次の計算へ進んでいる。

凛藤の目が、そこで少しだけ細まった。


「お前は、負けた後の顔をしていない」


唐突なようで、まっすぐな言葉だった。

紺野が答える前に、凛藤は続ける。


「勝った顔でもない。負けを咀嚼し切れていない顔だ。あの夜、自分の中に何を見たのか、まだ言葉にできていないな」


病室の空気が、また一段静かになる。

羽場桐が何も挟まないのは、挟むより先にその言葉の価値を測っているからだろう。

紺野は凛藤を見返す。


「見たところで、全部分かるみたいな顔すんな」

「分かるわけがない。私は理解者ではないからな」


その一言にだけ、ほんの少し別の含みがあった。

理解、という語を選んだのが偶然ではないと紺野は思ったが、問い返すにはまだ形が無い。


凛藤は視線を外さずに言う。


「だが、お前の危うさと価値が同じ場所にあることくらいは分かる。そこを見誤るほど、私は老いていない」


負傷者の台詞とは思えなかった。

むしろ、布団の中でなお高位の理不尽を維持しているという意味で、立っている時より厄介に見える。


「隊長役から外れる気なら、やめておけ」


紺野の眉が動く。


「……何でお前にそこまで言われなきゃならない」

「言わなければ、お前は黙って余計な方向へ寄る」


言い切った。

その断定の仕方に、紺野はわずかに歯噛みしたくなる。腹立たしさがある。あるが、それを否定できるほど自分の足場も固くない。


「お前は、お前が危険だからこそ必要な側の人間だ。そういう類は珍しい。珍しいものを雑に捨てるな」


病室の白さが、その言葉だけを冷たく反射した。


162-3


凛藤の視線が、そこでようやく陽鳥へ動いた。


珠洲原陽鳥は窓際に寄りかかったまま、腕を組んでいる。表情はいつも通りに近い。近いが、近いだけだ。東都の空で自分の全手札を切った女の疲労が、皮膚の下にまだ沈んでいる。

凛藤はそれを一目で見抜いた顔をした。


「お前も立っているだけで褒められる状態ではないな」


陽鳥は肩をすくめる。


「見舞われる側に言われたくないな、それ」

「軽口を叩けるなら死なない。便利な指標だ」

「ひどい診断ね」

「正確だろう」


凛藤はそこで一度だけ咳き込み、口元へ手を当てた。

指の隙間に赤は見えない。だが、見えないことが安心にはならない程度に深い咳だった。呼吸を整え、彼は陽鳥へ真正面から言葉を投げる。


「珠洲原」

「なに」

「お前は自分の役目を果たした」


陽鳥の睫毛が、わずかに揺れる。


「慰め?」

「違う。確認だ」


凛藤の声に温度はない。

その無温度さが、逆に嘘の無さへ繋がる。


「止めるべき時に止めた。後悔していようといまいと、その一点だけは変わらん」


陽鳥はすぐには返さなかった。


止めた。あの夜、自分は確かにそうした。その結果何が起きたかも知っている。園業は激昂し、空はさらに悪い方へ裂けた。だから、その判断が絶対的に正しかったとまでは、彼女自身まだ言い切れない。


凛藤はその迷いを見た上で、切り捨てるように言う。


「だから無駄にするな」

病室の空気が止まる。

「……何を」

「お前自身をだ」


陽鳥は口元だけで笑った。笑った、というより、そういう形に逃がした。


「随分買ってくれるのね、私のこと」

「買っていない。盤面の話をしている」


凛藤は冷たく続ける。


「お前は便利な道具ではある。だが、便利なだけの道具ではない。東都でそれを証明した。なら、その証明を自分で安く扱うな。紺野を止めたことに引きずられて、自分の使い方まで見失うな」


陽鳥の表情から、ほんの少しだけ軽さが抜けた。

この男は、本当に余計なところまで見ている。

見て、それを必要最小限の言葉で切る。だから厄介だ。だから守護なのだと、羽場桐は心のどこかで冷静に確認した。


陽鳥は視線を逸らさずに言う。


「……相変わらずひどい人ね」

「今さらだろう」

「こっちはもう少し気の利いた言い方を期待してたのに」


「期待する相手を間違えている」

そこで初めて、陽鳥は少しだけ本物の笑みを漏らした。

薄い笑みだった。だが、さっきまでの空回る軽口よりずっと静かで、ずっとましだった。


162-4


話はそれで終わりそうに見えた。

実際、羽場桐はここで切り上げるつもりだったのだろう。扉の方へ一歩だけ体を引き、時間です、と告げる準備をしていた。


だが凛藤が、その前に紺野へもう一度視線を戻す。


「園業は、また機を待つ」


言葉は短い。

予言ではない。観測でもない。ただ、そういう存在だという確認だった。


「あれは飢えで動く。だが、あれは飢えだけではない。あの手合いが一度見つけた“次”は、簡単には忘れん」


紺野は黙って聞く。


忘れられていないことは、たぶん自分が一番知っていた。東都の夜の最後、自分に向けられたあの歓喜は、獲物へ向ける目と祈りの途中のような目が半分ずつ混ざっていた。


凛藤は言う。


「だから準備しろ。お前自身のためではない。次に同じ盤面が来た時、今度は別の答えを持って立つためだ」

「別の答え?」

「東都でお前が見たもののことだ」


そこで、凛藤は初めて少しだけ目を細めた。

挑発ではない。見定める目だ。


「次は違わせる」


紺野がそれを口にしたのかと思った。

違った。凛藤自身が、自分の敗北を引き受けた同じ声で、そう言ったのだ。


「私もな」


たった一言で十分だった。

東方守護は終わっていない。負けたまま沈む男ではない。布団の上で包帯に巻かれていてもなお、次の盤面を噛み砕こうとしている。

その事実が、病室の空気へ静かな刃を通す。


羽場桐が今度こそ口を開いた。


「時間です」


誰も異論を挟まない。

紺野は踵を返し、陽鳥も窓際から離れる。扉の前で一度だけ振り返ると、凛藤はもうこちらを見ていなかった。枕元の記録端末へ目を落としている。回復中の患者が読むには、あまりにも重い内容が並んでいる顔だった。


廊下へ出る。

扉が閉まる。白い沈黙が一枚向こう側へ隔てられる。

それでも、部屋の中の圧は消えなかった。


陽鳥が先に小さく息を吐く。


「……あれで半壊なんだから、守護ってやっぱり嫌ね」


羽場桐が答える。


「嫌で済んでいるうちは幸運ですよ」


紺野は何も言わず、閉じた扉を一度だけ見た。

負けても終わらない。

折れてもいない。

あの夜、東都の空の下で噛み合った理不尽は、まだ一つも盤面から消えていない。


医務棟の廊下は静かだった。

静かなのに、その静けさの奥で、次の何かがもう位置を変え始めている気がした。


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