百六十話 白い夢
百六十話
160-1 白い夢
夢の中では、足音が遅れてついてきた。
紺野健太郎は、見覚えのあるような、ないような路地を歩いていた。
東都の裏路地に似ている。幅の狭さも、壁の距離も、どこかで見た割れた石畳の並びも、あの夜の都市の残骸を思わせる。だが、似ているだけだ。決定的に違うものが、最初から全部抜けている。
色がない。
白い、という表現も正確ではない。
白は本来、光の色だ。ここにあるのは、光ではなく、色が剥がれた後の薄さだった。壁も空も地面も、塗料の上澄みだけを誰かが拭き取ってしまったみたいに淡い。
音も薄い。風が吹いているはずなのに、布は鳴らない。遠くで何かが落ちた気配だけがして、その“落ちた”という事実だけが、数拍遅れて耳へ届く。
壊れているわけではない。
むしろ整っていた。
倒れた看板は倒れた角度のまま止まり、割れた窓は、砕けた瞬間の形を保ったまま壁に嵌まっている。散った硝子片にさえ乱れがない。
崩壊ではなく、保存。
その言葉が頭をよぎり、紺野はすぐに嫌な顔をした。夢の中で言葉に先回りされる感じが気に入らない。
歩いているのに、進んでいる気がしない。
路地は曲がるたびに別の場所へ繋がっているはずなのに、空気の冷たさだけが同じ位置に居座り続ける。東都の夜にあった重さとは違う。あれは圧だった。今ここにあるのは、もっと薄く、もっと静かで、だから余計に逃げにくい何かだ。
自分の呼吸だけが、やけに生々しい。
紺野は立ち止まり、振り返った。
誰もいない。
誰もいないのに、独りではない感覚だけがある。視線というには柔らかく、敵意というには遠すぎる。冷たい水に手首まで浸した時の、皮膚の内側だけが先に気づくような同席感。
東都で初めてあれを見た時より、その気配は近かった。
近いのに、踏み込んでこない。
来ないのではなく、もうここにいる側の距離感だった。
「……出ろよ」
声は乾いていた。
虚勢でも命令でもない。確認に近い。自分が何を呼んでいるのかを、口の中で確かめるような声だった。
返事はすぐには来なかった。
その代わり、路地の白さが、ほんの少しだけ深くなる。
160-2
角を曲がった先に、その子はいた。
壁に寄りかかっているわけでもなく、立っているというより、そこに置かれているように静かだった。
髪も、睫毛も、衣の裾も、白に沈みきらないわずかな灰を残している。薄い。細い。折れそうなのではなく、折れてもその形のまま残りそうな細さだった。
少女は紺野を見る。
見上げるでもなく、見下ろすでもない。視線の高さが、妙に対等だ。
前に見た時より、顔がある。造形の話ではない。
目や口の位置がどうこうではなく、人の顔に必要な“間”が増えていた。表情になりきる前の、何かが動こうとする余白。感情と呼ぶにはまだ薄い。だが、無いとも言い切れない。そこが、前より気味が悪い。
「また見た」
少女が言った。
声は幼い。
幼いが、年齢には聞こえない。覚えたばかりの言葉を真似しているのでもなく、長く使い慣れた言葉を喋っているのでもない。その中間で、意味だけを丁寧に置いてくる声だった。
紺野は眉を寄せる。
「見た、じゃ無い。勝手に入ってくるな」
「うん」
「うん、じゃないだろう」
「でも、いた」
少女はそう言って、少しだけ首を傾けた。
叱られている子供の仕草に見えかけて、すぐに違うと分かる。似ているだけだ。人間の動きを後から覚えたものが、正しい角度をなぞっている。
「まだ終わってないね」
その言葉で、紺野の喉がわずかに固くなる。
何がだ、と返すのは簡単だった。
だが、それを聞くこと自体が何かを認める気がして、紺野は口を開かなかった。東都の夜の終わり方は、確かに綺麗ではなかった。終息はした。判決も下った。都市も動き始めた。だが、終わったかと聞かれれば、胸のどこかが黙る。
少女は一歩だけ近づく。
足音はしない。床を踏んでいるはずなのに、音が遅れてこない。夢だから、では足りない違和感だった。
「痛い?」
「……何が」
「まだ、のこってるところ」
紺野は反射で右肩へ意識を向け、それから舌打ちしそうになる。
誘導されたと気づいたからだ。だが、少女が聞いているのは身体の傷だけではない、と直感の方が先に知っていた。
「お前に関係あるのか?」
「あるかもしれない」
少女は即答した。
即答できるほど、その答えに躊躇がないことが、妙に寒い。
160-3
紺野は一歩、距離を詰めた。
本来なら逆だ。
危険の正体が曖昧で、なおかつ明らかに人ではないものが目の前にいるなら、まず下がる。間合いを取る。逃げ道を見る。それが普通の判断だ。
普通の判断ができないほど弱っているつもりはない。なのに足は前へ出た。
近くで見た少女の顔は、やはり薄い。
精巧なのではない。未完成でもない。ただ、完成という概念そのものが少し違う場所にある顔だった。頬に血の気がない、とも違う。血という発想自体が、最初からそこに置かれていない。
恐怖。
それは間違いなくある。
だが、怖さの隣に、別のものが居座っている。
理解したい。
紺野はその衝動を自覚して、内心で舌打ちした。
知りたい、ではない。暴きたい、でもない。敵の仕組みを掴みたいのとも違う。目の前にある得体の知れないものを、得体の知れないままで遠ざけるのではなく、どういう形でここに居るのかを知ろうとしてしまう。あまりにも自分に都合の悪い反応だった。
少女は、近づいてきた紺野を避けない。
逃げもしない。受け入れるというほど意思的でもない。ただ、そこに在ることをやめない。
「前より、しゃべるな」
「ふえた」
「何が」
「ことば」
少女は自分の口元へ指をやった。仕草そのものは幼い。だが、その指先が唇へ触れる角度ひとつにも、身体の癖というものが見えない。生きて積み重ねた動きではなく、必要だからそこへ置いた形だった。
「みてると、ふえる」
「誰を」
「いろんなひと」
そこで初めて、少女の目がわず
かに揺れた。
揺れた、と思えた。実際には光の具合かもしれない。だが紺野には、その曖昧さごと人間らしく見えた。
「あなたも」
胸の奥で何かが、嫌な音を立てた。
観察されている。
学ばれている。
寄ってきている。
それだけなら、むしろ嫌悪だけで済んだ。
厄介なのは、その寄り方に悪意が見えないことだった。悪意がないから安全なのではない。悪意がないものの方が、時にずっと深く入り込む。
少女は紺野の表情を見て、ほんの少しだけ眉根を寄せた。
心配、に近い形だった。似ているだけかもしれない。だが、似ているで片づけるには近づきすぎている。
「こわい?」
「怖いな」
「うん」
「お前が怖いって言ってんじゃない。……いや、お前も怖いが」
言ってから、自分でも何を訂正したいのか分からなくなる。
少女はその混乱を咎めない。咎めるという発想がなさそうだった。
「でも、みたい」
その一言が、紺野の背筋を冷やした。
見る。
何を。どこまで。
問いは浮かんだのに、口に出る前に、少女の方が先に小さく首を振った。
「まだ、だめ」
その“まだ”に、時間の感覚があった。
今は駄目だが、いつかは、という含み。
それが未来予告なのか、ただの気まぐれなのか判別できない。判別できないまま、言葉だけが綺麗に胸へ残る。
160-4
路地の白さが、少しずつ薄くなり始めた。
夢が終わる前触れだと直感が告げる。
少女もそれを知っている顔をした。知っている、という表現が成立してしまう程度には、もう表情がある。
「帰るのか」
紺野が言うと、少女はこくりと頷いた。
頷き方まで前より自然だ。自然になったことが、少しも安心に繋がらない。
「お前はなんだ」
問うつもりはなかった。
問えば、何かが進んでしまう気がしたからだ。だが、口が先に動いた。白い世界の中では、警戒と好奇心の境目が少しだけ緩む。
少女は少し考えるように黙る。
考える、というより、答えを探す動作を模倣しているのかもしれない。だが、そういう模倣を挟むこと自体が、前よりずっと人間に近い。
「まだ、ない」
「名前がか?」
「たぶん」
それだけ言って、少女は一歩下がった。
距離が開いたわけではない。世界の方が、彼女を薄めていく。
「次はいつだ」
紺野は自分で驚くくらい自然にそう聞いていた。
また会う前提で口が動いたことに、問い終わってから気づく。
少女は、そこで初めて少しだけ笑った。
笑った、にしては薄い。
口元が動いただけかもしれない。だが、あれは確かに、人間が人間に向ける時の形へ近づいていた。
「またね」
言葉は短い。
短いのに、ひどく生活の側にある響きだった。別れの挨拶なんて、人間ならいくらでも使う。だからこそ、その普通さが気味悪い。怪物が呪詛を吐くより、よほど深く日常へ刺さる。
白が崩れた。
目を開けると、医務棟の天井があった。
夜明け前の薄青い光が、窓の端だけを冷やしている。呼吸は少し早い。汗はかいていない。悲鳴も上げていない。悪夢というには静かすぎる。
それでも、夢の終わりに残るぼんやりした霧とは別のものが、まだ部屋にいた。
冷たい同席感。
誰もいない。
誰もいないのに、今しがたまで会話をしていた空気だけが、枕元のあたりに薄く沈んでいる。
紺野は布団の上で片手を額に当て、しばらく動かなかった。
右肩が鈍く痛む。現実の痛みだ。助かる。痛みは現実を確かめるのに向いている。
だが、その現実の中へ、さっきの一言だけがきれいに残っていた。
またね。
紺野は目を閉じず、天井を見たまま小さく息を吐く。
「……冗談じゃないな」
言葉は弱かった。
拒絶の形をしているくせに、どこかで本気になり切れていない声だった。




