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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
番外章 ニライカナイ 未来彼方
162/192

百六十話 白い夢


百六十話


160-1 白い夢



夢の中では、足音が遅れてついてきた。

紺野健太郎は、見覚えのあるような、ないような路地を歩いていた。


東都の裏路地に似ている。幅の狭さも、壁の距離も、どこかで見た割れた石畳の並びも、あの夜の都市の残骸を思わせる。だが、似ているだけだ。決定的に違うものが、最初から全部抜けている。


色がない。

白い、という表現も正確ではない。

白は本来、光の色だ。ここにあるのは、光ではなく、色が剥がれた後の薄さだった。壁も空も地面も、塗料の上澄みだけを誰かが拭き取ってしまったみたいに淡い。


音も薄い。風が吹いているはずなのに、布は鳴らない。遠くで何かが落ちた気配だけがして、その“落ちた”という事実だけが、数拍遅れて耳へ届く。

壊れているわけではない。

むしろ整っていた。


倒れた看板は倒れた角度のまま止まり、割れた窓は、砕けた瞬間の形を保ったまま壁に嵌まっている。散った硝子片にさえ乱れがない。

崩壊ではなく、保存。


その言葉が頭をよぎり、紺野はすぐに嫌な顔をした。夢の中で言葉に先回りされる感じが気に入らない。

歩いているのに、進んでいる気がしない。


路地は曲がるたびに別の場所へ繋がっているはずなのに、空気の冷たさだけが同じ位置に居座り続ける。東都の夜にあった重さとは違う。あれは圧だった。今ここにあるのは、もっと薄く、もっと静かで、だから余計に逃げにくい何かだ。


自分の呼吸だけが、やけに生々しい。

紺野は立ち止まり、振り返った。

誰もいない。


誰もいないのに、独りではない感覚だけがある。視線というには柔らかく、敵意というには遠すぎる。冷たい水に手首まで浸した時の、皮膚の内側だけが先に気づくような同席感。


東都で初めてあれを見た時より、その気配は近かった。

近いのに、踏み込んでこない。

来ないのではなく、もうここにいる側の距離感だった。


「……出ろよ」


声は乾いていた。

虚勢でも命令でもない。確認に近い。自分が何を呼んでいるのかを、口の中で確かめるような声だった。


返事はすぐには来なかった。

その代わり、路地の白さが、ほんの少しだけ深くなる。


160-2


角を曲がった先に、その子はいた。


壁に寄りかかっているわけでもなく、立っているというより、そこに置かれているように静かだった。

髪も、睫毛も、衣の裾も、白に沈みきらないわずかな灰を残している。薄い。細い。折れそうなのではなく、折れてもその形のまま残りそうな細さだった。


少女は紺野を見る。

見上げるでもなく、見下ろすでもない。視線の高さが、妙に対等だ。


前に見た時より、顔がある。造形の話ではない。

目や口の位置がどうこうではなく、人の顔に必要な“間”が増えていた。表情になりきる前の、何かが動こうとする余白。感情と呼ぶにはまだ薄い。だが、無いとも言い切れない。そこが、前より気味が悪い。


「また見た」


少女が言った。

声は幼い。

幼いが、年齢には聞こえない。覚えたばかりの言葉を真似しているのでもなく、長く使い慣れた言葉を喋っているのでもない。その中間で、意味だけを丁寧に置いてくる声だった。


紺野は眉を寄せる。


「見た、じゃ無い。勝手に入ってくるな」


「うん」


「うん、じゃないだろう」


「でも、いた」


少女はそう言って、少しだけ首を傾けた。


叱られている子供の仕草に見えかけて、すぐに違うと分かる。似ているだけだ。人間の動きを後から覚えたものが、正しい角度をなぞっている。


「まだ終わってないね」


その言葉で、紺野の喉がわずかに固くなる。


何がだ、と返すのは簡単だった。

だが、それを聞くこと自体が何かを認める気がして、紺野は口を開かなかった。東都の夜の終わり方は、確かに綺麗ではなかった。終息はした。判決も下った。都市も動き始めた。だが、終わったかと聞かれれば、胸のどこかが黙る。


少女は一歩だけ近づく。

足音はしない。床を踏んでいるはずなのに、音が遅れてこない。夢だから、では足りない違和感だった。


「痛い?」

「……何が」

「まだ、のこってるところ」


紺野は反射で右肩へ意識を向け、それから舌打ちしそうになる。

誘導されたと気づいたからだ。だが、少女が聞いているのは身体の傷だけではない、と直感の方が先に知っていた。


「お前に関係あるのか?」

「あるかもしれない」


少女は即答した。

即答できるほど、その答えに躊躇がないことが、妙に寒い。


160-3


紺野は一歩、距離を詰めた。


本来なら逆だ。

危険の正体が曖昧で、なおかつ明らかに人ではないものが目の前にいるなら、まず下がる。間合いを取る。逃げ道を見る。それが普通の判断だ。

普通の判断ができないほど弱っているつもりはない。なのに足は前へ出た。


近くで見た少女の顔は、やはり薄い。

精巧なのではない。未完成でもない。ただ、完成という概念そのものが少し違う場所にある顔だった。頬に血の気がない、とも違う。血という発想自体が、最初からそこに置かれていない。


恐怖。


それは間違いなくある。

だが、怖さの隣に、別のものが居座っている。


理解したい。


紺野はその衝動を自覚して、内心で舌打ちした。

知りたい、ではない。暴きたい、でもない。敵の仕組みを掴みたいのとも違う。目の前にある得体の知れないものを、得体の知れないままで遠ざけるのではなく、どういう形でここに居るのかを知ろうとしてしまう。あまりにも自分に都合の悪い反応だった。


少女は、近づいてきた紺野を避けない。

逃げもしない。受け入れるというほど意思的でもない。ただ、そこに在ることをやめない。


「前より、しゃべるな」

「ふえた」

「何が」

「ことば」


少女は自分の口元へ指をやった。仕草そのものは幼い。だが、その指先が唇へ触れる角度ひとつにも、身体の癖というものが見えない。生きて積み重ねた動きではなく、必要だからそこへ置いた形だった。


「みてると、ふえる」

「誰を」

「いろんなひと」


そこで初めて、少女の目がわず

かに揺れた。

揺れた、と思えた。実際には光の具合かもしれない。だが紺野には、その曖昧さごと人間らしく見えた。


「あなたも」


胸の奥で何かが、嫌な音を立てた。

観察されている。

学ばれている。

寄ってきている。

それだけなら、むしろ嫌悪だけで済んだ。


厄介なのは、その寄り方に悪意が見えないことだった。悪意がないから安全なのではない。悪意がないものの方が、時にずっと深く入り込む。


少女は紺野の表情を見て、ほんの少しだけ眉根を寄せた。

心配、に近い形だった。似ているだけかもしれない。だが、似ているで片づけるには近づきすぎている。


「こわい?」

「怖いな」

「うん」

「お前が怖いって言ってんじゃない。……いや、お前も怖いが」


言ってから、自分でも何を訂正したいのか分からなくなる。

少女はその混乱を咎めない。咎めるという発想がなさそうだった。


「でも、みたい」


その一言が、紺野の背筋を冷やした。

見る。

何を。どこまで。

問いは浮かんだのに、口に出る前に、少女の方が先に小さく首を振った。


「まだ、だめ」 


その“まだ”に、時間の感覚があった。

今は駄目だが、いつかは、という含み。

それが未来予告なのか、ただの気まぐれなのか判別できない。判別できないまま、言葉だけが綺麗に胸へ残る。


160-4


路地の白さが、少しずつ薄くなり始めた。

夢が終わる前触れだと直感が告げる。

少女もそれを知っている顔をした。知っている、という表現が成立してしまう程度には、もう表情がある。


「帰るのか」


紺野が言うと、少女はこくりと頷いた。

頷き方まで前より自然だ。自然になったことが、少しも安心に繋がらない。


「お前はなんだ」


問うつもりはなかった。

問えば、何かが進んでしまう気がしたからだ。だが、口が先に動いた。白い世界の中では、警戒と好奇心の境目が少しだけ緩む。


少女は少し考えるように黙る。

考える、というより、答えを探す動作を模倣しているのかもしれない。だが、そういう模倣を挟むこと自体が、前よりずっと人間に近い。


「まだ、ない」

「名前がか?」

「たぶん」


それだけ言って、少女は一歩下がった。

距離が開いたわけではない。世界の方が、彼女を薄めていく。


「次はいつだ」


紺野は自分で驚くくらい自然にそう聞いていた。

また会う前提で口が動いたことに、問い終わってから気づく。


少女は、そこで初めて少しだけ笑った。

笑った、にしては薄い。

口元が動いただけかもしれない。だが、あれは確かに、人間が人間に向ける時の形へ近づいていた。


「またね」


言葉は短い。


短いのに、ひどく生活の側にある響きだった。別れの挨拶なんて、人間ならいくらでも使う。だからこそ、その普通さが気味悪い。怪物が呪詛を吐くより、よほど深く日常へ刺さる。


白が崩れた。


目を開けると、医務棟の天井があった。

夜明け前の薄青い光が、窓の端だけを冷やしている。呼吸は少し早い。汗はかいていない。悲鳴も上げていない。悪夢というには静かすぎる。

それでも、夢の終わりに残るぼんやりした霧とは別のものが、まだ部屋にいた。


冷たい同席感。

誰もいない。

誰もいないのに、今しがたまで会話をしていた空気だけが、枕元のあたりに薄く沈んでいる。


紺野は布団の上で片手を額に当て、しばらく動かなかった。

右肩が鈍く痛む。現実の痛みだ。助かる。痛みは現実を確かめるのに向いている。


だが、その現実の中へ、さっきの一言だけがきれいに残っていた。

またね。

紺野は目を閉じず、天井を見たまま小さく息を吐く。


「……冗談じゃないな」


言葉は弱かった。

拒絶の形をしているくせに、どこかで本気になり切れていない声だった。


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