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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
番外章 ニライカナイ 未来彼方
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百五十九話 市場の朝と東都の夜


百五十九話


159-1 市場の朝と東都の夜



野菜は、戦の翌朝でも腹を満たす値段で並ばなければならない。

当たり前のことだが、その当たり前を維持するために何本の道が繋がっていて、何枚の帳面が擦り切れ、何人の顔色が変わるのかを、帝都の台所に立つ人間はよく知っている。


高倉源三が荷車を押して市場へ入った時、朝の空気はまだ冷えていた。


鼻に入るのは土と青菜の匂い、濡れた木箱、古びた縄、魚の鱗を洗った水の薄い生臭さ。生きている匂いだ。昨日、第二首都の空を覆ったものが何であれ、腹の虫はそんなことを待ってくれない。


「高倉さん、今日は白菜ないのかい」

「あるよ。あるけど昨日の値段じゃ出せねえ」

「また上がったの?」

「また、っつーか、東都の方の線がまだ戻りきってねえんだ。積み替えが遅れてる」


客の女は顔をしかめる。しかめるが、本気では怒らない。怒鳴れば安くなる段ではないことを、向こうも分かっている。高倉は木箱の縄を解きながら、重さだけで中身の減り方を測った。


少ない。

絶望するほどではない。だが、平時の量ではない。足りないものを足りないまま回す時の嫌な勘が、指先にじっとり残る。


隣では豆腐屋の親父が帳面をめくり、さらに隣では米問屋の若いのが「こっちもまだだ」と頭を掻いている。誰も大声を出さない。市場にいる人間は、品薄より先に、品薄で声を荒げても物は増えないと知っている。


高倉は葉を整え、泥を払い、傷んだ外葉を一枚ずつ剥がした。


東都で空がどうなったかは見ていない。だが、見ていなくても分かる。大きいことが起きた時、最初に悲鳴を上げるのは新聞でも軍でもない。値段だ。時間だ。届くはずのものが届かない、その沈黙だ。


「ま、死ぬほど高くはしねえよ」

「死ぬほどって、縁起でもないねえ」

「縁起の良し悪しで荷は増えねえんだよ」


言いながら、少しだけ声を和らげる。

客はため息をつき、それでも二玉手に取った。高倉は秤の針を見て、数を言い、銭を受け取り、袋を渡す。その一つ一つの手順が、今日は妙に重く見えた。


都市が壊れる時、空から壊れることもある。

だがそれでも都市を回し直す時は、たいていが台所からだ。


159-2


朝日が高くなるにつれ、噂も増えた。


市場の噂は足が早い。だが、足が早いものほど途中で形を変える。東都の夜も、もう半ばその段へ入りかけていた。


「聞いたかい、東都の空に巨人が立ったんだってさ」

「立ったじゃないよ、ぶら下がったって話もあるよ」

「いや、空が先に暗くなったって。昼間に夜が落ちてきたんだと」

「第二首都って、半分消えたのか?」

「消えてたら物が来るわけないだろ、馬鹿」


短い会話が野菜の上を飛び、魚の水桶を越え、味噌樽の脇で別の顔へ移る。誰も正確なことは知らない。知っているふりをする者だけが少し詳しい。

高倉は葱を束ねながら、その雑音を聞いていた。


「高倉さんは何か聞いてるのかい。軍にいるんだろ」


客の一人が身を寄せるように言う。

高倉は顔を上げ、相手の年の頃と今夜の献立を一瞬で見た。こういう顔は、恐怖より先に家計を気にしている顔だ。


「軍つったって、全部知ってるわけじゃねえよ。東都は東都だ。こっちはこっち」

「でも怖いじゃないか」

「怖いよ」


高倉は即答した。

相手が少しだけ目を丸くする。


「怖いけどな、今日の晩に何食うかの方が先だ。怖がる腹にも何か入れなきゃならねえ」


笑いが一つ起きた。大きくはない。喉の奥で転がる程度の、生活に近い笑いだった。

その笑いが、市場にはよく似合う。


高倉は手を止めずに思う。

人間は昨日の怪物より、今日の野菜の値段を気にする。薄情だからではない。そうしなければ、生きていけないからだ。怪物は記憶へ逃がせる。だが、鍋の中身は逃がせない。


その現実を、高倉は嫌いではなかった。

むしろ信じている。都市を動かすのは英雄譚ではなく、明日の味噌汁の具だ。

だが今日に限っては、その健全さが少しだけ寒かった。


東都の夜は、もう誰かの口の上で別の形を取り始めている。

空が裂けたも、夜が落ちたも、何かが立ったも、半月もすれば尾鰭になり、一月もすれば酒の肴だ。都市はそうやって自分を守る。守るが、その速さは時々、忘却と紙一重になる。


高倉は大根を並べ替えながら、小さく舌を打った。

客に向けたものではない。自分の中で生まれた薄い不快感への音だ。


159-3


昼へ寄る少し前、品の流れが一度だけ途切れた。


市場の喧騒は水のようなもので、止まるのではなく薄くなる。客足が引き、荷車が一つ曲がり、誰かが勘定を間違え、そこだけ音が軽くなる。高倉は空いた木箱を積み直しながら、ふと顔を上げた。


市場の外れ。

布屋の影と、使われていない井戸の間の狭いところに、小さな人影が立っていた。

子供だった。


年は分からない。背が低い、という言い方では足りないほど、輪郭が静かだった。白でも灰でもない、色を薄く洗ったみたいな服。風があるのに裾があまり揺れない。

誰かを待っているようにも見えない。ただ、そこにいる。


高倉は目を細めた。

迷子、というには泣いていない。物乞い、というにはこちらを見ていない。市場は子供のいる場所だが、ああいう立ち方をする子供は少ない。生活から半歩だけ遠い立ち方だった。


「おい」


呼んだ声は、市場の喧騒に半分食われた。

子供は動かない。

高倉は木箱から手を離し、二、三歩だけそちらへ出た。距離にして十数歩。遠くはない。遠くはないのに、近づいた感じがしなかった。井戸脇の石が濡れているのでもないのに、足音だけが妙に鈍る。


その時、背後から声が飛ぶ。


「高倉さん! 釣りは!」

「あ? ……ああ、今行く!」


振り返ったのは一瞬だった。


勘定を待たせるわけにはいかない。そういう一瞬だ。たったそれだけの、一瞬。

戻って、銭を渡し、釣りを返し、もう一度市場の外れを見た時には、子供はいなかった。

誰かの背に隠れたのかと思ったが布屋の陰にも、井戸のそばにも、細い路地の先にも、あの静かな輪郭だけが綺麗に抜け落ちていた。


「……何だ今の」


自分でも聞こえるかどうかの声だった。


市場はもういつもの音に戻っている。

魚屋が怒鳴り、女が値切り、子供が転び、誰かが笑う。さっきまでそこにいたはずの人影だけが、最初から無かったみたいに消えている。


高倉はしばらくその場所を見ていたが、結局それ以上は追わなかった。追えなかった、の方が近い。妙に胸のあたりが冷えて、生活の場から半歩だけ足を出すことを身体が嫌がったのだ。


子供が一人、いた気がした。


その程度の言葉にしかできない。

だが、その「程度」に落とした瞬間、自分が見たものを少しだけ裏切った気もした。


159-4


本部へ戻る荷車は、朝より軽かった。


売れた分だけ、箱の底が高く鳴る。

帰り道の石畳には昼の光が乗り、帝都は帝都として普通に息をしている。屋台の湯気、行き交う制服、路面を流れる影。昨日どこかで空が狂ったことなど、この街の正午には関係がないようだった。


実際、関係は薄い。

東都と帝都は近いが、同じ都市ではない。第二首都が傷ついても、こちらの昼飯は時間どおりに出る。そういうものだ。そういうものだから国家は保つ。高倉はそれを知っているし、知っているからこそ、今日も荷を運んでいる。


だが、それでも思う。早すぎる。

東都の夜が、もう噂になっている。

噂になり、話の種になり、笑い話の縁に乗り、いずれ尾鰭をつけて歩き出す。その速さが、高倉には少しだけ気に入らなかった。忘れるな、という話ではない。


忘れなければ人間はもたない。そんなことは分かっている。

分かっているが、あまりに早く「面白い話」の形へ整えられていくのを見ると、喉の奥がざらつく。


あの日、あそこで空を見上げた人間にとっては、まだ噂ですらないはずだ。

名付ける前の怖さが、たぶんまだ身体の中で鳴っている。


高倉は荷車の取っ手を握り直した。


手のひらに木のざらつきが返る。生活の感触だ。こういう感触が人間を繋ぐ。だから嫌いじゃない。嫌いじゃないが、それだけで済ませたくない夜もある。

本部の門が見えてくる。

あの中にも、まだ東都の夜を身体のどこかへ入れたまま歩いている連中がいる。


高倉は一度だけ、市場の外れで見た小さな影を思い出した。

子供が一人、いた気がした。

あまりにも静かで、市場の音の方が、そいつを遠くへ押し流したみたいだった。


「……気のせい、じゃねえと面倒だな」


誰に聞かせるでもなく呟く。

呟いてから、高倉は少しだけ顔をしかめた。

面倒、で済ませられる類の静けさでは、なかった気がした。


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