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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
番外章 ニライカナイ 未来彼方
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百五十八話  先に戻ったもの


百五十八話


158-1 先に戻ったもの



笑い声が、先に戻った。

戻ったのは無邪気さではない。音量だけだ。


御親領衛本部の朝は、今日も決まった時刻に電灯が落ち、決まった時刻に書類が運ばれ、決まった時刻に誰かが廊下の端で文句を言う。軍の建物らしい律儀さで日常を演じている。そのくせ、演じていると分かる程度には、全員が少しずつ遅れていた。


三木一葉が廊下を走り、双葉が後ろから「走ると怒られる」と追い、三葉がそのさらに後ろで「怒られてから考えればよくない?」と笑う。


そのやり取りだけ抜けば、いつもの朝だ。あの三人がいつも通りに見えるという事実だけが、逆に隊の傷を浮かび上がらせた。


誰も、止めない。

止める余裕があるのではない。

止めるほどの元気が、まだ戻り切っていない。

樋道芳芙美は給湯室の前で、髪先を弄りながら鏡を睨んでいた。


「東都一つひっくり返して帰ってきたのにさぁ、寝不足って顔に出るの最悪じゃない? 英雄にもっと優しい照明とかないの?」

「あなたは寝不足じゃなくて生活が荒れてるだけでしょ」


支倉真名がそう返す。声はいつも通り落ち着いている。だが、その落ち着きは舞台のために磨いたものではなく、少し無理をして平面に均している声だった。

高倉源三が市場帰りの木箱を脇に抱え、廊下の隅で靴を脱ぎかけている三木たちに低く言う。


「こら、そこじゃねえ。飯は食堂、靴は床、隊長に迷惑かけんな」


隊長、という言葉に、一瞬だけ空気が止まった。

高倉は言ってから、顔を上げなかった。

気づいたのは一葉だけで、双葉は口をつぐみ、三葉は笑いかけた顔のまま黙った。ほんの半拍。だが、その半拍で十分だった。本部の朝に貼りついていた薄い膜が、そこだけきしんだ。


羽場桐妙子が執務机から顔を上げる。視線だけで、止まった空気を切り分ける。


「高倉さん、その箱は厨房へ。三木さん達は食堂です。今日は走らない。これはお願いではなく命令です」

「はぁい」


三つの返事が綺麗に重なる。

その重なり方すら、今日は少しだけ作り物めいていた。


護国宗一は壁際の予定表を前に、淡々と赤線を引いていた。負傷者、経過観察、任務再開見込み、外部照会。朝のうちに整理してしまうべき事項はいくらでもある。


彼は誰より冷静に見えたし、実際、冷静だった。ただその冷静さは平時のものではなく、崩れた列を無理矢理にでも縦へ戻すための冷たさだった。

日常は回っている。

回している者がいるからだ。

その事実だけが、以前より少し重い。


158-2


紺野健太郎は医務棟から本部へ渡る短い廊下の途中で、一度だけ立ち止まった。


右肩はまだ鈍く痛む。腕を大きく回せば、骨ではなく奥の方で何かがひっかかる。治っていない、で済む痛みなら分かりやすかった。厄介なのは、身体の痛みの方がむしろ素直だということだった。

本当に戻っていないのは、別のところだ。


指を握る。開く。

何も起きない。ただ、その“何も起きない”の奥に、まだ手応えが残っている。

喰った感触ではない。壊した感触でもない。

もっと曖昧で、もっと気味の悪い、続いてしまいそうだった何かの名残。


掴みかけた、という言い方も違う。あれは掴んだのではなく、向こうから寄ってきた。拒めない形に、世界の方が少しだけ傾いた。その気配だけが、傷よりしつこく残っている。


「止まらないでください。邪魔です」


後ろから宗一の声がした。

淡々としている。だが、淡々としているからこそ助かる声でもあった。

紺野は振り返る。


「悪いな」

「謝罪はいりません」


宗一は手元の書類を軽く持ち上げる。復帰後の簡易予定表だろう。紙の束は薄い。薄いことが、逆に気を遣われていると分かる厚みだった。


「本格復帰はまだ先です。今日のあなたは報告確認と面談だけ。腕試しのような真似はしないでください」

「してねえよ」

「あなたは、しているつもりがなくても余計なことをします」


即答だった。

紺野は少しだけ眉を寄せ、それから息を吐く。反論する気力がないのではない。反論できるほど間違っていないからだ。

宗一は紙を渡しながら、視線をほんのわずかに上げた。


「負けたことと、要らなくなったことは別です」


唐突に聞こえる言い方だった。

だが、今ここでその順番で言う人間は、この男くらいだろう。


「……誰が気にしてるって?」

「あなたがです」


声色は変わらない。慰める気も、庇う気もない。ただ事実を机の上に置くように言う。


「隊の中心が何で決まるかは、勝敗だけではありません。少なくとも私は、東都でそれを見失っていません」


そこで初めて、宗一の言葉に情が混じった。情と言っても、温度の高いものではない。冷えた金属の芯みたいな、固い信頼だ。


「ですから、戻ってください。中途半端な形ではなく」


言い終えると、宗一はそれ以上何も足さずに去った。

紺野は手の中の紙を見る。

たった数行の予定が、妙に重かった。

戻れと言われた。

休め、ではなく。消えるな、でもなく。戻れ。

それは命令の形をした、ずいぶん不器用な繋ぎ止め方だった。


158-3


珠洲原陽鳥は、その朝だけで三回笑った。


どれも似たような笑い方だった。少し高く、少し早く、相手が乗る前に自分で次の言葉へ飛ぶ笑い方。軽口としては成立している。成立しているからこそ、見ている側だけが分かる種類の歪みだった。


「さすがに東都級の案件の後だと仕事が軽く見えるね。書類って偉大。紙は爆発しないし」

「たまに爆発しますよ、あなたが触ると」


羽場桐が返す。机に向かったまま、ペン先を止めない。

陽鳥は肩をすくめて見せた。


「それは紙が弱い」

「今日の貴女は喋りすぎです」


言葉は平坦だった。

だが、その平坦さが容赦なく芯を刺した。

陽鳥の笑みが、半瞬だけ遅れる。


執務室の光は白い。窓際に置かれた記録端末、分類済みの報告書、仮綴じのまま積まれた被害一覧。東都戦の後処理はまだ終わっていない。終わる気配すら遠い。その中央で、羽場桐だけが朝から一度も余計な音を立てていなかった。


「そんなに、うるさい?」

「うるさいのではなく、早いんです。言葉が」


羽場桐はそこで初めて顔を上げた。

目は柔らかくない。責めてもいない。ただ見ている。見逃さない形で。


「沈黙が怖い時の話し方をしています」


陽鳥は机の端に腰を預けたまま、返事をしなかった。

右手の指先だけが、無意識に袖口へ触れる。内側に隠した薄いガーゼに、まだ乾き切っていない赤が少しだけ残っている。鼻腔の奥も、耳の芯も、まともではない。けれど、その程度で寝ていられる性格なら、東都の空であんな顔はしていない。


「別に怖くはないよ」

「そうですか」

「ちょっと静かだなって思っただけ」

「はい」

「その返事、全然信じてないでしょ」


羽場桐は紙を一枚めくる。そこでようやく、ほんの少しだけ口元が緩んだ。


「信じるかどうかは、あとで決めます」


陽鳥は鼻で笑おうとして、それを途中でやめた。

笑えば咳に変わりそうだったからだ。代わりに視線だけ窓へ流す。帝都の空は高い。青い。何もない。何もないことが、あまりにも綺麗だった。


東都では、空が重かった。

重さの形が見えた。

今ここにあるのは軽さだ。軽すぎて、落ち着かない。

羽場桐は視線を戻し、淡々と言った。


「今日の午後、紺野少尉と面談を入れています」


陽鳥の睫毛が、微かに動く。


「……そう」

「逃げるなら今のうちですよ」

「逃げないよ」


答えは早かった。

早すぎて、羽場桐は何も返さなかった。


158-4


昼前、紺野は本部の屋上へ出た。


風は弱い。

鉄扉が背後で閉まる音が、やけに遠くまで抜けた。帝都の街は動いている。車両の音、放送、足音、どこかで鳴る訓練用の号令。生きている都市の音だ。東都よりずっと整っていて、ずっと普通だ。


普通。

その言葉が今日は、妙に薄い。

屋上の端まで歩き、空を見上げる。

青かった。

広い。高い。何もない。

何も立っていない。何も覆っていない。何も降ってこない。


本来なら、それでいいはずだった。空は空であればいい。何かがいる方が間違っている。空が重い方がおかしい。夜が昼へ落ちてくる方が狂っている。

分かっている。分かっているのに、胸の奥が落ち着かない。


東都の夜を見た目が、平穏をうまく平穏として受け取れなくなっていた。

静かすぎる。

口に出すと、それは文句ではなく確認みたいに聞こえた。

自分で言って、自分で少しだけ嫌になる。壊れた基準で、壊れていない空を測っている。

だが、測ってしまうものは仕方がない。


背後で扉の向こうを誰かが通る足音がした。こちらへは来ない。誰も上がってこない。隊は今日も動く。書類は流れ、朝飯は出て、三木たちはまた怒られ、高倉は値段に文句を言われ、羽場桐は紙を捌き、宗一は赤線を引き、陽鳥は喋りすぎる。


日常は、ちゃんと続いている。

続いているからこそ分かる。

戻ったのではない。進んだのでもない。

まだ、あの夜を身体のどこかへ入れたまま、同じ廊下を歩いているだけだ。


紺野はもう一度、空を見る。

青さの向こうに、まだ何もいない。だから今は、それでいい。


それでも胸の底では、別の答えが動いていた。

静かすぎる。

まるで、次の何かが息を潜めているみたいだった。


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