百五十五話 幽閉
百五十五話
155-1 幽閉
東都の夜明け前は、妙に白い。
朝焼けの色ではない。崩れた庁舎壁面に付いた粉塵。砕けたガラス。夜通し焚かれた投光器。救護用の布。そういうものが、光の薄い時間帯にだけ街の傷を一斉に浮かび上がらせる。
第二首都は助かったのではない。夜が退いたあとに、自分がどれだけ壊れていたかを数え始めただけだった。
北側外周の仮設集積所には、陸軍の兵が並ばされていた。武器は既に回収されている。回収されていても、手の置き場が分からない。敗軍の列というのは、たいていそこから崩れる。
「所属と階級を言え」
近衛の下士官が淡々と告げる。
「北都第三機動団、二等兵」
「東都警備混成、臨時編入中尉」
「補給第三大隊、運転兵です」
「命令系統は誰から受けた」
「え……北方司令部の、再編命令で」
「その後」
「その後は、現地で……」
言葉が途切れる。誰もすぐには嘘を吐かない。ただ、どこまでが知っていて、どこからがただの従軍だったのか、その境目だけが曖昧な顔になる。それがこの反乱の一番嫌なところだった。
高倉源三は少し離れた位置で、その列を見ていた。腕に巻かれた包帯はもう新しい。だが顔はくたびれた八百屋のそれへ戻り切っていない。
「数えると、だいぶいるな」
隣に立つ東雲丈雲が答える。
「人が多い街ほど、終わった後の列も長い」
「終わったって言っていいのかね」
高倉がぼやく。
「片付いた、の方が近い気がするが」
東雲は少しだけ笑った。今夜の東都では、そのくらい乾いた笑いの方がありがたい。
集積所の端では、陸軍の若い少尉が唇を噛んでいる。命令を受け、従い、気付いた時には反乱軍の一角に立っていた。そういう顔だ。近衛の兵が名前を書き取りながら言う。
「知っていたか」
少尉は数秒黙った。それから、やっと答える。
「途中で、おかしいとは思いました」
「最初は?」
「……最初は、第二首都防衛だと」
近衛兵は頷きもしない。否定もしない。ただ紙へ記す。
戦後の最初の残酷さは、怒鳴られることではない。事実だけが、感情より先に文書へ固定されることだ。
遠くの港湾側では、海軍の艦影がようやく静かな秩序として海へ戻り始めていた。陸軍も、近衛も、海軍も、今さら互いの正しさを争う段ではない。東都を回す。回した上で、誰が何をやらかしたかを後から切り分ける。国家というものは、壊れた後にだけ妙に器用だ。
155-2
園業律心斎の身柄は、庁舎群西棟地下の旧防災区画へ移されていた。牢というには広い。収容室というには壁が厚い。天井の低い無機質な部屋に、抑制具ごと固定された椅子が一つ。
その前へ硯荒臣が入る。看守も補佐も連れない。この距離で十分だと、近衛が全員理解しているからだ。
園業は座っていた。膝は組んでいない。だが背だけは妙に真っ直ぐだ。敗者らしく見せる気も、殊勝な顔をする気もない。園業らしかった。
「広いな」
園業が言う。
「もっと狭くて良かっただろう」
荒臣は扉の前に立ったまま返す。
「お前を狭くしても、東都の被害は減らん。なら、書類上の区分に従う方がまだましだ」
「つまらん奴だ」
「つまらん国だからな」
その言い方に、園業は少しだけ目を細めた。気分を害したのではない。千年前から変わらない返答の仕方が、少しだけ懐かしかっただけだ。
荒臣は近づかない。近づく必要がない。ただ机代わりの金属箱へ一枚だけ紙を置く。
「確認だ。お前は敗北を認めた。ここで覆すか」
「覆したところで、覆る盤面か?」
園業が笑う。
「認めている。今回の負けは、私の負けだ」
荒臣は頷かない。紙を見る。事実の確認だけで十分だからだ。
「クーデターの大義は」
「建前だ」
園業が遮る。
「兵を前へ出すための理屈。不満のある者には陸軍の威信。正義を欲しがる者には第二首都保全。中央が嫌いな者には近衛打倒。好きなのを握らせただけだ」
「本音は」
そこで園業は少しだけ笑った。乾いた笑いだった。千年分の飢餓に比べれば、政治の理屈など本当に薄い。
「知っているだろう」
園業が言う。
「私は、ああいう言葉で腹が満ちる生き物ではない」
荒臣はそこで初めて園業を見る。真正面から。短い視線だ。だが、その短さの方が重い。
「知っている」
荒臣は言った。
「だからこそ、なお悪い」
園業は肩をすくめようとして、抑制具に邪魔される。その不自由さが少し可笑しい。
「理屈は兵の手綱だ。飢えの名ではない」
「なら、兵を巻き込むな」
「巻き込まなければ、ここまで大きい夜にはならん」
その返答に、荒臣はほんの少しだけ沈黙した。怒ったのではない。反論があまりに正しい時、この男は逆に少し黙る。
「東都で死んだ者の数は」
荒臣が言う。
「まだ確定していない。確定した後で、同じことを言え」
園業は笑いを消す。
「言うさ。その数まで含めて私の敗北だ」
軽くはない。それでいて、後悔でもない。責任というものを、この男なりに真正面から引き受けた時の声だった。
155-3
集積所では、日が昇り始めても列が消えなかった。
東都の北へ同調していた地方部隊。事情を知らされず引きずり込まれた補給隊。途中で命令系統が切り替わった警備中隊。
兵は皆、程度の差はあれ同じ顔をしている。眠っていない。疲れている。それ以上に、自分が今どちら側へ立たされているのかを、ようやく朝になって理解し始めている顔だ。
「水、回すぞ」
近衛の兵が言う。
「一列ずつだ。押すな」
押す者はいない。押す力が残っていない。ただ、金属のコップが手から手へ渡る。その動きだけが、人間の列の最低限の尊厳を保っている。
志摩龍二は少し離れたコンテナの陰から、その列を見ていた。腕組みをして、壁へ寄りかかって、いかにも不良がかった顔をしている。だが目だけは妙に静かだ。
「なあ」
隣に来た宗一へ、志摩が言う。
「何です」
「こいつら、どこまで知ってたと思う」
宗一は列を見る。視線を外さないまま答える。
「知っていた者もいる。途中で気付いた者もいる。最後まで防衛だと思っていた者もいるでしょう」
「便利だな、その言い方」
「便利ではありません。その三つを切り分けるのが、今からの仕事です」
志摩は鼻で笑う。だが、その笑いはすぐに消えた。
「園業が全部抱えりゃ楽だったのにな」
「楽ではあります」
宗一は淡々と言う。
「だが、それだと次も同じことが起きます」
列の中で、若い陸軍兵が水を受け取りながらぽつりと呟く。
「北方守護は……どうなったんですか」
近衛の兵は答えなかった。答えられる立場ではないからだ。その代わり、コップを渡す手だけは止めない。若い兵はそれ以上訊かない。訊いたところで何も楽にならないと、もう分かっている顔だ。
宗一はその光景を見て、少しだけ息を吐く。
「英雄がいると、人は責任を預けたがる」
「悪役でも同じか」
志摩が返す。
「ええ」
宗一は言った。
「悪役であってくれた方が、むしろ楽です。自分が途中まで従っていたことを考えなくて済む」
志摩は舌打ちを飲み込む。飲み込むしかない。どこまでも嫌な現実だ。園業律心斎が消えたあとも、北の
兵たちは自分の朝を自分で引き受けなければならない。その苦さだけが、東都の夜明けにはまだ濃く残っていた。
155-4
昼近くなって、東都の軍系統はようやく「反乱後」の顔へ寄り始めた。表向きの文面が整う。
第二首都機能の回復。治安維持。誤作動した命令系統の是正。臨時統合指揮下への再編。美しい言葉だ。その美しさの下に、誰が何を壊したかが埋まっていく。
羽場桐妙子は臨時司令室で紙の束を読みながら、うんざりした顔を隠しもしなかった。疲労ではない。疲労もあるが、それだけならもっと黙っている。この顔は、国が自分の醜さをきれいな文面へ押し込め始めた時のものだ。
「“誤作動”ではありません」
羽場桐が言う。
「故意です。北方守護園業律心斎の反乱に、複数系統が巻き込まれ、便乗し、あるいは加担した。ここを曖昧にすると、東都戦の意味が全部腐ります」
向かいの文官が喉を鳴らす。反論したい。だが相手が羽場桐である以上、下手な飾りは逆に命取りだと分かっている。
「しかし、陸軍全体の——」
「守りたいのは面子ですか、再発防止ですか」
羽場桐は紙から目を上げる。静かだ。静かな時の方が怖い。文官は答えられない。その沈黙だけで十分だった。
反乱が進行している最中は、園業律心斎という巨大な意思が盤面を引っ張っていた。だが敗者が消えた瞬間から、反乱は急に事務になる。誰が署名した。誰が止めた。誰が黙った。誰が遅れた。一つずつ、恐ろしく地味な線で切り分けられていく。それが国家の復讐だった。
司令室の端では、真名が椅子へ深く座り込んだまま、目を閉じている。寝てはいない。耳だけで会話を拾っている。東口前で群衆を捌き続けた人間は、疲れるとこういう聞き方をする。
「羽場桐さん」
「何ですか」
「その文面、綺麗にしすぎないで」
真名は目を閉じたまま言う。
「東都って、綺麗に落ちたわけじゃないから」
羽場桐は数秒だけ黙った。それから、文面の一か所へ線を引く。
「ええ。そのために、あなたたちをまだここへ残しています」
その言い方に、真名は少しだけ笑った。疲れ切った笑いだった。だが、まだちゃんと人間のものだった。
155-5
園業の移送は、夕方に決まった。
東都の中へ置いておくには重すぎる。だからといって、ただ殺して終わるには値段が高すぎる。生かしておく。その判断の方が、この国らしかった。
地下区画の扉が開く。近衛の兵が四人。東雲が立ち会い、もう一人向こう側に海軍の将校がいる。立場の違う制服を揃えておくこと自体が、これは国家の決定であるという印になる。そういういやらしさを、羽場桐は決して嫌いではなかった。必要だからだ。
園業は椅子から立ち上がる。拘束具の音が小さく鳴る。その音だけで、数時間前まで東都の空を塞いでいた男だとは信じがたい。だが、信じるしかない。国家というのは、そういう信じがたいものを後から帳簿へ収める機械でもある。
「行くぞ、園業」
近衛の兵が言う。名前で呼んだ。お前ではない。そこに妙な礼があって、園業は少しだけ目を細める。
「丁寧だな」
園業が言う。
「敗軍の将へそこまで要るか」
兵は答えない。代わりに拘束具の確認だけをやり直す。正しい。この場で私情は一番安い。
東雲が一歩前へ出る。園業はその顔を見て、ほんの少しだけ笑う。
「お前、まだ生きていたか」
「おかげさまで」
東雲は落ち着いた声で返す。
「あなたよりは、幾分ましな形で」
「それは残念だ」
軽口の形だ。だがそこに、もう戦場の熱はない。負けた者と、生き残った者が最後に交わす程度の乾いた会話だ。
園業は歩き出す。地下区画を出る。階段を上がる。夕方の東都は、まだあちこちで煙を吐いている。補修班が走り、駅務が拡声器で導線を作り直し、兵が仮設柵を立て直している。都市は都市として生き延びようとしている。その光景を園業は、黙って見た。
「東都は、思ったよりしぶといな」
誰にともなく言う。返したのは、思いがけず東雲だった。
「しぶとくなければ、第二首都など名乗れないでしょう」
園業はそれに頷く。腹立たしいほど正しい返答だった。
移送車の扉が開く。園業はその前で一度だけ振り返る。東都の空はもう、普通の夕方へ落ちつき始めていた。そこに自分の夜は立っていない。代わりに、復旧のためのヘリが小さな影を引いている。
「ではな」
誰へ向けた言葉でもない。東都へか。荒臣へか。千年分の飢餓へか。多分、その全部だった。
園業律心斎は移送車へ乗り込む。扉が閉まる。それで終わりではない。むしろここから先が、国家にとっての責任だ。幽閉とは、終わりの言い換えではない。生かしておく責任の名前である。
東都には、まだ風が吹いていた。敗者を運ぶ車列の上を、壊れた都市の夕方が静かに流れていく。
その静けさだけが、ようやく反乱の終わりを現実の速度へ戻し始めていた。




