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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
三章 東都が夜に落ちる日
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百五十四話 残った傷


百五十四話


154-1 残った傷



東都の夜は戻った。戻ったが、元通りではない。


第二首都庁舎群の一角、外壁に大きな亀裂の入った棟の地下で、臨時医務室だけが妙に白かった。照明の色ではない。血を拭いた布。無理に洗われた床。包帯。薬品の瓶。そういうものが、人の気持ちと無関係にまだ壊れていない場所と言い張る白さだった。


「次、肋骨固定の方こっち!」

「動かすな、まだ気を失ってないだけだ!」

「近衛の人、そっち塞がないで!」

「塞いでない、立ってるだけだ!」


怒鳴り声が飛ぶ。だが、戦場の怒鳴り方ではない。片付けるための声だ。片付けるための声はたいてい少しだけ冷たい。そこへ感情を混ぜる余裕がないからだ。


高倉源三は壁際で腕を組み、運び込まれる担架の流れを見ていた。手を貸していないわけではない。貸し続けて、今ようやく五秒だけ立ち止まっている。その顔色は、八百屋の帳場で値崩れを見た時のそれよりひどかった。


「東都ってのは、どこまで行っても人が多いな」


誰にともなく言う。返したのは東雲丈雲だった。


「人が多い街ほど、後始末は静かにならんよ」


東雲の右袖は切れている。血も付いている。だが本人はもう、自分の傷を自分の傷として扱っていない顔だ。調整役の悪い癖だった。周りが動いているうちは、自分もまだ動けると思ってしまう。


少し離れたところで、若い衛生兵が小さく息を吐く。


「今夜で終わったんですかね」


その問いに、近くの駅務主任が苦く笑った。


「終わった、って顔してる人が一人でもいたら教えてください」


二人とも、それ以上は言わなかった。言わなくても分かる。

勝ったのではない。終わらせただけだ。そういう夜の白さが、地下の医務室にはあった。


154-2


陽鳥は、医務室の奥にある予備の小部屋へ隔離されていた。


隔離、という言葉は少し大げさだ。鍵がかかっているわけではない。だが、本人の周囲へ近づく人数が意図的に減らされている。それだけで十分だった。


珠洲原陽鳥の能力を知っている者は多くない。多くないが、少しでも知っている者ほど今は近づけるべきではないと直感する。


椅子に座っている。背筋は伸びている。その伸び方が逆に危うい。鼻の下へ新しいガーゼが当てられ、耳の奥へ滲んだ血の跡も拭われた。だが、顔色だけはまだ戻らない。白い、というより色が足りない。


羽場桐妙子が部屋へ入る。扉を閉める音も静かだ。


「気分は」

「最悪よ」


陽鳥は即答した。いつもの軽さで言えればまだ良かった。今のは、軽く見せる余裕の無い声だった。

羽場桐は正面へ立たない。少し斜めに椅子を引く。取り調べではない。看病でもない。その中間みたいな位置だ。


「失神しなかっただけ、ましだと思ってください」

「励ましてるつもり?」

「事実を言っています」


羽場桐の声はいつも通り穏やかだ。だが、その穏やかさの下に今夜だけの硬さがある。隊の秩序を預かる人間が、私情を前へ出すのを我慢している硬さだ。


陽鳥は壁の一点を見る。羽場桐を見ない。視線を合わせた瞬間に、自分が何をしたかをもっと正確に認めなければならなくなるからだ。


「……止めたわ」


ぽつりと言う。羽場桐は頷かない。急いで肯定を与えるほど安い話ではないからだ。


「見えていましたか」

「全部じゃない」


陽鳥は答える。


「でも、あのまま行ったら、園業だけじゃ済まなかった。あれはもう、勝ちとか負けとかの形じゃなかった」


言い終えてから、自分の両手を見る。まだ少し震えている。戦っている時には震えない。止めた後でだけ震える。それが嫌だった。


「……嫌われたかも」


不意に出たその一言だけが、今夜の陽鳥の本音に一番近かった。

羽場桐は少しだけ間を置いてから言う。


「嫌われたなら、あとでまたやり直せます」

「やり直せないわよ、あんなの」


「では、やり直せない前提で進めればいいでしょう」


慰めになっていない。だが、その慰めなさが今はありがたかった。


陽鳥は目を閉じる。止めた。確かに止めた。だが、止めた相手が紺野である以上、その行為は保護であると同時に裏切りでもある。その両方が今の陽鳥には重かった。


154-3


紺野健太郎は、医務室のさらに奥、簡易の隔壁で仕切られたベッドにいた。


眠ってはいない。だが目を閉じている。目を開けると、細路地で見たものがそのまま瞼の裏から流れ込んでくるからだ。


園業の顔。園業の怒り。自分の手が届いた感触。そのあとで、自分の中から開きかけた危険な底。陽鳥の虫の自爆。三万メートルの夜。荒臣の一撃。


どれも順番が定まらない。定まらないまま、身体の内側を何度も通る。包帯の巻かれた右肩が重い。肋も痛む。だが、本当に嫌なのはそこではない。いま自分の中に残っている“空白の手応え”の方だ。


自分は何をしようとしたのか。何をしようとして、どこまで行きかけたのか。答えはまだ無い。だが、ただの敗北ではなかったことだけは身体が覚えている。


カーテンが少しだけ鳴る。宗一が入ってきた。


「起きていますか」


軍属らしい、丁寧で温度の低い声。紺野は目を閉じたまま返す。


「寝てたら返事しないだろ」

「元気そうで何よりです」


宗一は椅子を引いて座る。見舞いにしては距離がある。尋問にしては近い。この男もまた、ちょうどいい位置を探している。


「何しに来た」

「確認です」


宗一は言う。


「立ち上がれるかどうか」


紺野はそこで初めて目を開けた。


「立てる」

「そうでしょうね」


宗一は淡々と返す。


「あなたは立ちます。問題は、前と同じように立ち上がれるかどうかです」


その一言が、驚くほど深く刺さる。慰めない。責めない。ただ、一番痛い所だけを正確に触ってくる。護国宗一という男は、こういう時にだけやけに残酷だ。

紺野は視線を逸らす。


「……説教か」

「いいえ」


宗一が言う。


「説教で済む段なら、私ももっと楽です」


沈黙が落ちる。医務室の外から、担架を運ぶ足音と、誰かが「そこ開けて!」と怒鳴る声が薄く聞こえる。東都の夜はまだ終わっていない。それが妙に救いだった。自分一人の内面だけで世界が閉じないからだ。


「陽鳥を責めるつもりはありません」


宗一が不意に言う。紺野は返事をしなかった。返事をした瞬間に、自分の中のもっとぐちゃぐちゃした感情へ名前を付けなければいけなくなる。


「あなたがどう思うかは別です」


宗一は続ける。


「ですが、少なくとも私は責めません。止めなければ東都ごと終わっていた可能性が高い。あれはそういう場面でした」

「分かってる」


声が少しだけ荒くなる。分かっている。分かっているから余計に腹が立つ。自分へか、陽鳥へか、その両方か、そこもまだ定まらない。

宗一はそれ以上追わない。追えば軽くなると知っているからだ。


「では、一つだけ」

「何だ」

「次からは、あなたがどこまで行くか、先に自分で把握してください。隊の仕事は、あなたの不発弾を毎回抱えることではない」


紺野は息を吐く。怒る気にもならない。正しいからだ。宗一は立ち上がり、カーテンへ手をかける前に一度だけ振り返った。


「それでも、あなたが隊長役なのは変わりません」


短い。だが、その短さの方が重い。


「忘れないでください。今夜、あなたは負けました。けれど、隊が壊れ切らなかった理由の一つでもあります」


そう言って出ていく。残された紺野は、しばらくその言葉だけを反芻していた。


154-4


御親領衛の人間が一度に顔を揃えたのは、夜明け前の臨時会議室だった。


会議室と言っても、元は第二首都庁舎群の職員休憩室だ。長机が寄せられ、割れたガラスの代わりに厚手の布が窓へ張られ、急造のランタンが二つ置かれている。戦後の会議室はたいてい、元の用途より少しだけみすぼらしい。


樋道芳芙美が椅子へだらりと沈み込みながら言う。


「ボク、こういう時思うんだけど、給料って足りなくない?」

「今さらだろ」


志摩が壁際で腕を組んだまま返す。


「足りてたら逆に怖ぇよ」


綾瀬は包帯の巻かれた左手首へ視線を落としたまま、淡々と言う。


「今夜の規格線の崩れ方、資料化しておきます。二度と見たくはありませんが、見た以上は残すべきです」

「お前はそういうとこ真面目だな」


高倉がぼやく。


「見たくねえもんは、たいてい忘れた方が人間楽なんだが」

「忘れた結果が今までの積み重ねです」


綾瀬は即答した。

棘がある。だが、その棘の立ち方がいつも通りなだけで、部屋の何人かは少しだけ救われる。


三木の三人は奥で寄り添うように座っていた。

一葉が唇を尖らせる。


「大きすぎ」


双葉が小さく続ける。


「怖すぎ」


三葉だけが、やけに素直に言った。


「終わってよかった……」


誰もそれへ軽口を返さない。軽く流せる夜ではなかったからだ。

東雲が、ようやく椅子へ腰を下ろす。腰を下ろした瞬間だけ老けて見える。戦いの後で年齢が戻る人間は、たいてい長生きする。東雲は多分、その類だ。


「少将閣下は」


羽場桐が訊く。部屋の空気が少しだけ締まる。


「処理中だ」


東雲が答える。


「園業の身柄も、東都の軍系統も、まとめて手を入れている。我々が今やることではない」

「やりたくもねえな」


志摩が鼻で笑う。


「あれ見た後で、紙仕事までやれって言われたらグレるぞ」

「元からでしょう」


真名が静かに言う。疲れている。だが、声だけは崩さない。舞台商売というより、いまは東口前で群衆の停止を見続けた者の声だった。

羽場桐はその場を一度見回し、それから結論だけを言う。


「今夜の件は、誰も軽く総括しないでください」


全員が黙る。その沈黙の速さだけで、ここにいる全員が同じことを思っていたと分かる。


「紺野少尉の件も」


羽場桐は続ける。


「珠洲原主任の件も。東都戦の一事象として一括りに出来る段ではありません。後で扱います。今は、東都から人を戻す方を優先します」


真名が短く頷く。宗一も、東雲も、綾瀬も、声に出さずに同意する。誰も責めない。責める段を越えたからだ。だが、誰も忘れない。忘れられるはずがない。


154-5


会議が終わった後、紺野は廊下の端に立っていた。

立っている、というより壁に寄りかかっている。それでも自分の足でそこにいる。それだけで十分だった。


陽鳥が向こうから歩いてくる。足取りはまだ少し不安定だ。だが、本人はそれを隠しているつもりらしい。隠し切れていないところが、逆に今夜の消耗を物語っていた。


二人のあいだに、少しだけ距離がある。長い距離ではない。手を伸ばせば届く。だが、今はその手の意味が少し変わってしまった。

陽鳥が先に止まる。


「起きてたんだ」

「そっちこそ」


そこまで言って、言葉が切れる。こんな時に限って、普段ならいくらでも出る軽口が一つも浮かばない。

陽鳥は少しだけ視線を落とし、それから言った。


「怒ってる?」


単純な問いだった。だから余計に答えにくい。紺野はすぐに返せない。怒っている。多分。だが、それだけではない。助けられた。止められた。裏切られた気もする。救われたとも思う。その全部が混ざっていて、どの言葉を先に選んでも嘘になる。


「……分からない」


やっと出た答えは、それだった。

陽鳥は小さく笑う。笑うが、いつもの軽さは無い。


「そっか」


それだけで会話が切れる。切れた、その事実の方が二人には重い。前なら、どちらかが無理にでも続けただろう。今夜は違う。言葉を足すと安くなる段がある。二人とも、それを知ってしまった。


陽鳥はやがて顔を上げた。


「でも、止めたことは後悔してない」


紺野の肩が少しだけ揺れる。怒りではない。その言い切り方が、あまりに陽鳥らしかったからだ。


「お前な」

「うん」

「そういうとこだぞ」


陽鳥はまた少しだけ笑う。今度は、ほんの少しだけいつもの顔に近かった。


「知ってる」


それ以上は言わない。謝らない。正当化もしない。止めた。それだけが事実で、今夜はまだそれ以上の整理を許さない。


廊下の向こうでは、担架を運ぶ足音と、誰かが怒鳴る声がまだ続いている。東都の後始末は終わらない。園業は敗れた。夜は退いた。それでも残ったものは山ほどある。


紺野は壁から身体を起こす。まだ痛い。だが立てる。陽鳥も同じだった。残ったものは、傷より先に距離だ。その距離をどう呼ぶかは、まだどちらにも分からない。


分からないまま、それでも二人は同じ夜の廊下に立っている。

今は、それで十分だった。


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