百五十三話 遠い空の夜
百五十三話
153-1 遠い空の夜
敗北した後で、ようやく静かになる飢えがある。
園業律心斎は拘束具の噛む両腕を見下ろしながら、そのことを考えていた。
鉄は硬い。
近衛が用いる抑制具は雑ではない。
だが、いま自分を縛っているのは鉄ではない。
空腹の終わりだ。
あるいは、千年越しに一度だけ満ち損ねた感情の残り香だ。
東都の夜は、もう普通の夜へ戻っていた。
空は空として高く、風はただの風として瓦礫のあいだを抜ける。
ついさっきまでそこに空を覆う巨躯の自分が立っていたのだと、少し時間を置いて考えると、むしろその方が嘘のようだった。
山ならまだ納得できる。
雲でもいい。
だが、自分は人の形をしていた。
人の形をしたまま、都市より大きかった。
それでも最後には、小さな少女の姿をした西方守護に叩き落とされた。
滑稽だ、と園業は思う。
滑稽だが、嫌いではない。
自分は昔から、そういう終わり方ばかりを好んできた。
──飢えは、最初から自分のものではなかった。
園業律心斎という名前より遥か前。
守護でも、中将でも、反乱者でもなかった頃。
まだ知性が無く、感情もなく、ただ生まれた瞬間から腹だけが減っていた頃。
自分は自分の空腹を「感じた」のではない。
空腹そのものとして、あの赤い世界にいた。
空は薄かった。
風は砂を運ぶのではなく、砕けた骨の粉を地表へ擦り付けるように吹いていた。
大地はひび割れ、夜は夜のくせに少し赤く、昼は昼のくせに死んだ灰色をしていた。
そこにも人類はいた。
生き延びた残滓がいた。
凍え、飢え、互いの体温とわずかな機械と、終わった文明の残骸を頼りに、まだ人の顔で生きようとしていた。
園業はそこから生まれた。
母がいたのか。胎内があったのか。
そういう形の出生だったのか。
今の園業には分からない。
分かるのは一つだけだ。
知性を得る前から、自分は一騎夜行だった。
闇が自分だった。
自分が闇だったのではない。
他者を喰らい、自らを膨らませる夜そのものが、最初から肉を着てそこに立っていた。
最初に喰った相手の顔を、園業は覚えていない。
覚える知性がまだ無かった。
ただ、近くにいたものが自分の中へ落ちてきた。
肉が熱へ変わり、魂がもっと濃い燃料へ変わり、消えたはずの飢えが、次の飢えとしてさらに鋭くなった。
それだけだった。
喰えば満ちると思った。
実際、一瞬は満ちる。
だがその一瞬が過ぎたあとの空腹は、前よりもっと深い。
だからまた喰う。
喰う。
喰う。
喰う。
そうして気付いた時には、あの赤い星に残っていた人類は、ほとんど自分の中へ消えていた。
──絶滅。
その言葉を園業は後で知った。
当時は知らない。
知らないまま、ただ最後の一人が消えたあとにだけ、妙な静けさがあったことを覚えている。
静かだった。
静かなのに、腹は減っていた。
世界から人がいなくなっても、飢えは終わらない。
そこで初めて、園業の中に最初の知性が芽生えた。
足りない。
それは言葉より前の理解だった。
足りない。
この星では、もう足りない。
なら、別の場所へ行くしかないと。
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この星へ渡った時、園業には大義が無かった。
後年、いくらでも言葉は作れた。
陸軍の発言権。
北方の尊厳。
国家の歪み。
中央への反抗。
どれも、人を動かすには便利な言葉だった。
だが、自分が星を渡った最初の動機だけは、そんな立派なものではない。
腹が減っていた。
ただそれだけだ。
あの赤い星ではもう何も足りない。
喰うものが尽きた。
なら、次の人類を探す。
次の文明を探す。
次の魂の群れを探す。
その本能だけで、園業は一人で星を渡った。
旅だった、という表現は少し綺麗すぎる。
漂着に近い。
墜落でもいい。
ただ、最後には辿り着いた。
青い空気。
重い重力。
湿った風。
水があり、雲があり、何より人間の匂いが濃い星。
地球。
園業は地上へ降りたその瞬間、歓喜した。
初めて知性の形を持った喜びだった。
多い。
多すぎる。
これなら終わらない。
喰っても喰っても、まだ次がいる。
自分の飢えはようやくここで本当の夜になれる。
そう思った。
だから油断した。
それは慢心でもあるが、何より若さだった。
自分の飢えが世界の理より強いと信じていた時期の、救いようのない若さだ。
最初に立ち塞がったのが、硯荒臣だった。
今の園業から見ても、あの時の衝撃だけは鮮やかだ。
小さい。あまりに小さい。
大地も空も、群れていた人間どもも、自分が喰らうための量でしかなかった時、あの小ささだけが「量」ではなかった。
向こうは最初から怯えていなかった。
そのことが、園業には理解できなかった。
恐怖しないのではない。
恐怖を計算に入れるまでもなく、自分が勝つ前提でそこに立っていた。
園業はその時、知性を得たばかりの怪物だった。
だから考え違いをした。
小さいものは弱い。
弱いものは喰える。
喰えるなら、自分の飢えへ足される。
その単純さで、荒臣へ飛びかかった。
結果は、完膚なきまでの敗北だった。
折られた。
止められた。
削られた。
潰された。
そのどれもが正しい。
だが、いちばん痛かったのはそこではない。
喰えなかった。
初めて、心の底から喰いたいと思ったものへ、まるで届かなかった。
それまでの捕食は本能だった。
腹が減ったから喰う。
多いから喰う。
魂が燃えるから喰う。
それだけだ。
あの時だけは違った。
欲しかった。
荒臣そのものが欲しかった。
あの小ささの中へ詰め込まれた、理解不能な強さが欲しかった。
喰えば終わると思った。
喰えば自分もそこへ届くと思った。
だが、届かなかった。
届かないまま、叩き落とされた。
そこで初めて、園業に感情が生まれた。
怒り。
屈辱。
驚愕。
歓喜。
憧れ。
飢餓。
その全部が一度に来た。
怪物が人間の感情を得る時というのは、もっと穏やかなものではない。
それはただ、腹の底へ新しい種類の空洞が増えるということだった。
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園業は、それから飢えを研いだ。
衝動のまま喰えば、荒臣には届かない。
あの時の敗北で、そこだけはよく分かった。
だから抑え込んだ。
喰えるものがあっても、全部は喰わない。
満ちそうになるたび、自分の腹をもう一度空に戻す。
能力の本質に逆らうように、暴食の夜を極限の飢餓へ研ぎ澄ませていった。
本能に逆らうのは苦しい。
苦しいが、その苦しみ自体が心地よくもあった。
飢えている時だけ、あの敗北の鮮烈さが新しくなるからだ。
喰いたい。
だが今は喰わない。
喰えば安くなる。
満ちれば鈍る。
だから飢える。
飢えて、飢えて、飢えて、その先でようやく、もう一度あの小さな理不尽へ届く日を待つ。
──千年。
長いようで短い。
短いようで、やはり長い。
国家は生まれ、滅び、名を変える。
人間は群れ、争い、英雄を作り、勝手に老いる。
園業にとってその全部は、結局どうでもよかった。
欲しかったのは硯荒臣だけだ。
正確には少し違う。
硯荒臣そのもの。
そして、それに類する存在。
喰えば自分の空洞へ正しい形で落ちてくると信じられるだけのもの。
守社厳志郎に目を留めたのも、その延長だった。
天帝を測るのも、結局は同じだ。
荒臣に届くための比較対象としてしか見ていない。
喰いたい。
追いつきたい。
並びたい。
触れたい。
殺したい。
抱え込みたい。
言葉に分ければ幾らでも分かれる。
だが、園業にとっては全部が同じ飢えの裏表だった。
広い意味では、愛だったのだろう。
恋でもいい。
執着でもいい。
そして何より、純粋な食欲だった。
園業にとって喰うということは、壊すことではない。
自分の中へ落とし込み、二度と離れないものに変えることだ。
だから荒臣を喰いたかった。
あの小さな理不尽を、自分の中へ永久に落としたかった。
千年前の敗北で生まれた感情だけが、今まで一度も腐らなかった。
国も、地位も、建前も、兵も、反乱も、全部その感情へ後から乗った飾りに過ぎない。
それが今夜、ようやくはっきりした。
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荒臣に叩き落とされ、拘束具をはめられた今になって、園業は妙にすっきりしていた。
勝てば満たされたか。
多分、そんなことはない。
喰えば終わったか。
おそらく違う。
喰った瞬間に、また別の飢えが生まれただけだろう。
それでも、今夜ここまで来たことで一つだけは終わった。
自分が何をやっていたのか、ようやく名前がついた。
クーデター。
反乱。
陸軍の悲願。
地方の鬱屈。
中央への報復。
どれも嘘ではない。
だが本質ではない。
反乱ではなかった。
それは求愛に近い。
いや、それすら綺麗すぎる。
求愛であり、食欲であり、千年遅れの告白だった。
お前をまだ喰いたい。
お前にまだ見てほしい。
お前を越えたい。
お前に負けたい。
お前にまた叩き落とされたい。
その全部が、結局は同じ空洞の別名だった。
園業は拘束された両手を見下ろし、それから少しだけ笑う。
「千年もかけて、結局はこれか」
自嘲だ。
だが軽くはない。
千年分の飢餓が、ようやく自分の正体を認めた時の笑いだった。
荒臣は少し離れた位置で立っている。
追ってこない。
慰めもしない。
それでいい。
今さら情など混ぜられたら、全部が安くなる。
「園業」
荒臣が呼ぶ。
名前で呼ぶ。
お前でもない。
それだけで十分だった。
「歩けるか」
短い。
必要なことしか言わない。
だが、その短さの中に、千年前から何一つ変わらないものがある。
小さいくせに、最後には必ずこちらへ問う。
まだ立てるか、と。
立てないなら切り捨てる。
立てるなら歩かせる。
その残酷さが、園業にはたまらなく好きだった。
「歩ける」
園業が答える。
実際には少しきつい。
足の奥までまだ敗北が残っている。
だが歩ける。
歩けると言いたい。
そういう夜だった。
近衛の兵が両脇へ寄る。
警戒している。当然だ。
だが、その警戒の中に怯えだけではないものがある。
敗者への最低限の礼。
それだけで、東都の夜は少しだけましになる。
園業は立ち上がる。
膝が一度だけ鈍く軋む。
それでも立つ。
崩れた高架の影を抜ける。
空は普通の夜だ。
その普通さが、妙に腹立たしく、同時にありがたかった。
「荒臣」
最後に園業が呼ぶ。
荒臣は振り返らない。
振り返らないまま、足だけが半拍止まる。
「私は、最初からお前を喰いたかった」
夜風が吹く。
誰も言葉を挟まない。
園業はそこで少しだけ目を細めた。
「.....そしてたぶん、それは届かない物への憧れだ」
それだけ言って、もう続けない。
続けると安くなる。
千年分の飢えへ、今さら余計な説明はいらない。
荒臣は振り返らない。
ただ、それでも一言だけ返す。
「お前は変わらんな」
淡々とはしていたが、切り捨てる声ではなかった。
分かった上で、それでもそう言う時の声だ。
「知っている」
園業は笑う。
今度こそ、乾いていて、静かで、そしてどこか晴れやかだった。
負けた。
喰えなかった。
届かなかった。
それでも、今夜ようやく自分が何に飢えていたのかだけは、千年前よりずっと鮮明に分かった。
それで十分だと、敗者の夜くらいは思ってもいい。
園業律心斎は、近衛の兵に挟まれながら、普通の夜の下を歩いていく。
空は高く、風は冷たい。
そして腹の底には、まだ飢えがある。
あるが、その飢えはもう名前を持っていた。
名前を持った空腹は、少なくとも以前ほど無様ではない。
それだけで、千年越しの清算としては悪くなかった。




