表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
三章 東都が夜に落ちる日
154/193

百五十二話 敗北の価値


百五十二話


152-1 敗北の価値



荒臣の指先が、静かに上がった。


それだけだった。

東都の空を塞ぐ夜を前にして、細路地の入口に立つ小さな影は、ただ右手を少しだけ持ち上げただけだった。


次の瞬間、空の方が沈んだ。

衝撃が走ったのではない。

爆発も無い。


それなのに、第二首都東都の上へ立っていた人型の夜が、全身まとめて“そこにあってよい理由”を一度に失ったみたいに、わずかに、しかし決定的に沈み込む。


肩が落ちる。腕が遅れる。

雲を裂いていたはずの輪郭が、今度は雲の重さに足を取られる側へ変わる。


園業律心斎が、初めてはっきり声を漏らした。

苦鳴ではない。

吼えたわけでもない。

あまりに巨大なものが、自分より小さいものに真正面から“止められた”時にだけ出る、理解の遅れた声だった。


「……っ」


それだけで十分だった。

東都全体が、その異常を理解するには足りた。

中央駅東口前では、誰かが震える声で言った。


「下がってる……」


その隣の男は首を振る。


「違う」


違う、の先が出ない。

下がったのではない。

押さえつけられたのだと、言葉にする方が怖いからだ。


南棟外周では宗一が歯を食いしばる。

東外縁では東雲が止まった車列を前だけへ向けて怒鳴り直す。

真名は拡声器を握り直し、駅前の群衆へもう一度だけ足を動かせと叫ぶ。

御親領衛も、市民も、兵も、誰も原理は分からない。

だが、“空の上にあった優位”が初めて剥がれたことだけは分かる。


荒臣は見上げない。

正面を見たまま、ただ言う。


「律心斎」


名で呼ぶ。

その呼び方だけで、そこに私情が一切混ざっていないと分かる。


「見苦しいな」


園業の巨体が、空の上でうねる。

怒りで暴れたのではない。

押し返そうとした。


一騎夜行の最大解放、その全質量をもう一度、東都の上へ立たせ直そうとした。

だが、立ち直らない。

大きさがそのまま優位にならない相手を前にした時、巨大なものほど自分の質量に遅れる。


荒臣の手が、今度はゆっくり閉じる。

夜の上半身が沈んだ。

人型の巨体を構成していた暗い輪郭が、胸から肩へかけて明らかに歪み、雲の層がまとめて裂ける。

東都全域へ遅れて衝撃波が走り、官庁街のガラスが砕け、港湾部の水面が一拍遅れて盛り上がる。

だが、細路地の入口に立つ小さな影だけは、揺れもしない。

大きい方が負ける時、先に折れるのは大きさそのものだ。


152-2


園業はそこで、ようやく怒りを捨てた。


捨てた、というより保てなくなった。

怒りは優位の側にいる時ほど形を持つ。

いま空の上で起きているのは、その優位の喪失だ。

奪われた歓喜への苛立ち。

見たかったものを止められた怒り。

それら全部が、荒臣の前ではただの余熱に落ちていく。


「お前は……」


空の奥から、園業の声が落ちる。

先ほどまでより低い。

熱ではなく重さだけが残った声だった。

荒臣はそこで初めて、少しだけ顔を上げた。


「私が何だ」


声音は変わらない。

煽っているわけでもない。

本当に確認しているだけに聞こえるところが、余計に悪かった。

園業は答えない。

答えなくても分かるからだ。


西方守護。

近衛一席。

天帝臣御。


だが今この場で重要なのは肩書ではない。

国家がようやく、自分の側から出した、止まれと言う現象そのものが目の前に立っている。その事実だけだ。

荒臣は淡々と続ける。


「第二首都を踏みにじる。近衛を潰す。その上でまだ帝の国に立つつもりなら、せめて最後まで立ってみせろ。中途半端に大きいだけの獣で終わるな」


その言葉に、陽鳥は思わず目を上げた。

慰めでも激励でもない。

ただ、相手を処刑台へ載せる前に最低限の体裁だけは与える声音だった。


園業の巨体が、ゆっくりと身じろぐ。

最後の抵抗。そう呼ぶにはあまりに大きい。

だが、抵抗であることはもう否定できない。

三万メートルの夜が、最後にもう一度だけ肩を持ち上げ、腕を起こし、東都そのものへ覆い被さろうとする。

荒臣の外套の裾が、細路地の風でもない揺れにわずかに鳴る。


「終わりだ、園業」


今度は名前ではなく、お前でもない。

終わりを言い渡す時の、無駄のない呼び方だった。

そして、右手を振る。


152-3


東都の上から、夜が消えた。


そう見えた。

実際には消えていない。

天を衝く巨体が、上から下へ、肩から胴へ、胴から脚へ、一本の見えない裁断線でまとめて断ち切られたのだ。


斬撃ではない。

光も無い。


それなのに、切れたとしか思えない。

人型の輪郭が途中から歪み、ずれ、支えを失い、巨大な夜そのものが東都の空から崩れて落ち始める。


主観では、空が割れた。


中央駅東口前では、人々が一斉にしゃがみ込む。

誰かが泣く。

誰かが祈る。

誰かがただ口を開けたまま見ている。

その全部の上を、崩れた夜の破片みたいな雲の塊が流れていく。


俯瞰で見れば、園業律心斎の身体はこの一撃で完全に姿勢を失った。


肩から上がずれ、胴の輪郭が崩壊し、港湾部へ落ちるはずだった腕の影が途中で細り、膝の位置にあったはずの質量がまとめて沈む。

大きすぎるものは、崩れる時も一度に崩れない。

まず“人型として立っていた意味”が死ぬ。

その後でようやく、質量だけが遅れて地上へ落ちる。


東都全域へ衝撃波が走る。

高架が軋む。

庁舎群のガラスが残りもまとめて砕ける。

受け入れ線の車列が横滑りし、駅前の案内板が二枚まとめて倒れる。

それでも、誰ももう空は見ていなかった。

見なくても分かる。

何が起こったのかは理解出来なくても、もう終わったのだと、都市そのものが理解している。


細路地では、紺野がその一撃を見た。

見えたのではない。

身体ごと浴びた。

いままで自分が園業へ届かせていた手数。

陽鳥が止めた暴走の底。


その全部が、この一撃の前では“まだ勝負の前段だった”と骨ごと分からされる。

理不尽。そう呼ぶしかない。

だが不快ではない。

それ以上に、あまりにも完成しすぎた暴力だった。


園業の声が、今度は低く、近くなる。

近くなるということは、巨体ではなく“本人の位置”へ戻り始めているということだ。


「……また、負けたのか」


その一言に、歓喜も怒りもなかった。

残っているのは、理解だけだ。


152-4


夜の崩壊は、即座に終わらない。


空を塞いでいた闇が薄れ、雲の層が裂け、ようやく本来あるはずの空の高さが東都へ戻ってくる。

人型の輪郭はもう保てない。

肩も、腕も、脚も、街より大きいままの意味を失い、最後には雲と暗さと瓦礫の影の区別すらつかなくなる。


その中心から、園業律心斎の“人間の大きさ”だけが戻ってきた。

崩れた庁舎壁面の向こう。

砂塵と破片の中。

なお立っている。

膝はついていない。

そこは最後まで園業らしかった。


だが、その立ち方にはもう分かりやすく敗北が混じっていた。

前へ出るための重さではない。

自分の敗北を、自分の脚で受け止めるための重さだ。


荒臣は一歩も動かない。

追わない。

もう追う必要がないからだ。


「律心斎」


今度は名で呼ぶ。

勝負が終わった後の呼び方だった。


「まだ立てるなら、言え」


園業はしばらく黙っていた。

黙って、空を見た。

自分がさっきまで立っていた高さを。

その高さが、もう自分のものではないと理解してから、ようやく笑った。


苦い。

だが、さっきまでみたいな狂った歓喜ではない。

負けた側だけが持てる、妙に清々しい諦めに近い。


「……まだ、届かないか」


東都の誰も、その声を聞いてはいない。

だが、その一語が落ちた瞬間だけは、第二首都全体の呼吸が一度だけ揃った。

園業は続ける。


「.....認めよう。今回はな」


負けを認める。だが砕けない。

それが園業律心斎と言う男だった。

荒臣は短く息を吐く。


「結構だ。お前が認めたなら、それで片が付く」


その言い方は国家の側の終わらせ方だった。

勝ったではない。片付いた。

そこに余計な情は無い。

だが、情がないからこそ、この国はまだ保つ。


陽鳥はそこで、ようやく肩の力を抜いた。

抜いた瞬間に、自分の鼻先からまた血が落ちる。

遅れてきた反動だった。


紺野は半ば倒れ込むみたいに壁へ寄りかかり、それでも園業から目を切らない。

悔しさ。喪失感。

自分がどこまで行きかけていたのかへの薄い恐怖。

その全部が混じった顔だった。


細路地の外では、東都が少しずつ動き始める。

駅前の群衆が泣きながら立ち上がる。

受け入れ線では東雲が車列を戻し、南棟外周では宗一が兵をもう一度だけ動かし直す。

真名は拡声器越しに、今度は震えた声で「大丈夫」だと言った。

大丈夫なはずがない。

それでも、そう言うしかない段にやっと戻れた。

第二首都東都は、助かったのではない。

大損害の上で、ようやく終わったのだ。


そして、その終わりを作ったのは、紺野でも陽鳥でも御親領衛でもなかった。

最後に国の形をしたまま判決を下せるものが、遅れて来て、全部を一撃で片付けた。


それがこの国の現実だった。

空には、もう夜は立っていない。

ただ、さっきまでそこにあった理不尽の名残だけが、雲の形をひどく歪にして残っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ