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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
三章 東都が夜に落ちる日
153/193

百五十一話 西方守護


百五十一話


151-1 西方守護



細路地の入口に立ったものは、小さかった。


30000メートルの夜が第二首都の空を塞いでいる。

庁舎群の屋根も、駅前の高架も、港湾へ伸びる導線も、その全部が黒い巨体の陰に沈み、人間の都合で作られた都市の輪郭だけが、自分は都市だったのだと弱々しく申告している。


その下へ、黒に金糸の外套をまとった小さな影が立つ。

なのに、その小ささだけで細路地の空気が一段変わる。

園業律心斎が、初めて視線を絞る。

夜そのもののような巨体のはるか下、崩れた庁舎壁面と痩せた仮設柵のあいだに立つ一人。

その輪郭を見た瞬間、園業の怒りの熱へ別の色が混じった。

待っていたものがようやく来た時の、あの妙に静かな昂りだ。


「遅いな」


空から落ちてきた声ではない。

雲の下に開いた巨大な裂け目の奥から、笑いも怒りも飲み込んだまま降ってくる低音だった。


荒臣は答えない。

答える前に、紺野と陽鳥をもう一度だけ見た。

紺野は立っている。

立っているが、それ以上の無理をさせれば中身の方が崩れる顔をしている。

陽鳥は息を整えているように見えて、実際は整えられていない。

虫を無理に噛ませた反動が、鼻先から耳の奥まで熱く残っている。

それでも退いていないのだから、十分に馬鹿だ。

馬鹿ではあるが、使える馬鹿でもある。


「陽鳥」

「はい」

「下がれ」


短く、それだけだった。

命令は短い方が重い。

陽鳥は一瞬だけ歯を食いしばり、それから紺野の腕を肩へ回し直して半歩、さらに半歩と細路地の奥へ引いた。

反論しない。反論の値段が、今はあまりに安いからだ。

紺野が掠れた声で言う。


「……一人で、やる気か」


荒臣はそこで、ようやく少しだけ口元を動かした。

笑ったのではない。

子供じみた問いへ、わざわざ答える労力を惜しんだ時の顔だった。


「東都の空に立っているあれを、君まで含めて全員で相手取るつもりか。その発想から改めろ」


声音は静かだ。

静かなまま、容赦がない。


「手が余る。国家の仕事を、ようやく一人分に戻せるだけだ」


その言い方が、陽鳥には妙に荒臣らしく聞こえた。

大きさに気圧されるのでも、勇ましく歯向かうのでもない。

あくまで仕事の量として扱う。

それがこの小さな西方守護のいちばん気味の悪いところだった。


151-2


園業が動いた。


巨体そのものが動いたのではない。まず、影がずれた。

次に空気の層が裂け、それから遅れて東都のあちこちでガラスがまとめて鳴った。

腕が来る。

そう理解できた時には、既に官庁街の上空は一本の山脈みたいな黒い稜線で埋まっていた。

中央駅東口前では、誰かが叫ぶ。


「伏せろ!」


別の誰かが怒鳴り返す。


「伏せても無駄だろ!」


意味があるかどうかではない。

人は圧倒的に理解の外にあるものを前にすると、まず自分の知っている避難行動へ逃げ込もうとする。

それだけだ。

その叫びが終わるより先に、東都の空気が一度だけ薄くなった。


荒臣は、見上げない。

見上げれば、相手の大きさを人間の首の角度で受け入れることになる。

その手順が無駄だと知っている。

だから視線は正面のまま、足元に残る細路地の影だけを見る。


「大きいだけで勝てるなら、お前も少しは楽な性格になれただろうに」


抑揚の少ない声だった。

それが、園業の怒りに油を注ぐ。


「口の利き方に気を付けろ」


空の奥から、今度ははっきり苛立ちが落ちる。


「俺は今、機嫌が悪い。ようやく見えたものを奪われたばかりだ」

「知っているとも」


荒臣は言う。


「だからお前は怒りを東都全体へ拡張した。馬鹿に力があるからそうなる」


その一言の直後、空の稜線が細路地へ落ちる。

腕と呼びたくなくとも、そう呼ぶしかない。

雲を引き千切りながら振り下ろされた巨大な部位が、都市の一角ごと押し潰そうと落ちてくる。

主観では、夜そのものが折れて倒れてきたとしか思えない。


陽鳥は反射で紺野を庁舎壁面へ押し付けた。

真名は東口前で群衆を伏せさせる暇もなく、ただ前だけ見ろと叫ぶ。

宗一は南棟外周の兵を散らし、東雲は受け入れ線の車列を諦める順番を切る。

御親領衛は総力で生き残りに噛みつく。

だが、誰も荒臣の前へは出ない。

出る必要がないと、その小さな背中がもう告げていた。


荒臣が右手を上げる。

それだけだ。詠唱もない。構えも無い。

ただ、白い手袋に包まれた指先が、落ちてくる夜へ向けて一度だけ開く。


次の瞬間、東都の上空で何かが止まる。

正確には、止まったとしか認識できない。

落下の途中にあったはずの巨大な腕が、ほんの一瞬だけそこから先へ進む理由を失う。

空の奥で、巨体の影が揺れた。

園業の声音が、そこで初めて変わった。


「……ほう」


怒りのままではいられなかった。

面白いものを見た時の声だ。


151-3


空から見れば、その異常はもっと分かりやすい。

東都の上へ立つ、天を貫き遥か上に立つ人型。

肩は雲を裂き、腕は官庁街と中央駅の間の空を覆い、脚は物流区画と港湾道路をまたぐ。

その圧倒的な規模に対して、荒臣はあまりにも小さい。

地図の上へ落ちた紙屑にすら見えない。


それなのに、落ちてきた夜の腕だけは、その小さな一点の前で明確に勢いを失っていた。

理由は単純だ。

荒臣は最初から、大きさに付き合っていない。

相手が三万メートルだろうと、庁舎群の細路地に収まる人型だろうと、処理する対象として同じ棚へ置いている。

その発想自体が、園業の怒りをさらに煽る。


天帝臣御(セカンドテスタメント)


園業が低く呟く。

名前を知っているからこそ、声の奥に初めて本物の警戒が混じる。

荒臣は、そこでようやく少しだけ顔を上げた。


「お前はよく喋る」


淡々とした声。


「喋る暇があるなら、もう一度落としてみろ。今度はもう少し丁寧に潰してやる」


その一語に、園業の怒りが軋む。

怒鳴り返さない。

怒鳴る段を越えたからだ。

巨体が、今度は両腕ごと東都の空を掻き回す。

港湾部のクレーン群が根元から揺れ、中央駅前の高架がきしみ、第二首都庁舎群を囲むビルの壁面ガラスが連鎖的に砕ける。

ただ振るだけで都市機能が千切れる。

それが一騎夜行(ナイトウォーカー)の暴力だった。


荒臣は一歩だけ前へ出る。

歩幅は小さい。

それなのに、その一歩の方が、空で暴れる巨体より東都の空気を深く変える。


「陛下の命だ」


その一言だけで十分だった。


天帝臣御が開く。

開く、というより、最初からそこにあった見えない律が、この場でだけ露骨になる。

支配。

模倣。

天照大帝の縮図。


そんな説明は今は不要だった。

現象だけで足りる。

東都の上空で、園業の巨体が明らかに一段沈む。

肩が落ちる。

腕の振りが遅れる。

雲の裂け方まで変わる。

大きいまま、重いまま、その全体が「さっきまでの自由な怒り」を失っていく。


歩く夜と言う怪物に対して、荒臣は大きさで勝とうとしない。

大きさそのものへ、先に“従う理由”を上書きする。

園業が初めて唸った。

歓喜でも怒号でもない。

噛みついていた側が、ようやく噛み返された時の声だった。


151-4


東都の市民に何が起きているか、正確に分かった者は一人もいない。


ただ、空の夜が少しだけ低くなったように見えた。

中央駅東口前では、泣きながら子どもを抱き寄せていた女が、恐る恐る顔を上げる。


「……下がった?」


誰も答えない。

答えられない。

夜が下がるという表現がまずおかしいからだ。

それでも、そう見えた。


南棟外周では宗一が、ようやく息を吐いた。

楽観ではない。

ただ、「勝てないまでも、このまま全滅はしない」という最初の一線だけが見えた時の息だった。

東雲は受け入れ線で、止まった車列の運転兵へ怒鳴る。


「見るな!前だけ見て動け!動く理由が戻ったぞ!」


真名も東口前で、拡声器の音量を一段上げる。


「足を止めないで!下だけ見て、前へ!まだ終わってない!」


まだ終わっていない。

その一語が、さっきまでとは違う意味で街へ落ちる。

今までは絶望の継続だった。


いまは違う。

終わっていない以上、まだ何かが変わる余地があると人間の方が勘違いし始める。

その勘違いだけで、群衆はまた少し生きられる。


細路地では、陽鳥が紺野を支えたまま、その小さな背中を見ていた。

荒臣は振り返らない。

自分の後ろに誰がいて、どれだけ傷んでいて、今どんな顔をしているか。

そんな確認をしない。必要がないからだ。

いま相手取るべきものだけを見る。


園業の巨体が、空の上で明らかに一度だけ軋んだ。

大きさは変わらない。

だが、もう分かる。

さっきまで東都そのものへ覆い被さっていた怒りが、初めて止められる側の動きへ変わっている。

園業の声が、今度は上からではなく少し低い位置から響いた。


「……そうか」


歓喜は消えていた。

怒りも、さっきまでほど熱くはない。

残っているのは理解だ。


「そういう力か」


荒臣は答えない。答える必要がない。

相手が理解したなら、後は切り落とすだけだ。

東都の上空で、夜がもう一度だけ大きくうねる。

最後の抵抗か。最後の試し合いか。

そんな事はどちらでもよかった。

その先の結論だけが、この場では重い。

荒臣が右手をわずかに持ち上げる。

細路地の空気が、そこで完全に凍る。


陽鳥は紺野を引き寄せる。

紺野は半ば朦朧としながら、それでもその動きだけは見た。

見た瞬間に分かる。

次で終わる。

東都の空の下。

暴食の夜と、その足元に立つ小さな判決。

その二つの理不尽が、ようやく同じ段へ揃った。


園業律心斎は、まだ膝をついていない。

まだ敗北を口にもしていない。

それでももう、勝てないと、頭では理解していた。

だが、人が敗北を認める前には、たいていその一段がある。


空の夜が、わずかに軋む。

荒臣の指先が、静かにその先を定める。

東都全体が息を止めたまま、その次の一撃を待っていた。


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