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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
三章 東都が夜に落ちる日
152/191

百五十話 判決が落ちる


百五十話


150-1 判決が落ちる



東都の上に立った夜は、まだ怒っていた。


怒りという言葉が正しいかどうかは分からない。

あれほど巨大なものへ、人間の感情を当てはめること自体がもう安い。


それでも、第二首都の空を塞ぎ、庁舎群も中央駅も港湾部も、その全部を影の下へ押し込んだ人型を前にした時、東都の人間が最初に感じたのは夜に見下ろされているという、ひどく原始的な恐怖だった。


南棟外周では車列が止まり切っていた。

搬送も、補給も、警備の再配置も、もう“順番を守れば回る”という段を過ぎている。

若い兵が震える唇で言う。


「少尉殿、命令は」


宗一はすぐには答えなかった。

答えられないからではない。

命令の中身が、もう人間一人分の勇気でどうにかなる種類ではないと分かっているからだ。

東口前では群衆が膝をつき始めていた。

祈るためではない。

立っていられないからだ。

真名が拡声器を奪い取って怒鳴る。


「しゃがまないで! 頭を上げて、前だけ見て! 走らなくていい、でも止まらないで!」


それでも視線は空へ吸われる。

見たくなくても見えてしまう。

空の手前に人型の夜がある。

その事実が、人間の首の可動域を自分のものみたいに使ってくる。


東外縁では、東雲が受け入れ線を捨てる順番を決め始めていた。

もう維持ではない。

何を残せば、この後まだ人が生きて動けるか、その計算に切り替わっている。


「第二帯切れ。第四は見捨てろ。第三だけ残せ。残せるんじゃない、残すんだ」


老いた調整役の声だった。

その声がまだ崩れないだけで、若い兵たちは辛うじて脚を動かせる。

だが東都全体を見れば、もう分かる。

これは部隊の努力でどうこうなる段ではない。

東都はここに至って初めて、本当の意味で国家の無力を知った。


制服も、拡声器も、交通導線も、銃列も、全部を積み上げた先で、空の手前に異形の夜が立つ。

そういう理不尽の前では、都市の機能というものは驚くほど小さい。


150-2


庁舎群南西の細路地では、陽鳥が紺野を支えていた。


端末はもう拾っていない。

虫も、観測も、攪乱も、さっきまでの戦い方は全部捨てた。

今はただ、紺野をこの場へつなぎ止めることだけが仕事になっている。

紺野の肩は重い。

だが、それ以上に嫌なのは、身体の重さと中身の重さが噛み合っていないことだった。


右肩は潰れ、呼吸も浅く、肋にも嫌な痛みが残っている。

それなのに、内側のもっと危ない部分だけがまだ冷め切っていない。

陽鳥が止めた。

確かに止めた。

けれど完全に閉じたわけではない。

危険な底へ蓋をした上で、その蓋の裏になお熱が残っている。

そういう止まり方だった。


「健ちゃん」


陽鳥が低く言う。


「立てる?」


紺野はすぐに返事をしなかった。

返事を作るまでに、まだ少し時間がかかる。


「……立つ」


やっと出た声は、掠れていた。


だが、言葉の形だけは人間のものへ戻っている。

それで十分だと陽鳥は思うしかない。

細路地の外側では、夜が立っている。

園業律心斎の一騎夜行。

その怒りの形。

それはもう、今さら言い換えても安くなるだけだ。


陽鳥は上を見ない。

代わりに園業の“根元”だけを見る。

どれほど巨大になろうと、どこかに起点はある。

神術である以上、起点が無いはずがない。

そして、その起点の近くにいま自分たちはいる。

それは希望ではない。

むしろ最悪に近い。

ここが一番危ない場所だという意味だからだ。

園業の声が、上からではなく四方から降ってくる。


「止めたな」


陽鳥は返さない。

返したところで、この男の怒りはもう言葉で上下しない。


「せっかく見えたものを」


園業が言う。


「ここまで見せて、閉じるか」


細路地の壁面がびりびりと震える。

音ではない。

言葉そのものが重量を持っているような震えだった。


紺野がゆっくりと顔を上げる。

視線はまだ定まらない。

だが、園業の“いる方向”だけは分かる。

分かる時点で危うい。

あの男は今も、自分を見ている。

東都ではない。

御親領衛でもない。

あくまで自分だ。

代わりとして噛んでいたはずの相手へ、いまこの場で怒りを向け続けている。


「……まだ、逃げる気か」


園業の声音は冷たい。

だが、その冷たさの下にある熱だけは消えていない。

紺野はすぐに返せなかった。

言いたいことは幾つもある。

怒りもある。

悔しさもある。

だが、そのどれもが今はまだ喉の奥で渦を巻いているだけで、前へ出る形を持たない。

代わりに陽鳥が答えた。


「やらせない」


短い。

だが、そこへ彼女の全部が入っていた。


150-3


最初に気付いたのは、東口前の群衆だった。


夜の下で、誰もが上を見ている。

見ない方がいいと分かっていても、見てしまう。

その視線の流れの中に、逆向きのものが一つだけ生まれる。

西から来る。


駅務主任はその時だけ、群衆の視線の先を追ってしまった。

それが間違いだったと、次の一秒で理解する。

庁舎群の屋根の縁。

崩れた高架の影。


黒に金糸の外套が、夜の下でかえって異様に輪郭を持つ。

小さい。あまりに小さい。

東都を見下ろす人型の夜の下では、人間どころか玩具にすら見えない。

それでも、その小ささだけで東口前の空気が一瞬、別の意味へ切り替わる。


第二首都の群衆が、その小ささへ視線を取られた時点で十分だった。

判決というものは、たいてい悲鳴より静かに来る。


南棟外周でも宗一が気付く。

上ではなく、西。

そこから歩いてくる影を見た瞬間、宗一は初めて今日一日で最も重い息を吐いた。


「……来たか」


それだけだった。

説明はいらない。

名前を出す方が、むしろ今は軽かった。

東雲も、真名も、羽場桐からの断続的な指示を拾っていた通信士官も、その一言で十分だった。


西方守護。御親領衛一席。


全ての肩書きより先に、ここから先は国家が自分の責任で口を出すという事実の方が重い。

荒臣は急がない。

その必要が無いからだ。

東都全体が、夜の下で止まりかけている。

その中を、白の軍装に黒の外套を重ねた小さな人影だけが、妙に正しい歩幅で進んでくる。

その歩き方が、群衆には一番怖かった。


何かを誇示もしない。

ただ自分がここへ来ることは、最初から決まっていたとでも言うように歩いてくる。

そういう者が一番、人間の都合を超えている。


150-4


庁舎群南西の細路地で、陽鳥はようやく一度だけ目を閉じた。


終わったわけではない。

むしろここからだ。それでも、来た。

その事実だけで、さっきまで空気の中を満たしていた別種の絶望が、一度だけ形を変える。


紺野も、それに気付く。

理屈ではない。

もっと浅い所で分かる。

細路地の空気が二つに割れた。

一方は、園業律心斎の怒り。

もう一方は、それとは全く別の冷たさ。


冷たい。

だが、薄くも弱くもない。

むしろ、熱を必要としない側の圧倒だった。

園業の声が、そこで初めて止まる。

止まった、という事実自体が異常だった。

空を貫くまでに至った怒りが、その一瞬だけでも言葉を失う。

それが何を意味するかは、考えるまでもない。


細路地の入口に、小さな影が立つ。

白。黒。長い髪。

その輪郭だけで十分だった。

ここまで来れば、誰が来たかではなく何が到着したかの方が正確だからだ。


荒臣はまず、夜を見上げた。

見上げるというより、値踏みするような短い視線だった。それで終わる。

その程度で済ませるところが、陽鳥には逆に寒気がした。


「大きいな」


淡々とした声。

感嘆でもなければ焦りでもない。

事実を事実として口にしただけの短さだった。

その一言に、園業の怒りがわずかに軋む。

上から見下ろしているはずの怪物が、初めて「見られている側」へ回る。

それだけで空気が変わる。


荒臣は次に、細路地の中を見た。

陽鳥。

紺野。

崩れた壁。

痩せた仮設柵。

その全部を一瞥し、最後に紺野へ視線を置く。

置くだけ。

長くは見ない。

今はそこに時間を使う段ではないからだ。


「立てるか」


紺野は、その問いにすぐ返せない。

だが、返せなくてもいい。

荒臣の問いは励ましではない。

ただ、まだ自力で立つ余地が残っているかの確認に過ぎない。


「……立つ」


掠れた返答。

それで十分だった。

荒臣は頷きもせず、また上を見る。


「珠洲原」

「はい」

「そこから退け」


命令だった。

短い。だが、短い命令ほど重い。

陽鳥は一瞬だけ歯を食いしばり、それから紺野を引きずるように半歩下げた。

反論はしない。

反論の値段が、今はあまりに安いからだ。

園業の声が、夜の奥から響く。


「ようやく出たか」


歓喜ではない。怒りでもない。

待っていたものが現れた時の、妙に静かな熱だった。

荒臣は答えない。

答える前に、外套の裾を一度だけ払う。

その仕草の方が、言葉より先にこの場の意味を決めてしまう。


東都の空は、まだ園業の夜に塞がれている。

人はまだ逃げていない。

逃げられる道理もない。

何も終わっていない。


それでも東都には、さっきまでの絶望とは別の理不尽がもう一つ立った。

夜の下に、もう一つ別の理が立つ。

その瞬間にだけ、第二首都は初めて、まだ終わらないかもしれないという、あまりに高価な錯覚を手に入れた。


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