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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
三章 東都が夜に落ちる日
151/193

百四十九話 まだ来ない命令


百四十九話


149-1 まだ来ない命令



東都の空から昼が消えた時、帝都ではまだ午後の光が窓へ残っていた。


それが国家というものの嫌なところだ。

一つの都市で空が失われても、別の都市の執務室では湯が沸き、紙がめくれ、定時報告の声が落ち着いた音程を保つ。

世界は均等に終わらない。

終わらないからこそ、国家はしばらく平然と動く。

近衛本部の作戦中枢では、最初に映像が死んだ。


東都北縁。

第二首都庁舎群。

中央駅東口前。

港湾部。


各地点の監視画面が一斉に黒くなり、それから遅れてノイズの海へ沈む。

通信兵が反射で系統を切り替え、別回線を呼び、予備電源を叩き起こす。

意味はない。

意味がないと理解するまでに、三十秒近くかかった。


「映像系、全滅!」

「気圧値異常、いや違う、高度算出が——」

「算出不能、再計算中!」

「再計算の桁が合いません!」

「合うまで回せ!」

「合ってたら困るんですよ!」


その怒鳴り方だけが、いま何が起きているかをいちばん正確に表していた。

羽場桐妙子は中央卓の端に立ったまま、画面を見ていた。

見ているというより、数字の並び方を見ている。


黒。

ノイズ。

途切れた地図。

飛び抜けた観測値。


どれも単独なら機器故障で片付く。

単独で片付かないから、逆に誰も最初の一語を言えない。


「東都、観測系統の一部が復旧します!」


若い通信士官の声が上ずる。

画面に戻ったのは映像ではなく、ただの数字列だった。


高度。

熱量。

風速。

衝撃波予測。


全部の右肩に付いた桁だけが、国家の想定する範囲から静かに外れている。


「……何ですか、これ」


誰かが言った。

問いではない。

拒絶だ。

その数字を“事実”として扱いたくない時の、子供みたいな声だった。


羽場桐は答えない。

代わりに、卓上へ置かれた最新の算出票を一枚だけ指で押さえる。

三万メートル。

数字に直せば、それだけである。

だが、その「だけ」を国家はすぐには扱えない。

扱った瞬間に、平時の書式が全部死ぬからだ。


「西都第一師団への準備命令は」


羽場桐が訊く。


「発出済みです」

「帝都第二師団の東方展開は」

「一部が準備中、ただし東都方面の進路確認で——」

「確認は後です。出せる単位から出してください」

「ですが、統合司令権の文面がまだ——」


そこで一瞬だけ、羽場桐の目が冷えた。


「文面を待って東都の空が戻りますか」


士官は黙る。

黙るしかない。

だが、その沈黙を責めても意味がないことも、羽場桐は知っている。


国家は空が消えてからでも書式を探す。

それが悪意ではなく、構造の問題だから厄介なのだ。


近くの補佐官が、小さく、しかしはっきり言う。


「西方守護の出動権限は」


誰もすぐに答えられなかった。

それが、今この本部でいちばん重い沈黙だった。


149-2


東都では夜が立っている。


帝都では命令だけが立ち遅れている。

羽場桐はそれを、怒りというより寒気に近い感覚で処理していた。


近衛。

陸軍。

海軍。

第二首都。

西方守護。


そこへ天帝の絶対命令という最後の一点が乗る。

誰の責任で何を起動するか。

誰がどの失敗を後から負うか。

国家は巨大な災害ほど、最初の一歩を個人へ押しつけたがる。

押しつけ先が決まらない間だけ、全体が妙に礼儀正しく止まる。


「東都方面、海軍は」


羽場桐が問う。

参謀が答える。


「南洋経由の艦隊が警戒態勢へ移ります。ただし港湾部への接近は、現状あの規模では」

「接近させるためではありません。撃つ理由を国家側へ残してください」


別の士官が言う。


「西方守護を出すなら、近衛単独で決められる話なのでは」

「単独で決められる話です」


羽場桐は切った。


「ただし、誰もその責任の一行目を書きたくないだけです」


言い切ってから、羽場桐は自分でその正確さにうんざりした。

遅いのではない。

迷っているのでもない。

まだ来ない、とはつまり、誰も最初の一行を書いていないという意味だ。


通信兵が新しい数値を読む。


「東都北縁、衝撃波第二波予測更新。到達範囲、第二首都中枢域全体」

「中央駅周辺の群衆密度は」

「再取得不能です」

「御親領衛各席の位置は」

「断続、ただし三席、十二席、南西寄りで――」


そこまで聞いて、羽場桐の指が止まる。

紺野。

珠洲原。

あの二人が、まだ生きている。

生きていて、しかも南西寄り。

なら、あの夜の真下にまだいる。


胸の奥が一度だけ冷たく縮んだ。

だが顔には出さない。

顔に出した瞬間、作戦卓の呼吸が乱れる。


「記録を」


羽場桐が言う。


「いまから先の全命令系統を時刻付きで残してください。一秒単位で。誰が止め、誰が通し、誰が黙ったか。全部」


若い書記官が頷く。


震えている。

だが手は速い。

震えていても速い人間は信用できる。

羽場桐はそういう基準で人を見る癖が、昔から抜けない。


補佐官が、低く問う。


「羽場桐中尉。西方守護が動く前提で組みますか」


羽場桐は数秒だけ答えなかった。

この数秒は重い。

だが長くはない。

長くした瞬間、その沈黙の方が命令になるからだ。


「組みます」


やがて羽場桐は言う。


「組みますが、それと“動く”はまだ同義ではありません。そこを混同しないでください」


その返答が、この国家の病理だった。

最悪に備える。

だが、最悪を前提に決断はしない。

決断だけは、最後の誰かへ先送りする。


149-3


硯荒臣は、自室にいた。


本部の喧噪から切り離された、しかし完全には離れていない場所。

机の上には紙がある。

茶もある。

だが、山のように積まれているわけではない。


今日の荒臣は座ってもいなかった。

窓際でもない。

執務机の前で立ったまま、閉じた扇を指先で一度だけ回している。

癖だ。

機嫌の指標ではない。

ただ、待っている時に出る。

羽場桐が入ってきても、荒臣はすぐには振り向かない。


「東都が見えなくなった顔をしているな」


その言い方が、羽場桐には少しだけ救いだった。

騒がない。

怒鳴らない。

現状の重さを分かった上で、最初に投げる一言がこれなのだ。


「見えなくなりました」


羽場桐が答える。


「正確には、見えすぎています」

「夜か」


荒臣が言った。

問いではない。

確認でもない。

既に数字が入っている者の口調だった。


「はい」

「大きいだろうな」


荒臣はようやく振り向く。


「大きいだけで済むなら、世の中の大半の災害はもっと楽だが」


外見だけなら、十五歳前後の小柄な少女にしか見えない。

長い黒髪を首の後ろで編み、白基調の軍装の裾が静かに揺れる。

その姿で、目だけがこの部屋の誰より年を取っている。


羽場桐は報告を簡潔に落とす。


東都陥落。

凛藤義貞敗北。

園業律心斎最大解放。

御親領衛の残存線。

紺野と陽鳥の位置。

海軍・陸軍・近衛の遅延。


どれも短く。

短くしないと、その分だけ意味が軽くなるからだ。

荒臣は最後まで遮らずに聞いた。

聞いて、それから小さく息を吐く。


「なるほど」


そこで少しだけ口元が動く。

笑ったのではない。

国家の愚かさと人間の順番の悪さを、いつものように確認した時の顔だ。


「私が行かない理由を、まだ上が探しているわけだ」


羽場桐は返答に迷わなかった。


「はい」

「正直で良い」


荒臣は言う。


「嘘で飾られる方が腹が立つ」


それから、閉じた扇の先で机の端を一度だけ叩く。


「まだ呼ばれていない。来ないのではない。そこを履き違えるな」


羽場桐は軽く目を伏せる。

分かっている。


西方守護は、自分の機嫌や善意で動く存在ではない。

天帝の命令だけが絶対だ。

国家がどれほど壊れかけていようと、その一点が下りない限り荒臣は“出ない”のではない。“出てはならない”のだ。


そこがこの国のいちばん恐ろしいところであり、同時にいちばん正しいところでもあった。


「紺野とは」


荒臣が不意に言う。

その呼び方だけが、羽場桐の胸へひどく重く落ちる。


「まだ生きています。ただし、南西寄り。園業の真下です」

「珠洲原もいるな」

「はい」


荒臣はそこで初めて、ほんの少しだけ目を細めた。

感情を出したのではない。

だが、これ以上遅れると盤面が別の意味で壊れると理解した顔だった。


149-4


天帝からの伝達は、意外なほど簡単だった。

飾りもない。

長い文面もない。

国家の大義も、第二首都の重みも、西方守護の責務も書かれていない。

ただ、短い。


「認める」と


それだけだった。

羽場桐がその一語を受け取った時、本部の喧噪はまだ続いていた。


東都の観測。

進路。

避難。

各軍との照合。

全部がまだ同時に喋っている。

なのに、その一語だけで、もう他の全部が前座に落ちる。


羽場桐は顔を上げる。


「……出ます」


荒臣は頷く。

それだけ。

気負いもない。

勝算を言わない。

安心もさせない。

ただ、行けと言われたから行く者の頷きだった。


軍帽は被らない。

黒に金糸装飾の外套だけを取る。

それを羽織る仕草がやけに静かで、羽場桐は逆にぞっとした。

本当に出るのだと、その静かさの方が何より雄弁だった。


「妙子」

「はい」

「後ろは任せる」


荒臣が言う。


「東都を救え、とは言わん。それはもう過ぎた。だが、東都が何で壊れたかだけは、綺麗に誤魔化させるな」


羽場桐は短く息を吸う。


それがこの人らしい命令だった。

勝利より先に、記録の正確さを取る。

国家の中枢にいる者の言葉だ。


「承知しました」


荒臣は歩き出す。

扉の前で、一度だけ足を止めた。


「そう言えば、一騎当千などと誰かが言っていたな」


その声音に、羽場桐は思わず目を上げる。

皮肉だとすぐ分かる。


「一万二千の仕事を、ようやく一人分に戻せる。ありがたいことだ」


それだけ言って、荒臣は出た。


本部の廊下は静かではなかった。

伝令が走り、士官がぶつかり、紙が飛び、どこかで誰かが「まだ確認が」と叫んでいる。


その喧噪の中を、荒臣だけが妙に遅く見える速度で歩く。

遅いのではない。

周囲の全部が、この一人の出発より安いだけだ。


羽場桐はその背中を見送る。

白い軍装。

黒い外套。

小さすぎる背。

それなのに、今この帝都で最も重いものが、確かに東都へ向かっていると分かる。


第二首都の上に立った人型の夜は、まだ怒っている。

だが、その夜へ向けて、ようやく国家の側から一つだけ、まともな答えが歩き始めた。


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