百四十九話 まだ来ない命令
百四十九話
149-1 まだ来ない命令
東都の空から昼が消えた時、帝都ではまだ午後の光が窓へ残っていた。
それが国家というものの嫌なところだ。
一つの都市で空が失われても、別の都市の執務室では湯が沸き、紙がめくれ、定時報告の声が落ち着いた音程を保つ。
世界は均等に終わらない。
終わらないからこそ、国家はしばらく平然と動く。
近衛本部の作戦中枢では、最初に映像が死んだ。
東都北縁。
第二首都庁舎群。
中央駅東口前。
港湾部。
各地点の監視画面が一斉に黒くなり、それから遅れてノイズの海へ沈む。
通信兵が反射で系統を切り替え、別回線を呼び、予備電源を叩き起こす。
意味はない。
意味がないと理解するまでに、三十秒近くかかった。
「映像系、全滅!」
「気圧値異常、いや違う、高度算出が——」
「算出不能、再計算中!」
「再計算の桁が合いません!」
「合うまで回せ!」
「合ってたら困るんですよ!」
その怒鳴り方だけが、いま何が起きているかをいちばん正確に表していた。
羽場桐妙子は中央卓の端に立ったまま、画面を見ていた。
見ているというより、数字の並び方を見ている。
黒。
ノイズ。
途切れた地図。
飛び抜けた観測値。
どれも単独なら機器故障で片付く。
単独で片付かないから、逆に誰も最初の一語を言えない。
「東都、観測系統の一部が復旧します!」
若い通信士官の声が上ずる。
画面に戻ったのは映像ではなく、ただの数字列だった。
高度。
熱量。
風速。
衝撃波予測。
全部の右肩に付いた桁だけが、国家の想定する範囲から静かに外れている。
「……何ですか、これ」
誰かが言った。
問いではない。
拒絶だ。
その数字を“事実”として扱いたくない時の、子供みたいな声だった。
羽場桐は答えない。
代わりに、卓上へ置かれた最新の算出票を一枚だけ指で押さえる。
三万メートル。
数字に直せば、それだけである。
だが、その「だけ」を国家はすぐには扱えない。
扱った瞬間に、平時の書式が全部死ぬからだ。
「西都第一師団への準備命令は」
羽場桐が訊く。
「発出済みです」
「帝都第二師団の東方展開は」
「一部が準備中、ただし東都方面の進路確認で——」
「確認は後です。出せる単位から出してください」
「ですが、統合司令権の文面がまだ——」
そこで一瞬だけ、羽場桐の目が冷えた。
「文面を待って東都の空が戻りますか」
士官は黙る。
黙るしかない。
だが、その沈黙を責めても意味がないことも、羽場桐は知っている。
国家は空が消えてからでも書式を探す。
それが悪意ではなく、構造の問題だから厄介なのだ。
近くの補佐官が、小さく、しかしはっきり言う。
「西方守護の出動権限は」
誰もすぐに答えられなかった。
それが、今この本部でいちばん重い沈黙だった。
149-2
東都では夜が立っている。
帝都では命令だけが立ち遅れている。
羽場桐はそれを、怒りというより寒気に近い感覚で処理していた。
近衛。
陸軍。
海軍。
第二首都。
西方守護。
そこへ天帝の絶対命令という最後の一点が乗る。
誰の責任で何を起動するか。
誰がどの失敗を後から負うか。
国家は巨大な災害ほど、最初の一歩を個人へ押しつけたがる。
押しつけ先が決まらない間だけ、全体が妙に礼儀正しく止まる。
「東都方面、海軍は」
羽場桐が問う。
参謀が答える。
「南洋経由の艦隊が警戒態勢へ移ります。ただし港湾部への接近は、現状あの規模では」
「接近させるためではありません。撃つ理由を国家側へ残してください」
別の士官が言う。
「西方守護を出すなら、近衛単独で決められる話なのでは」
「単独で決められる話です」
羽場桐は切った。
「ただし、誰もその責任の一行目を書きたくないだけです」
言い切ってから、羽場桐は自分でその正確さにうんざりした。
遅いのではない。
迷っているのでもない。
まだ来ない、とはつまり、誰も最初の一行を書いていないという意味だ。
通信兵が新しい数値を読む。
「東都北縁、衝撃波第二波予測更新。到達範囲、第二首都中枢域全体」
「中央駅周辺の群衆密度は」
「再取得不能です」
「御親領衛各席の位置は」
「断続、ただし三席、十二席、南西寄りで――」
そこまで聞いて、羽場桐の指が止まる。
紺野。
珠洲原。
あの二人が、まだ生きている。
生きていて、しかも南西寄り。
なら、あの夜の真下にまだいる。
胸の奥が一度だけ冷たく縮んだ。
だが顔には出さない。
顔に出した瞬間、作戦卓の呼吸が乱れる。
「記録を」
羽場桐が言う。
「いまから先の全命令系統を時刻付きで残してください。一秒単位で。誰が止め、誰が通し、誰が黙ったか。全部」
若い書記官が頷く。
震えている。
だが手は速い。
震えていても速い人間は信用できる。
羽場桐はそういう基準で人を見る癖が、昔から抜けない。
補佐官が、低く問う。
「羽場桐中尉。西方守護が動く前提で組みますか」
羽場桐は数秒だけ答えなかった。
この数秒は重い。
だが長くはない。
長くした瞬間、その沈黙の方が命令になるからだ。
「組みます」
やがて羽場桐は言う。
「組みますが、それと“動く”はまだ同義ではありません。そこを混同しないでください」
その返答が、この国家の病理だった。
最悪に備える。
だが、最悪を前提に決断はしない。
決断だけは、最後の誰かへ先送りする。
149-3
硯荒臣は、自室にいた。
本部の喧噪から切り離された、しかし完全には離れていない場所。
机の上には紙がある。
茶もある。
だが、山のように積まれているわけではない。
今日の荒臣は座ってもいなかった。
窓際でもない。
執務机の前で立ったまま、閉じた扇を指先で一度だけ回している。
癖だ。
機嫌の指標ではない。
ただ、待っている時に出る。
羽場桐が入ってきても、荒臣はすぐには振り向かない。
「東都が見えなくなった顔をしているな」
その言い方が、羽場桐には少しだけ救いだった。
騒がない。
怒鳴らない。
現状の重さを分かった上で、最初に投げる一言がこれなのだ。
「見えなくなりました」
羽場桐が答える。
「正確には、見えすぎています」
「夜か」
荒臣が言った。
問いではない。
確認でもない。
既に数字が入っている者の口調だった。
「はい」
「大きいだろうな」
荒臣はようやく振り向く。
「大きいだけで済むなら、世の中の大半の災害はもっと楽だが」
外見だけなら、十五歳前後の小柄な少女にしか見えない。
長い黒髪を首の後ろで編み、白基調の軍装の裾が静かに揺れる。
その姿で、目だけがこの部屋の誰より年を取っている。
羽場桐は報告を簡潔に落とす。
東都陥落。
凛藤義貞敗北。
園業律心斎最大解放。
御親領衛の残存線。
紺野と陽鳥の位置。
海軍・陸軍・近衛の遅延。
どれも短く。
短くしないと、その分だけ意味が軽くなるからだ。
荒臣は最後まで遮らずに聞いた。
聞いて、それから小さく息を吐く。
「なるほど」
そこで少しだけ口元が動く。
笑ったのではない。
国家の愚かさと人間の順番の悪さを、いつものように確認した時の顔だ。
「私が行かない理由を、まだ上が探しているわけだ」
羽場桐は返答に迷わなかった。
「はい」
「正直で良い」
荒臣は言う。
「嘘で飾られる方が腹が立つ」
それから、閉じた扇の先で机の端を一度だけ叩く。
「まだ呼ばれていない。来ないのではない。そこを履き違えるな」
羽場桐は軽く目を伏せる。
分かっている。
西方守護は、自分の機嫌や善意で動く存在ではない。
天帝の命令だけが絶対だ。
国家がどれほど壊れかけていようと、その一点が下りない限り荒臣は“出ない”のではない。“出てはならない”のだ。
そこがこの国のいちばん恐ろしいところであり、同時にいちばん正しいところでもあった。
「紺野とは」
荒臣が不意に言う。
その呼び方だけが、羽場桐の胸へひどく重く落ちる。
「まだ生きています。ただし、南西寄り。園業の真下です」
「珠洲原もいるな」
「はい」
荒臣はそこで初めて、ほんの少しだけ目を細めた。
感情を出したのではない。
だが、これ以上遅れると盤面が別の意味で壊れると理解した顔だった。
149-4
天帝からの伝達は、意外なほど簡単だった。
飾りもない。
長い文面もない。
国家の大義も、第二首都の重みも、西方守護の責務も書かれていない。
ただ、短い。
「認める」と
それだけだった。
羽場桐がその一語を受け取った時、本部の喧噪はまだ続いていた。
東都の観測。
進路。
避難。
各軍との照合。
全部がまだ同時に喋っている。
なのに、その一語だけで、もう他の全部が前座に落ちる。
羽場桐は顔を上げる。
「……出ます」
荒臣は頷く。
それだけ。
気負いもない。
勝算を言わない。
安心もさせない。
ただ、行けと言われたから行く者の頷きだった。
軍帽は被らない。
黒に金糸装飾の外套だけを取る。
それを羽織る仕草がやけに静かで、羽場桐は逆にぞっとした。
本当に出るのだと、その静かさの方が何より雄弁だった。
「妙子」
「はい」
「後ろは任せる」
荒臣が言う。
「東都を救え、とは言わん。それはもう過ぎた。だが、東都が何で壊れたかだけは、綺麗に誤魔化させるな」
羽場桐は短く息を吸う。
それがこの人らしい命令だった。
勝利より先に、記録の正確さを取る。
国家の中枢にいる者の言葉だ。
「承知しました」
荒臣は歩き出す。
扉の前で、一度だけ足を止めた。
「そう言えば、一騎当千などと誰かが言っていたな」
その声音に、羽場桐は思わず目を上げる。
皮肉だとすぐ分かる。
「一万二千の仕事を、ようやく一人分に戻せる。ありがたいことだ」
それだけ言って、荒臣は出た。
本部の廊下は静かではなかった。
伝令が走り、士官がぶつかり、紙が飛び、どこかで誰かが「まだ確認が」と叫んでいる。
その喧噪の中を、荒臣だけが妙に遅く見える速度で歩く。
遅いのではない。
周囲の全部が、この一人の出発より安いだけだ。
羽場桐はその背中を見送る。
白い軍装。
黒い外套。
小さすぎる背。
それなのに、今この帝都で最も重いものが、確かに東都へ向かっていると分かる。
第二首都の上に立った人型の夜は、まだ怒っている。
だが、その夜へ向けて、ようやく国家の側から一つだけ、まともな答えが歩き始めた。




