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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
三章 東都が夜に落ちる日
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百四十七話 止める者


百四十七話


147-1 止める者



端末が地面へ落ちた音は、小さかった。


小さいのに、庁舎群南西の細路地では妙に大きく響いた。

金属の角が割れた舗装へ当たり、乾いた一音を返す。

それだけで十分だった。

珠洲原陽鳥が、もう観測を捨てたと全員に分かったからだ。


紺野健太郎の右手が、なお園業律心斎へ伸びる。

殴るためではない。狙ってすらいない。

目の前のものが自分から寄ってきて、だからそこに手があるようにしか見えない。


肩。胸。肋。

触れた場所から輪郭が痩せ、拒めなくなった部位から順に、園業の圧縮された形が崩れていく。

園業は笑っていた。笑い声ですらない。

喉の奥で、喜悦だけが熱を持って鳴る。


「もっとだ」


低い声。歓喜が隠れていない。


「もっと深く見せてみろ」


陽鳥の背中を、冷たい汗が一筋落ちる。

ここで前へ出なければ終わる。

園業を止めるのではない。紺野の方を止める。

その役目だけが、いま細路地の中で他の何より高かった。


「健太郎」


陽鳥が呼ぶ。返事はない。

紺野は立っている。だが、立っているという言葉がもう危うい。

身体がそこにあるだけで、心の方は足元より深い所へ沈み始めている。


「見て」


二歩、前へ出る。

紺野と園業の間へ、自分から入る。

誰かが遠くで息を呑む音がした。南棟外周か。東口前か。

どこの誰かはもう分からない。

だが、その息の浅さだけは、第二首都全体へ伝播している気がした。


「健ちゃん、私を見て」


紺野の目が、そこでようやく一度だけ揺れた。

焦点が合っていないのではない。合いすぎている。

目の前のものも、背後のものも、壁も、空気も、全部が同じ距離へ見えてしまう時の目だった。

園業が一歩、さらに前へ出ようとする。


「邪魔だ」


今度は陽鳥へ向けた声だった。低い。だが、底の方で怒りが煮え始めている。


「そこで止めるな。そこまで出たものを閉じるな」


陽鳥は園業を見ない。見たら負ける。

あの男の歓喜へ意味を与えた瞬間、紺野を呼び戻す側の声が薄くなる。


「黙って」


短く言う。その声音の冷たさだけで、もう彼女が覚悟を決めていると分かる。


147-2


陽鳥の虫は、生半可な神術師に処理できるるのではない。

最低限でも正四位以上。それも、ただ出力があるだけでは足りない。

精神へ噛みつくものに対して、きちんと自分の輪郭を保てるだけの格が要る。


ましてそれを数百、数千単位で自爆させれば、生半可な三位程度ならその場で精神が焼け切ってもおかしくない。

それほど危険なものを、陽鳥はいま他人へではなく、自分と紺野の間へ落とそうとしていた。

親機が鳴く。音ではない。

神経の奥で、何かが一斉に羽化する感覚だった。


「嫌って」


陽鳥が言う。命令ではない。教え込んできた合図だ。

長い時間をかけて、ずっとこの瞬間のためだけに仕込んできた、最悪の安全装置。


「全部を寄せるな。切って。拒んで。今だけでいいから、健ちゃん」


紺野の肩が大きく震える。

寄ってくる。目の前の園業も。壁も。痛みも。音も。

全部が「外に置いておく理由」を失って、自分の側へ寄ってくる。

その流れへ、陽鳥の虫が逆向きの歯を立てた。


拒絶。否定。切断。


本質ではない。偽りの解釈だ。だが、偽りだからこそ、今だけは使える。

紺野の中で開きかけた危険な底へ、陽鳥はずっとそれを楔として打ち込み続けてきた。

だから止められる。止めるしかない。


子機が爆ぜる。

数十、数百、数千。


外へ飛ばしたのではない。

紺野の認識へ、陽鳥自身の神経へ、ずっと仕込んできた非常停止の群れが一斉に自爆する。


痛みでは済まない。

白い雑音が脳の内側を塗り潰し、「全部を自分の側へ引き込む」という滑らかな近道の途中へ、無理矢理、棘のあるノイズをねじ込む。

紺野が初めて声を漏らした。


「……っ、あ、」


言葉にならない。だが、それでいい。

滑らかに開いていたものが、一度でも引っかかれば十分だった。


陽鳥の鼻から血が落ちる。耳の奥で、熱いものがじわりと滲む。

自分にも返ってくる。当然だ。

陽鳥はそれを分かった上で、自分の神経ごと盤面へ乗せている。

園業の目が細くなる。


「そうか」


怒りが混ざり始める。


「お前は、そこまで仕込んでいたのか」


陽鳥は答えない。答える余裕がない。

紺野の目から、あの危険な均一さだけは少しずつ剥がれ始めている。

今はそこだけに集中しなければならない。


「健ちゃん、こっち」


陽鳥がさらに半歩近づく。もう危険だ。

この距離では、いまの紺野が手を伸ばせば、陽鳥の方が先に呑まれるかもしれない。

それでも近づく。近づかなければ、呼び戻せない。


「私を見て。それ以外、今はいらない」


紺野の視線が、ようやく陽鳥へ止まる。

完全ではない。焦点もまだ揺れている。

だが、さっきまでの「何もかもが同じ距離」に比べれば、それだけで奇跡のような前進だった。


147-3


園業は、そこで初めて本気で怒った。


「ふざけるな」


低い。だが、その一語の方が怒号よりよほど重い。

熱が冷えない。冷えないまま、今度は喜びではなく剥き出しの苛立ちへ変わる。


「やっと見えたんだぞ」


園業が言う。


「代わりとしてでも、ようやく噛む価値のある底が出た。それを、ここで閉じるのか」


陽鳥は紺野の前から一歩も退かない。


「閉じる。閉じるに決まってるでしょ」

「黙れ」


園業の声が落ちる。


「お前に決める権利は無い」

「ある」


陽鳥は言った。


「私が止めるって決めて、ここまで来たんだから」


その返答の直後、虫が飛んだ。

最初の群れ。数では脅威だ。

だが園業の前では、ただ触れた端から形を保てず潰れる。

生半可な神術師なら、それで十分に死ぬ。だが北方守護にとっては、踏み込みの前に払う埃に近い。


陽鳥は知っている。最初から知っている。

だからそれは牽制ですらない。

“即処理される”こと自体が次の手順の一部だ。


「次」


小さく呟く。親機が、別の命令を吐く。

今度は、植え付けていた虫が自爆する。


園業の身体そのものではない。細路地の壁。仮設柵。足元の舗装。

ほんの少しでも園業の感覚に接していた子機が、一斉に白い雑音へ変わる。

傷にはならない。ならなくていい。

神経へ微細なノイズを噛ませ、あの一歩の気持ちよさだけを殺せれば十分だ。


園業の肩が、ほんの僅かに止まる。

一瞬だけ。

その一瞬で、陽鳥は最後の札を切る。


百足むかで


数千万単位の圧縮された虫群が、細路地の空気そのものを押し裂くように一本の巨大な体躯を形作る。

機械のような、それでいて生物らしさを残したまま、しかし生物の域を明らかに越えた密度。

節ごとに不気味な光沢を帯び、ただ前へ伸びるためだけに存在する一本の悪意。


「──行け」


陽鳥が言った。


百足が園業へ叩き込まれる。

直撃。当たれば有効打は避けられない。

それを、陽鳥自身が誰よりよく知っている。


園業が初めて、半歩だけ引いた。

引いた、というより押し戻された。

細路地の路面が抉れ、庁舎壁面へ重い振動が走る。

百足の先端が砕け、節が散り、虫の残骸が黒い雨のようにに落ちる。

それでも十分だった。


歓喜に満ちて前へ出ていた園業の歩幅だけは、確かに壊れた。

そして、その壊れ方が園業には何より許せなかった。


「……お前」


低い。低いのに、細路地全体が震える。


「俺から奪ったな」


陽鳥は息を吐く。返事をしない。

返したところで、もうその怒りの行き先は決まっている。

紺野の目から、さっきまでの危険な均一さが少しずつ剥がれていく。

戻ったわけではない。戻ったと呼べるほど甘くはない。

ただ、「全部を寄せればそれでいい」という最悪の滑りだけは、辛うじて止まった。

それで十分だ。陽鳥にとっては。

園業にとっては、最悪だった。


147-4


紺野が崩れる。


今度は敗北の膝ではない。止められた反動だ。

右手が地面へ着く。呼吸が乱れる。

肩も肋もまだ痛い。それに加えて、今は頭の奥まで白い。

陽鳥が差し込んだ拒絶の雑音が、危険な底を閉じる代わりに、意識そのものへ爪を立てている。


「健ちゃん」


陽鳥が肩を抱く。優しくではない。落とさないための腕だ。

紺野は、そこでようやく陽鳥を見た。

見た、と思える程度には焦点が戻っている。

だが、その目にあるのは安堵ではない。

激しい疲労と、意味の分からない喪失感だった。


「……何、した」


掠れた声。


それだけで、陽鳥は少しだけ息を吐いた。

喋れる。まだ人間の言葉の距離にいる。それなら間に合う。


「止めたの」


陽鳥が言う。


「本当に最後の所で」


紺野は返さない。

返す力がもう無いのか、それとも返したくないのか、そこまでは陽鳥にも読めない。


園業が、ゆっくりと立ち直る。

百足の残骸を払い、崩れた肩口を押さえもしない。

押さえる必要がないのだ。

今の傷より、奪われたものの方がずっと重い。


「そうか」


その声から、歓喜は完全に消えていた。

残っているのは怒りだけだ。


「そこまでして閉じるか。やっと見えたものを、俺の前で」


陽鳥は紺野を庇うように立つ。

もう観測者ではない。

止める者として、自分が嫌われることまで含めて前に立っている。


「見せる気ないから」

「───」


園業の怒りが、そこでとうとう溢れた。

細路地の空気が重くなる。圧ではない。もっと生々しい。

ここから先は、自分が欲しかったものを奪われた側の、純粋な苛立ちがそのまま出力へ変わると分かる重さだった。


陽鳥の頬を、風でもない何かが撫でる。

嫌な予感では足りない。確信に近いものが、背骨へ冷たく走る。

これで終わりではない。終わるはずがない。


園業はここで止まらない。

奪われた歓喜の代わりに、今度はもっと大きなものを引きずり出す。


「──なら、全部見ろ」


園業の口から異形の声が漏れた。

それだけで、どうしようもない何かが起こってしまうのだと分かってしまう。


まだ東都は変わっていない。終わっていない。

だが次の瞬間、その「変わっていない」方が先に壊れる。


陽鳥にはもう、それが分かっていた。

紺野を止めた。


その代わりに、北方守護の怒りはもう一段、上へ行く。

ここから先は、この狭い視野だけで済む話ではない。


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