百四十六話 本質
百四十六話
146-1 本質
細路地の空気が、先におかしくなった。
風が止むとか、圧で重くなるとか、そういう分かりやすい異常ではない。
もっと気持ちが悪い。
壁と壁の間にあるはずの「距離」だけが、急に意味を失う。
庁舎群南西の細い喉は、ついさっきまで園業律心斎と紺野健太郎が踏み合うには都合の良すぎる幅だった。
今は違う。
近いのではない。
何もかもが、自分から寄ってくる。
紺野は自分が立ち上がった感触を、半分しか持てていなかった。
膝を伸ばした。
足を地面へ立てた。
そのはずなのに、本当に前へ出たのが自分の脚なのか、それとも地面の方が自分を受け入れに来たのか、その境目が曖昧になる。
右肩の痛みはまだある。
肋も重い。
呼吸も浅い。
それでも、それら全部が「だから動けない理由」にならない。
ならないどころか、痛みも呼吸も重さも、もう“自分の外側にあるもの”として薄れ始めている。
陽鳥が、その変化だけは正確に見ていた。
「……越えた」
小さく言う。
観測の言葉ではない。
認めたくなかった境界を、いま目の前の男が踏み越えた時の声だ。
園業は一歩も退かない。
退かないまま、その目だけがはっきりと見開かれる。
歓喜。
そう呼ぶしかない色だった。
「それだ」
低く、しかし初めて本気で熱を持った声。
「ようやく出たか」
紺野は答えない。
答えられない。
言葉が遅い。
遅いというより、もう要らない。
目の前にあるものへ、いちいち名前を付ける必要が消え始めている。
園業が前へ出る。
いつも通り、肩を少しだけ落とし、最短で届く捕食者の形へ寄せた一歩。
その一歩が、途中で鈍る。
止められたのではない。
喰われた、という方が近い。
足の置き場。
重心の移り。
次の前進へ繋がるはずだった連続。
その全部が、紺野の前にあるだけで急に“拒めなくなる”。
陽鳥の背中に冷たい汗が走る。
見えてはいけないものが、あまりにはっきり見えていた。
146-2
紺野が右手を上げる。
殴るためではない。
前に伸びた、というより、目の前の園業の肩口が自分からその手の届く場所へ来た。
そう見える。
いや、そうとしか言えない。
触れた瞬間、園業の肩が落ちる。
落ちる、というより、「そこに肩として留まってよい理由」が一瞬だけ消える。
圧縮された巨躯の右半身が、綺麗な捕食者の形を失い、何か別のものへ崩れかける。
園業は、そこで初めて笑った。
笑う。
本当に楽しそうに。
細路地の中で、殴られ、削られ、形を崩されている側が、子供みたいに目を輝かせて笑う。
「そうだ、そうだ、それだ!」
熱が上がり切っている。
「俺が見たかったのは、それだ!」
紺野は次の一歩を出す。
もう狙ってはいない。
狙う前に、園業の身体の方が「そこにあれば次へ繋がる」という形を拒まれ、勝手に弱い位置へ寄せられていく。
胸郭。肋。首の付け根。肩。
触れるたびに、そこにあったはずの輪郭が痩せる。
壊れているように見える。
だが、ただ壊れているのではない。
その部位が、敵としてそこに留まることを許されなくなる。
それがいちばん悪い。
園業の腕が伸びる。
伸びた瞬間に、その軌道が途中で薄くなる。
喰われる。
また一段、園業の身体の方が紺野の周囲へ寄せられる。
細路地の壁が鳴る。
仮設柵の金具が勝手に軋む。
案内板の文字が、一部だけ剥がれるでもなく意味を失う。
何かが壊れている。
だがそれ以上に、「外側にある」という前提そのものが崩れている。
陽鳥は、その現象を見ながら喉の奥で息を殺す。
駄目だ。
ここから先は、戦いではない。
勝ち筋ですらない。
ただ危険なだけの何かだ。
それでも園業だけが歓喜している。
「来い!」
園業が言う。
「もっと見せろ!お前が代わりで終わらないなら、それでいい!」
その声音に、怒りはもう残っていない。
あるのは純粋な高揚だけだった。
荒臣がまだ来ない。だから代わりを噛んだ。
その代用品の中から、思った以上の怪物が顔を出す。
それで十分に報酬になる。
園業はそういう男だ。
146-3
園業が、初めて後ろへ滑った。
一歩ではない。
滑る。
自分から退いたのでも、吹き飛ばされたのでもない。
細路地の地面が、園業を「そこへ置いておく」ことを拒んだみたいに、圧縮された巨躯が南西の壁沿いへ流される。
その異常だけで、遠くの空気が変わる。
南棟外周。
東口前。
東外縁。
そこにいた兵も、市民も、駅務も、誰も何が起きたか分からない。
ただ、南西の細路地だけは見てはいけないものになったと、本能の方が知る。
紺野が前へ出る。
今度ははっきりと、追う。
拳を振るのではない。
手を伸ばす。
それだけで園業の左腕が痩せ、そのまま遅れて細路地の路面へ膝を落とす。
膝をつくまではいかない。
だが、膝をついてもおかしくないほど形を崩す。
園業の胸から、笑いが漏れる。
「いい……!」
その声音が、陽鳥には最悪だった。
「それでこそだ……!それでこそ、噛みに来た甲斐がある!」
園業は押されている。
誰が見てもそうだった。
さっきまで圧倒していた北方守護が、いまは紺野の前進へ押され、形を崩し、次の一手を食い散らかされている。
守護の格で見ても、あり得ないほど一方的に見える数秒だった。
紺野自身は、その意味を理解していない。
理解していないというより、理解という行為そのものが少しずつ遅れている。
目の前にある。
それが寄る。
だから触れる。
触れれば拒めなくなる。
いま彼の内側にあるのは、その程度の単純さだけだ。
「駄目」
陽鳥が言う。
今度は強い。
叫びではない。
命令でもない。
止める者の声だった。
紺野の肩が、そこで一度だけ揺れる。
反応したのか、揺れただけか、その区別ももう危うい。
園業がなおも笑う。
「止めるな女!」
初めてその名を呼んだ。
「ここで止めるな!ようやく出てきたんだぞ!」
その歓喜が、陽鳥には吐き気を催すほどよく分かる。
園業は本気で喜んでいる。
東都を取ったことでも、凛藤を落としたことでもない。
いま目の前で紺野の中から顔を出した、この危険な何かを見て喜んでいる。
だからこそ、絶対に止めなければならなかった。
146-4
陽鳥はそこで、ようやく観測を捨てた。
端末を足元へ落とす。
金属が細路地の路面を打つ。
その音がやけに大きく響く。
いまここでは、それが最後の「普通の物音」みたいに思えた。
「健ちゃん」
一歩、前へ出る。
紺野は園業へ手を伸ばしたまま、わずかに振り向く。
その目が最悪だった。
焦点が合っていないのではない。
合いすぎている。
目の前のものも、後ろのものも、壁も、空気も、全部が同じ距離へ見えてしまう時の目だった。
陽鳥の背中に寒気が走る。
これがもっと深くなれば、園業だけで終わらない。
細路地も。
御親領衛も。
東都も。
全部が巻き込まれる。
「止まって」
陽鳥は言う。
「今ならまだ戻れるから」
嘘だ。
完全には戻れない。
だが、止まるだけなら出来るかもしれない。
それに賭けるしかない。
園業が一歩、前へ出ようとする。
まだ押されている。
それでも近づく。
近づいて、もっと見たいのだ。
紺野の中から出てきたものが、どこまで自分を圧倒できるか。
北方守護にとって、それ以上の歓喜は無い。
「どけ」
園業が言う。
「今ここで止めるな。そこで止めたら、お前は一生後悔するぞ」
「するわけないでしょ」
陽鳥の声は冷たかった。
怒っているのではない。
もう覚悟の温度に落ちているだけだ。
「これ以上行ったら、あの子が終わる」
その言い方だけで、園業の歓喜に初めて別の色が混ざる。
苛立ちだ。
ようやく見たかったものが、ここで奪われる。
その可能性が見えた瞬間の色だ。
紺野の右手が、もう一度だけ園業へ伸びる。
園業の肩がまた沈む。
細路地の壁が、そこに壁として立っている理由を失いかける。
そして陽鳥は、その中へ自分から踏み込んだ。
止める。
何を壊してでも。
何を嫌われても。
次の瞬間に起きることを、陽鳥だけはもう決めていた。
東都が揺れ始めていた。
その全部の下で、紺野健太郎は園業律心斎を圧倒している。
そして、その勝ち方が勝ちではないと知っている者が、ようやく一人だけ前へ出た。




