百四十五話 暴走の兆し
百四十五話
145-1 暴走の兆し
膝をついた時点で、戦いが終わるわけではない。
終わるならまだ楽だ。
負けた瞬間に意識まで綺麗に落ちてくれれば、人はそこで自分の限界を認められる。
だが高位の神術師は違う。
身体が先に敗北を知っても、魂の方だけはそれを受け入れ切れず、もっと危ない形で立ち上がろうとすることがある。
いまの紺野健太郎は、まさにその段にいた。
庁舎群南西の細路地。
仮設柵は半ばから形を失い、壁面は抉れ、案内板の文字の意味だけが抜け落ちたみたいに薄くなっている。
それでも、まだ街だった。
まだ東都の一部だった。
その一部の上で、紺野は膝をついたまま右手を地面へ突き、立とうとしている。
呼吸は浅い。
右肩はもうまともな動きを返してこない。
視界の端は何度も白く瞬き、そのたびに園業律心斎の輪郭だけが妙にはっきり見える。
勝てない。
さっきまでの数手で、それはもう身体が理解していた。
理解しているのに、立つ。
立たなければならないと思っているからではない。
もっと別の、もっと嫌な理由で身体が前へ出ようとしている。
「健ちゃん」
珠洲原陽鳥が呼ぶ。
声は低い。
叱責でも懇願でもない。
観測者の声だ。
だがもう、その観測者の顔の方が崩れかけている。
紺野は返事をしない。
返事の代わりに指先へ力を込める。
地面の感触がある。
割れた舗装。
散った金具。
細い砂利。
その全部が、妙に近い。
近いというより、身体の外側にあるはずのものが、一枚薄い膜を隔てただけの位置まで寄ってきているような感覚だった。
園業は、そこで追撃を急がなかった。
急げば、この段の価値が下がるからだ。
北方守護にとって今欲しいのは勝敗ではない。
目の前の男が本当にどこまで落ちるのか、その底の形だった。
「立つのか」
静かな声。
侮蔑は無い。
むしろ、その逆に近い。
紺野の肩が一度だけ揺れる。
笑ったのではない。
息を吐こうとして失敗しただけだ。
「まだ、だ」
声にならない声で、それでも言う。
弱い。
その弱さを、紺野自身が一番よく知っている。
知っているから、園業の前でこのまま止まるのだけは耐え難い。
遠く離れた細路地の入口の方で、若い兵が小声で言う。
「まだ立つのか……」
その隣で、別の兵が返す。
「声出すな。あれは見てるだけで吸われる」
いい言葉だ、と園業は思った。
吸われる。
まだ正確ではない。
だが、間違ってもいない。
145-2
陽鳥は、紺野の揺れ方が変わった瞬間に気付いた。
痛みで震えているのではない。
怒りで震えているのでもない。
もっと深い。
もっと原始的で、もっと危ない。
人間が「もう駄目だ」と思った後に、それでもなお前へ出る理由が、意志ではなく別の何かへすり替わる時の震えだった。
「健太郎、聞いて」
返事はない。
「今、前に出るのは違う。違うの。分かるでしょ」
それでも返事はない。
ただ、右手が地面を掴む。
掴んだ瞬間、砕けた舗装の縁がほんの少しだけ紺野の指へ寄る。
錯覚かと思った。
だが違う。
砂利が跳ねたのではない。
重力が狂ったのでもない。
そこにあったはずの「離れている」という前提だけが、一瞬だけ痩せた。
陽鳥の喉が冷える。
これまでも紺野の能力は、傍目にはただの捕食に見えた。
壊し、削り、喰う。
そういうものとして扱っていれば、まだ怖さの形が単純で済む。
だが今、地面の方が自分から寄ってきた。
壊されたのではない。
拒めなくなったのだ。
「……やめて」
陽鳥が小さく言う。
観測の言葉ではない。
祈りに近い。
その祈りが、自分で聞いていて嫌になるほど弱い。
紺野がようやく立ち上がる。
完全ではない。
膝がまだ落ちそうになる。
それでも立つ。
そして、立った時の感じがさっきまでと決定的に違った。
威圧ではない。
圧でもない。
もっと静かで、もっと悪い。
細路地に残っていた意味の薄いものから順に、全部が「もう自分の外側にある必要がない」と言われているみたいな空気だった。
仮設柵の金具が鳴る。
壁面の亀裂が一本だけ深くなる。
散った案内板の破片が、転がるでもなく、ほんのわずかに紺野の足元へ寄る。
園業の目が細くなる。
「ほう」
それだけだ。
だが、その一音の方が追撃より重い。
「そこか」
園業は、そこで初めて園業自身の興味を隠さなくなった。
紺野が強いか弱いか。
そんな評価は、もう一段どうでもよくなる。
大事なのは、この男の底に何が埋まっているかだけだ。
「やっと見せる気になったか」
紺野は答えない。
答えられない。
答えるための言葉の方が、もう少しずつ遅れている。
頭の奥で、何かが軋んでいる。
壊したい、ではない。
喰いたい、でもない。
そんな単純な衝動なら、まだ扱えた。
今あるのは、もっと曖昧で、もっとひどい。
目の前にあるものを全部、自分の外側に置いたままにしておく理由が分からなくなる感覚だ。
敵も。
壁も。
空気も。
痛みも。
全部が、自分と別々でいる必要を急に失う。
陽鳥は、その変化の意味を知っていた。
知っているからこそ、ずっと別の言葉で覆ってきた。
破壊。
捕食。
拒絶。
否定。
そういう名前で誤魔化してきた。
だがもう、その誤魔化しの皮が裂け始めている。
「健ちゃん、駄目」
今度ははっきり言う。
「それは駄目」
園業が、そのやり取りを聞いて低く笑った。
「そうか。お前はそれを知っていたのか」
陽鳥は睨み返す。
無駄だと分かっていても、睨まずにいられない。
園業は陽鳥を見ない。
視線は紺野から外れない。
外せない。
145-3
園業律心斎にとって、紺野健太郎は本来の標的ではない。
硯荒臣がまだ出てこない。
だから、ここで噛む価値があるなら噛む。
その程度の代替品。
その認識は崩れていなかった。
崩れていないどころか、だからこそ今の変化は面白かった。
本命ではない。
だが、代わりとして手を出したものの中から、思った以上に危険な底が覗く。
そういう瞬間こそ、戦場の値段は跳ねる。
園業はゆっくりと前へ出る。
追い詰めるためではない。
近くで見たいからだ。
「荒臣がまだ出ない」
園業が静かに言う。
「だから、代わりにお前を噛む。そう考えてここまで来た。それは変わらん」
紺野の肩が揺れる。
怒ったのではない。
その言葉の意味が、今はまだちゃんと刺さっていない。
「だが、それでもいい」
園業は続ける。
「代わりとしてでも、面白い底があるなら十分だ」
陽鳥が一歩前へ出る。
止めるためではない。
紺野と園業のあいだへ、自分の観測をどうにか差し込みたいだけだ。
「それ以上近づくな」
「なぜ」
園業の声は穏やかだった。
「お前も見たいだろう。どこまで行くのか」
「見たくないから止めてるの」
珍しく、陽鳥の声が冷えていた。
怒りではない。
恐怖を薄く削った後に残る、硬い芯だけの声だった。
園業はそこでようやく少しだけ笑う。
声ではなく、顔の骨格の動きだけで分かる笑いだ。
「なら、なおさら良い」
その会話のあいだにも、細路地の空気は少しずつ変わっていく。
壁面のひびが、ただの破損ではなく、そこにあった「外壁」としての意味を失い始める。
仮設柵は立っているのに、人を区切る道具としての顔だけが薄れていく。
紺野の周囲だけ、物が物のままでいる理由を忘れ始めていた。
東雲の声が無線へ入る。
『東外縁から。何かがおかしい。向こうの兵も、細路地の方を見る目が変わった』
真名も続ける。
『東口前、群衆の頭がまた止まる。でも、こっちの遅滞の成果じゃない。あれ、紺野少尉の側から何か寄ってる』
宗一は短く吐いた。
『護国少尉より。珠洲原十二席、判断を』
陽鳥は返事をしない。
出来ない。
判断の段がもう終わりかけているからだ。
145-4
紺野が一歩、前へ出た。
足が出たというより、周囲の方がその一歩を拒めなかった。
細路地の地面が沈む。
沈む、というより「そこに立たれる」ことを先に受け入れてしまう。
園業の腕が来る。
紺野は避けない。
避けるより先に、園業の腕の輪郭そのものが不気味に痩せ、次の軌道が途中で鈍る。
初めて、園業の眉がわずかに上がった。
「……そうか」
感嘆ではない。
納得だ。
これだ、と言いたい時の納得だった。
紺野の右手が伸びる。
肩口へ。胸へ。肋へ。
だが、それはもう狙って触れているというより、周囲の形がそちらへ寄るから手がそこにあるように見える、という方が近い。
壊しているように見える。
実際、そうとしか見えない。
だが、園業は違うものを見ていた。
壊して終わらない。
喰って終わらない。
触れたものが、ただ消えるのではなく「拒めなくなる」方向へ寄っている。
園業の口元が、はっきりと動く。
「やっとだ」
その声には、これまでの失望も苛立ちも混ざっていない。
残っているのは歓喜だけだった。
「ようやく見えた」
陽鳥の背中に冷たい汗が一筋落ちる。
もう“まずい”では足りない。
ここで開き切れば、紺野は園業に勝つかもしれない。
勝つかもしれないが、その勝ち方は終わりだ。
その先に残るものが、もう人間の勝敗では済まない。
「健ちゃん!」
何度でも叫ぶ。
今度は観測でも警告でもない。
呼び戻すための声だ。
紺野の肩がびくりと震える。
反応したのか、ただ揺れただけか、その区別ももう付かない。
園業が一歩、さらに前へ出る。
逃げない。
むしろ近づく。
見たかったものがようやく顔を出した以上、北方守護にとってここで下がる理由は一つも無い。
「それでいい」
園業が低く言う。
「代わりとしてでも、十分に価値がある」
その一言で、陽鳥の中の何かが切れた。
ここから先は観測ではない。
制止だ。
どれだけ嫌われても、どれだけ戦局を壊しても、ここで止めなければいけない。
園業を止めるのではない。
紺野を止める。
細路地の上では、昼の光がまだ高い。
遠くでは市民の足音も、車の振動も続いている。
その全部の下で、紺野健太郎の底が、とうとう本当に開き始めた。
園業律心斎はそれを見て歓喜している。
陽鳥はそれを見て、止める以外の選択肢を失った。
そして紺野自身だけが、もうどこまで自分が崩れ始めているのかを知らないままだった。




