百四十三話 期待外れ
百四十三話
143-1 期待外れ
最初の数手だけを切り取れば、紺野健太郎は確かに園業律心斎へ通じていた。
右肩へ入る。
肋へ触れる。
半拍だけ形を崩す。
御親領衛の連携もまだ生きていて、東口前の群衆の頭が止まり、東外縁の補給列が一台迷い、南棟外周の車列が一度だけ美しい速度を失う。
そこだけ見れば、戦いになっている。
少なくとも、そう見えた。
園業は、その「そう見える」段に、四手ほど付き合った。
怒っていたわけではない。
楽しんでいたわけでもない。
ただ、値段を測っていた。
紺野の右手がどれほど深く触れれば、自分の形がどれほど崩れるのか。
その崩れが、本人の強さなのか。
それとも、後ろで糸を引く部隊の連携なのか。
答えはすぐ出た。
肩が開く前に綾瀬の線がある。
踏み込みの濁りには志摩の減衰が混ざる。
半拍先は陽鳥が渡してくる。
群衆と車列の乱れは真名と東雲と宗一が噛ませている。
紺野の一撃は、その全部が綺麗に噛み合った時だけ深く届く。
個として弱い、という話ではない。
だが、園業が見たかったのはそこではなかった。
「違うな」
園業が初めてはっきり言った。
紺野は返さない。
返す前に前へ出る。
今度は部隊の支えに半歩だけ頼らず、自分で深く入りに行く。
その意地自体は悪くない。
悪くないが、園業の目つきだけがそこで急に冷えた。
「違う」
もう一度、園業が言う。
今度は確認ではない。
切り捨てる時の声だった。
次の瞬間、園業の右腕が伸びる。
速いのではない。
速く“見えた”その軌道ごと途中で喰われ、まるで別の場所から生えてきたみたいに紺野の胸元へ入る。
紺野は辛うじて左腕で流す。
流すが、壁が鳴る。
細路地の石材が鈍く軋み、紺野の背骨へその振動がそのまま通る。
陽鳥が即座に言う。
「健ちゃん、離れて」
「まだだ」
短い返答。
だが、その声の奥にもう焦りが混じっているのを、陽鳥は聞き逃さない。
園業は追わない。
追わずに、立つ。
その立ち方だけで、紺野の背中に冷たいものが走る。
通じていたように見えたものは、最初から全部、相手に測られていただけだった。
143-2
園業は、そこで初めて怒った。
怒号ではない。
声も大きくならない。
だが、圧縮された巨躯の内側で何かの温度だけが一段上がる。
それが分かった瞬間、陽鳥の観測は半拍遅れた。
見えなくなったのではない。
園業の方が、観測される前提ごと噛み始めたのだ。
「俺が見たかったのは、そんなものじゃない」
一人称が荒く変わる。
その瞬間だけで十分だった。
園業の目はもう東都を見ていない。
御親領衛すら見ていない。
紺野一人だけを見ている。
そしてその目に浮かんでいるのは、失望だった。
「期待していた。守社厳志郎のように、立つだけで周りの理屈を全部黙らせる強さだ。俺はお前に、その片鱗があると思った」
紺野の歯が軋む。
知らない話ではない。
いや、知っているという言い方も違う。
あの名が出るだけで、戦場の温度が変わることを身体が知っている。
守社厳志郎。
あまりに強すぎて、名前そのものが一つの災害のように働く男。
園業が自分に見たのは、その片鱗だったという。
「なのに何だ」
園業が言う。
「女の観測。隊の細工。場の濁り。それを揃えて、ようやく触れる程度か」
陽鳥が口を開く。
「黙れ」
だが園業はそちらを見ない。
見ないまま続ける。
「お前一人で立った時、戦場の方が黙る強さを見たかった。俺が噛みに来る価値のある強さを見たかった。それがこれか」
その一語ごとに、紺野の腹の奥が冷たくなる。
侮辱だからではない。
図星だからだ。
いまの自分は、確かに御親領衛の連携の上で前へ出ている。
宗一が幅を残し、東雲が門を濁らせ、真名が群衆を割り、志摩と綾瀬と樋道が一拍を買い、陽鳥が半拍先を渡す。
その全部があって、ようやくここまで届いている。
それは弱さではない。
部隊戦としては正しい。
だが、園業が期待したのは部隊の中心ではなく、「個として立った瞬間に周りの理屈を塗り潰す強さ」だった。
その差が、怒りを買った。
「失望させるなよ」
園業が低く言った。
その声音だけで、陽鳥の喉が一度だけ固まる。
まずい、と理屈より直感の方が理解した。
ここから先は、もう値踏みではない。潰しに来る。
143-3
園業が前へ出る。
今度はもう、細路地の都合に合わせた歩幅ですらない。
合わせた上で、その都合を全部後から踏み潰す歩き方だった。
陽鳥が反射で言う。
「左、いや上、違う——」
観測が割れる。
それ自体が終わりに近い。
園業はもう「次の一手」を読ませてから、その読み筋ごと喰っている。
肩の落ち方。
腕の伸び。
足の置き場。
その全部が途中で意味を変える。
だから、半拍先を渡す陽鳥の仕事が、その半拍の途中で破れる。
紺野はそれでも前へ出た。
出るしかない。
下がれば、その一歩の分だけ細路地が死ぬ。
右手を差し込む。
園業の胸郭へ。
深く。
深く入る前に、腕を取られる。
握られたわけではない。
もっと嫌だ。
園業の左腕が紺野の右腕の「そこへ伸びてよい理由」だけを奪う。
筋肉でも骨でもない。
動きそのものが、途中で意味を失う。
次の瞬間、園業の膝が入る。
肋骨。
息。
視界。
全部が一度に裏返る。
「っ――」
声が出る前に、二撃目。
今度は肩口。
三撃目で首の横。
四撃目はもう見えない。
見えないが、細路地の壁が砕ける。
紺野の身体が横へ飛び、仮設柵を二枚巻き込み、庁舎壁面へ叩きつけられる。
陽鳥の端末が床へ落ちた。
この女が手から物を落とす時は、大体終わりが近い。
「健ちゃん!」
叫ぶ。
だが遅い。
園業はもう次の前進に入っている。
圧倒的な敗北というのは、相手を吹き飛ばした時に来るのではない。
その前に、相手の“次の手”が一つも残っていないと分かった時点で、もう終わっている。
紺野は立とうとする。
右肩が鈍い。
呼吸が切れる。
視界の左端が暗い。
それでも足を前へ出そうとする。
出す。
だがその一歩が、もう攻めの一歩ではない。
立ち直るための一歩に落ちる。
園業はそこへ容赦なく入る。
肘。前腕。胸。
どれも重い。
重いが、それより嫌なのは正確さだった。
殺すためではない。
紺野の身体から、「まだ戦える」と思える部分だけを順番に潰してくる。
一つ目で肩。
二つ目で呼吸。
三つ目で重心。
四つ目で視界。
それぞれが致命傷ではない。
だからこそ逃げ場が無い。
「弱いな」
園業が言った。
怒鳴らない。
それなのに、その一語の方が殴打より深く入る。
「お前は弱い。違うな。強くなり切れていない。それでいて、自分が何を持っているかもまだ知らない。そんな半端で俺の前へ立つな」
最後の一撃で、紺野の膝がついた。
派手ではない。
だが、その膝の落ち方だけで十分だった。
細路地の空気が、もう紺野を「まだ戦っているもの」として扱わなくなる。
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陽鳥が前へ出る。
考えたのではない。
身体の方が先に動いた。
紺野を庇うためではない。
今このまま園業へもう一手与えれば、紺野の身体ではなく中身の方が壊れると分かったからだ。
「そこで止まれ」
園業が言う。
今度は陽鳥を見る。
その視線だけで、陽鳥の背骨へ嫌な汗が走る。
だが止まらない。
止まれば、その後は本当に何も残らない。
紺野は膝をついたまま、まだ立とうとしていた。
右手が地面を掴む。
指先に力が入る。呼吸はもう浅い。
それでも、内側のもっと危ないものだけが逆に濃くなっていく。
壊したい。
違う。
喰いたい。
もっと違う。
分からない。
だが、何かが内側からせり上がってくる。
それが自分の感情なのか、能力の底なのか、その区別すらもう曖昧だ。
陽鳥は、その変化だけは見逃さなかった。
「……まずい」
小さく言う。
誰に聞かせるでもない。
だが、それで十分だった。
園業の怒りはもう冷え始めている。
怒りは期待の裏返しだ。
期待が死ねば、後に残るのは処分の手つきになる。
「立てないなら、ここで終いだ」
園業が静かに言う。
「期待外れだが、それでも処理は出来る」
その言い方が、陽鳥には何より耐え難かった。
怒ってくれている方がまだ良い。
失望され、片付ける物みたいに言われる方が遥かに悪い。
無線の向こうでは、誰ももう口を挟まない。
宗一も。
東雲も。
真名も。
志摩も綾瀬も樋道も。
全員が、自分の持ち場を維持するだけで限界だと知っている。
ここへ横槍を入れれば、その瞬間に別のどこかが死ぬ。
総力戦とは、全員が同じ場所に集まることではない。
全員がそれぞれの場所で死にかけながら、それでも一人の敗北を見届けるしかない状況のことだ。
陽鳥は落とした端末を拾わなかった。
両手を空ける。
視線を紺野と園業の間へ固定する。
その顔から、普段の軽さが全部消えていた。
「健ちゃん」
返事はない。
膝をついたまま、紺野の肩がわずかに震える。
痛みではない。
もっと危ない揺れだ。
陽鳥はそこで、ようやく決めた。
次はもう観測ではない。
止める。
何を代償にしてでも、止める。
細路地の上では、昼の光がまだ高い。
市民の足音も、遠くの車の振動も、東都そのものはまだ何事もない顔をしている。
その下で、紺野健太郎は圧倒的に敗北した。
しかも最悪なのは、その敗北がただの敗北で終わりそうにないことだった。




