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幻想帝都 神州御親領衛記  作者: ニュートリノ鈴木
三章 東都が夜に落ちる日
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百四十一話 影から出る


百四十一話


141-1 影から出る



庁舎群南西の影は、立つ人間を一度だけ平等に見せる。


高位の神術師も、近衛の兵も、駅務も、市民も、そこへ入れば皆ただの輪郭になる。輪郭になったものが一歩外へ出た瞬間にだけ、元の値段を思い出させる。東都が落ちた後の今、その影から前へ出るというのは、つまり「ここから先はもう誤魔化さない」と街へ言うのと同じことだった。


紺野健太郎は、その影の中で一度だけ右手を握ったる。呼吸を揃えるための癖だ。怒りはその中に混ざっている。だが今の彼に必要なのは熱ではなく、熱を前へ運ぶ幅だった。


陽鳥が端末を抱えたまま横に立つ。喉はもう痛まない顔をしている。痛まないのではない。痛みを仕事の外へ出さないだけだ。


「健ちゃん」

「何だ」

「出た瞬間に、東都の戦場が変わる」

「知ってる」

「向こうはそれ待ってる」

「だから出るんだろ」


陽鳥はそこで何も返さなかった。返せば軽くなると知っている顔だった。

無線の向こうで、宗一の声が落ちる。


『護国少尉より各員。紺野少尉前進。南棟外周、遅滞線を一段薄くする。東口、東外縁、各自持ち場を離れるな。こちらから会いに行くな。向こうに来させろ』


東雲が短く応じる。


『東外縁了解。受け入れ線は“まだ整理中”の顔を残す』


真名も続ける。


『東口了解。群衆は持つ。でも、次の波が来る前に終わらせて』


志摩が鼻を鳴らす。


『さっさと派手にやれ、とは言わねぇ。でも、待たせるなよ紺野少尉』


綾瀬は静かだった。


『護国綾瀬。規格線の監視継続。前線へは出ません』


樋道がぼやく。


『ボクは路面の嫌がらせ続けるから。その代わり、変なとこ壊さないでね』


短い。

だが、その短さがいまの御親領衛には必要だった。長く喋れば、そのぶん誰かの持ち場が薄くなる。

紺野は影から出る。

その一歩で、歩道の端に立っていた市民の声が止まる。


「近衛?」

「さっきまでいなかったよね」

「見ない方がいいって」


見ない方がいい。

その一言が、この街の空気をよく表していた。誰ももう、正しいことを言わない。言えない。自分の目で見たものへ名前を付けると、その瞬間に責任が生まれるからだ。


紺野は群衆を見ない。

見ないまま、庁舎群南西の細い連絡帯へ足を入れる。向こうが御親領衛を「掌握済みの街に残った異物」として潰しに来るなら、その入口でこちらから値段を変えるしかない。


彼が前へ出る。

それだけで、今まで各持ち場に薄く分散していた御親領衛の意味が、一度だけ一点へ集まる。

東都を守る戦いではない。

御親領衛がなお部隊として噛み合っていると示すための戦いだ。


141-2


最初の仕事は、敵を殴ることではなかった。

道を作ることだった。


庁舎群南西の連絡帯は、東口前から押し出された人流と、庁舎管理札の車列と、南棟外周から逃げた補給の一部が一時的に噛み合う喉になっている。太い道ではない。太くないから、詰まれば全体が死ぬ。だが向こうもそれを分かっているから、あえて完全閉塞にはしていない。詰まり過ぎれば事故になる。事故になれば掌握の顔が汚れる。だから、「まだ動いているが、御親領衛だけは気持ちよく動けない」幅を残していた。


そこへ紺野が入る。

前方に、管理札付きの小型車両が二台。

脇に仮設柵。

警備列が四。

その後ろに、何が起きているか分からないまま立ち尽くした市民が十数人。

宗一の声が飛ぶ。


『紺野少尉、東へ二十。車列は壊すな。警備列の“立っていていい理由”だけを消せ』


言われるまでもない。

紺野は足を止めず、そのまま警備列の手前へ入った。


「下がれ」


低い声だった。

怒鳴りではない。

だが、その一語だけで前にいた兵の肩が揺れる。高位神術師の圧、という安い言い方では済まない。あまりに剥き出しの「前へ出る者の都合」が、その声にはあった。


兵の一人が言い返す。


「近衛少尉、ここは第二首都庁舎群の——」


最後まで言わせない。

紺野の右手が僅かに開き、仮設柵の根元に触れるか触れないかの位置で止まる。次の瞬間、柵そのものは倒れないまま、柵が「ここに立っていて人を誘導してよい理由」だけが剥がれ落ちたように、列の前提がずれる。兵の足元の舗装が不気味に痩せ、そこに立っていることだけが急に嫌になる。人を斬ったのではない。だが、立つ理由を喰われた兵は、一歩だけ自分から退く。


陽鳥が横から短く言う。


「左、もう一人」


虫を飛ばすでもなく、細い観測だけで拾う。

紺野はその指示へ体ごと寄せ、左端の警備列の前へ出る。


今度は手すら使わない。目の前の兵が自分の銃口と紺野の肩の高さを見比べた、その一瞬の迷いに紺野がそのまま踏み込む。ぶつかったのではない。だが兵の側はぶつかられたみたいに後ろへ下がり、そのぶん車列の鼻先が庁舎群側ではなく東へ逃げる。


「こっち寄せろ!」

「待て、誰の指示だ」

「いいから開けろ、詰まる!」


現場の声がやっと荒れる。

荒れた、それだけで十分だった。

綺麗に掌握された導線は、綺麗に動いている声を必要とする。現場の命令が一つ割れた瞬間、その綺麗さだけは死ぬ。

東雲が無線越しに低く言った。


『受け入れ線、連動確認。補給列の角度がずれた。南西の喉、まだこちらが触れる』


真名も続く。


『東口前の先頭が戻る。群衆の頭が、“向こうだけが正しい”顔をやめた』


これが実働隊長だと、紺野は思わない。

思わないが、御親領衛が今この街でまだ部隊として噛み合っているのは、こうして一点へ自分を差し込める人間がいるからだ。宗一が線を保ち、東雲が門を濁らせ、真名が群衆事故を遅らせ、志摩と綾瀬と樋道が条件を汚し、陽鳥がその全部へ薄い観測を通す。その中心で、最後に「だったらここを喰い破る」と言える者が一人いる。


それが今の紺野だった。


141-3


園業律心斎は、その一連の動きを広場から見ていた。


東都掌握の全体像を見る目ではない。

南西の一点へ、紺野健太郎へ、御親領衛の連携そのものへ向けた目だ。そこに浮かんでいるのは怒りでも侮蔑でもない。興味だった。値踏みと言ってもいい。


「遅いな」


園業が呟く。

副官が一瞬、声を失う。

何が遅いのか、分からないからだ。

園業は視線を外さず続けた。


「もっと早く前へ出る男かと思った。思ったより、部隊の呼吸を見ている」


副官が慎重に言う。


「近衛、紺野健太郎ですか」

「他に誰がいる」


冷たい返答。

だが、副官の失言を責めたわけではない。ただ、本当に他に眼中の人物がいないだけだった。


園業は南西の細路地を見る。

仮設柵の意味を剥がし、警備列の立つ理由を食い、車列の鼻先を僅かにずらし、その一拍で東口と受け入れ線まで繋げた。大きな破壊ではない。派手でもない。だが、こういう壊し方を選べる時点で面倒だ。街の中で、街を完全に壊さず、それでも秩序へ噛みつく。高位神術師としてはむしろ厄介な類だった。


「珠洲原陽鳥」


園業が次にその名を出した。

副官はまた一瞬だけ黙る。


「はい」

「止めているな」


園業は言う。


「前へ出すだけの男なら、もっと安かった。だがあれは、前へ出す値段と出さない値段を測らせている」


副官が低く返した。


「御親領衛全体としての連携も——」

「部隊の話ではない」


園業が切る。


「中心だ。あれがまだ“今はここまで”を飲めるなら潰す価値がある」


それは褒め言葉ではなかった。

北方守護にとって価値があるとは、噛みに行く理由が十分にあるという意味だ。

園業は一歩、広場の端へ出る。

それだけで周囲の兵が呼吸を止める。


まだ何もしていない。

だが、この男が自分の足で前へ出るということは、もう東都掌握の確認ではなく、個別の処理に移るということだ。


「東都はもうよい」


園業が言う。

静かだった。

その静けさの方が、周囲には重かった。


「街は逃げん。だが、面倒なものは脚がある。脚があるうちに噛む」


その一文で十分だった。

副官も、周囲の兵も、今この瞬間に主目標が切り替わったと理解した。

第二首都掌握は維持段階へ入る。

以後の本命は、なお綺麗に片付かない御親領衛。

さらに言えば、その中心に立ち始めた紺野健太郎だ。


141-4


宗一が最初に気付いたのは、向こうの兵が広場を見るのをやめたことだった。


南棟外周の若い中尉が、庁舎前ではなく南西の細路地へ視線を向ける。

東外縁の警備列も、駅前の誘導兵も、どこか一点だけを気にし始める。

部隊全体の空気が「街を処理する兵」から「次に狩る相手を探す兵」へ変わる時、必ずこういう沈黙が生まれる。

宗一は無線を取る。


『護国少尉より各員。状況更新。紺野少尉前進に伴い、敵主目標の収束を確認。以後、向こうは東都掌握の維持を部下へ流し、こちらの処理へ重心を寄る』


東雲がすぐ返す。


『東外縁了解。兵の目が変わった。門じゃない。こちらの配置を数え始めてる』


真名も続く。


『東口前も。群衆じゃなくて、私と駅務主任の位置の方を見てる』


志摩が笑う。

乾いた、嫌な笑いだった。


『やっとかよ。街のついでじゃなく、オレらを見始めたわけだ』


綾瀬は静かだった。


『規格線より個体の位置を優先しています。はい。次はこちらです』


その無線を聞きながら、紺野は南西の細路地の真ん中に立った。

すぐ後ろに陽鳥。

右手は開いている。

握っていない。

握れば、多分もう一段前へ行くからだ。


「健ちゃん」

「何だ」

「ここから先は、出た時点で負けても勝っても同じ」


紺野は少しだけ眉を寄せた。


「どういう意味だ」

「戻れないってこと」


陽鳥は言った。


「今までは東都の中に残る異物だった。ここから先は、園業が自分で噛みに来る値段の対象になる」


それで十分だった。

紺野にも分かる。

南西の細路地へ出た瞬間、自分は御親領衛の一隊員ではなくなった。

いや、一隊員のままではある。


だがそれ以上に、北方守護が自分の手で処理する価値のあるものとして、盤面の中心へ押し上げられた。

市民の声が遠くで流れる。


「また軍の人来た」

「見ないで、早く行こう」

「でも、あそこ……」

「いいから」


そのさざめきが、妙に遠い。

距離が離れているからではない。

もう東都全体が、その一点へ耳を澄ませ始めているからだ。


園業律心斎が、広場の向こうからゆっくり歩いてくる。

急がない。

急ぐ必要が無いからだ。

この街はもう十分に取った。

次は人だ。

その歩き方だけで、紺野ははっきり分かった。


「来るぞ」


自分で言って、自分で息を整える。

陽鳥が頷く。

その横顔は、怖れているのに引いていない。

だから最悪だし、だから頼もしい。

無線の向こうで宗一が最後に言った。


『護国少尉より。紺野少尉、ここから先は好きにやれとは言わない。だが、もう止めない』


東雲も短く続ける。


『こっちは線を持つ。そっちは前を持て』


真名も入る。


『東口前、事故は出さない。だから負けるなら派手に負けて。中途半端が一番困る』


志摩が笑う。


『少尉、やっとあんたの番だ』


綾瀬は淡々としていた。


『護国綾瀬。線の監視は続けます。背後は見ます』


陽鳥は何も言わない。

代わりに、紺野の半歩後ろへ立つ。

それで十分だった。

前へ出た時点で、もう戻れない。


東都の戦いはここでようやく、街ではなく人の戦いへ移る。

園業律心斎の足音が近づく。

紺野健太郎は、その音を聞きながら右手をゆっくり開いた。


第二首都の空はまだ高い。

その高い空の下で、ようやく本当の主戦場が二人分の幅に絞られた。


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