百三十六話 掌握した街で
百三十六話
136-1 掌握した街で
東都が落ちた後の方が、街はむしろ整って見えた。
中央駅東口前の列は、あれほど危うかったのに今は妙に静かだ。
庁舎群前の車列も、南棟外周の搬送帯も、東外縁の受け入れ線も、それぞれ詰まりながら、それでも「詰まっているなりの秩序」を持って動いている。
拡声器の声は変わらない。
制服の列も崩れない。
一般市民の顔に浮かぶのは恐怖より先に「今日はそういう日なのだろうか」という種類の疲れだった。
「防災演習って、こういうもんなんですかね」
東口前で学生服の少年が呟く。
隣を歩く女が、紙袋を抱えたまま首を振る。
「分からない。でも、帰れるなら帰った方がいい気がする」
「でも駅、あっち閉まってるって……」
「係の人に聞いて」
その会話自体がもう、向こうの秩序の中にある。
真名は歩廊の上からそのやり取りを聞いた。
嫌な静けさだった。
群衆が壊れていない。壊れていないからこそ、向こうはもう一段先へ進める。
事故も暴発もなく、第二首都を「管理済みの街」として塗り直せる。
それが東都陥落の完成形だ。
だが、完成していない箇所がある。
だから御親領衛はまだここにいる。
宗一が南棟外周で止血線を細く残し、東雲が東外縁の受け入れ線に“まだ整理中”の顔を保ち、真名が駅前へ駅務の判断をわずかでも残す。
志摩が静かな裂け目を鈍らせ、綾瀬が札と規格の流れを汚し、樋道が道の当然さを壊す。
陽鳥がそれを観測し、紺野だけがまだ前へ出切らずにいる。
掌握した街では、本来なら抵抗の残り香は早いほど消した方が良い。
群衆に余計な希望を持たせないためにも、兵に次の迷いを生ませないためにも、その方が安い。
なのに東都では、それが消えていない。
御親領衛がいるからだ。
それは小さな乱れに見える。
駅務の判断が残る。
庁舎前の横幅がわずかにこちら寄りだ。
受け入れ線の一部が、整然と流れ切らない。
小さい。
だが、掌握した側から見れば小さい異物ほど嫌だ。
大きい抵抗は潰せば終わる。小さい乱れは、掌握完了の顔をずっと汚す。
紺野は南西連絡帯の影で、東都のその整い方を見ていた。
落ちた街。
そのはずなのに、まだ少しだけこちらの都合が残っている。
ほんの少しだ。
だが、そのほんの少しが向こうの神経を逆に撫でる。
「見てる」
陽鳥が端末を抱いたまま言った。
「何を」
「街じゃない。私達」
紺野は広場の向こうを見た。
園業律心斎はまだ庁舎群北東の広場にいる。
だが、その目はもう東都の確認をしていない。
東都は十分に傾いた。
いまこの男にとって気になるのは、傾いた街の中でなお綺麗に片付かない箇所だけだ。
そこへ、御親領衛がちょうど残っている。
136-2
園業律心斎は、東都制圧の仕上がりを確認しに来ていなかった。
確認など、部下にさせればいい。
第二首都庁舎群前の警備列。
中央駅東口前の統制。
東外縁受け入れ線の管理。
港湾から上がる補給の順番。
どれも、既に「国家の顔」で回り始めている。
あとは兵を流し、紙を通し、何事もなかったかのように今日一日を終えさせればいい。
それは園業自身が前へ出なくても出来る仕事だ。
副官が傍らで報告する。
「東口前、滞留制御安定。庁舎群前、警備列再編済み。受け入れ線、第一波、第二波ともに概ね流入完了。東都駐屯混成の一部はまだ持ち場に残存——」
「残存ではない」
園業が言った。
低い声だった。
抑揚は無い。
だが、その一言で副官の背筋が伸びる。
「異物だ」
副官は一瞬だけ黙り、それから「失礼しました」とだけ返した。
園業はその訂正に興味を示さない。
見ているのは、東都全体ではない。
異物だけだ。
近衛御親領衛。
軍の中枢から見れば、実験部隊。
人格も身分も年齢も揃わない、扱いづらい寄せ集め。
平時にあえて必要とされる部署ではない。
にもかかわらず、こういう時に限って嫌な形で残る。
駅前には支倉真名。
群衆流を壊さず、だが向こうの秩序にも綺麗には寄せない。
東外縁には東雲丈雲。
完全封鎖でも反撃でもなく、「まだ整理中」の顔だけを残し続ける。
南棟外周には護国宗一。
前線を作らず、前線の代わりになる面倒だけを置く。
その外で志摩龍二が裂け目の速度を鈍らせ、護国綾瀬が規格と札の傷を拾い、樋道芳芙美が道の当然さを削っている。
珠洲原陽鳥はそれを全部見て、まだ紺野健太郎を前へ出し切らない。
園業は、その連携の嫌らしさにようやく口元を動かした。
笑いではない。
評価だ。
「よく出来ている」
副官は返答しない。
返答を求められていないと分かるからだ。
「強いから残っているのではない。雑味が多い。場を汚す手が多い。それでいて、今どこで自分が目立つと安いかを知っている」
園業は庁舎群南西の影を見る。
紺野がいる。
公然と前へ出ていない。
まだ予備楔の位置に留まっている。
それが気に食わない。
いや、気に食わないというより、面白い。
あの男がすぐ飛び出してくるなら、もっと楽だった。
高位の神術師は、正しい怒りほど扱いやすい。
前へ出る。
殴る。
場を壊す。
そこへ責任を被せれば終わる。
紺野は今、それをやらない。
やらないということは、止める者がいる。
珠洲原陽鳥。あの女の匂いだ。
「東都はもう良い」
園業が言った。
副官が顔を上げる。
「では、次段階へ」
「そうだ」
園業は広場の向こうから視線を外さずに続けた。
「街は取った。次は、ここでなお取れていないものを取る」
その言い方で十分だった。
東都制圧は既に既成事実となった。
なら、次に潰すべきものは一つしかない。
御親領衛。
そして、その中心にいる紺野健太郎だ。
136-3
宗一は南棟外周の連絡帯で、その空気の変化を先に感じた。
向こうの兵の歩幅が変わる。
整列は崩れない。
だが、視線だけがこちらへ寄る。
庁舎前を取った。
搬送帯も押さえた。
東都は落ちた。
その上でなお残っている抵抗線は、最初から東都の付属物ではなく、別の獲物だと兵の方が理解し始めたのだ。
「……来るな」
宗一が小さく言う。
隣にいた若い中尉が問う。
「何がです」
「順番だ」
宗一は前を見たまま答えた。
「街を取る順番が終わった。次は、人を取る順番に変わる」
それは戦術の言い換えではない。
戦場の温度の話だった。
いままでは東都掌握の一部として御親領衛が邪魔だった。
これからは違う。
御親領衛そのものが、向こうの進行表に一項目として乗る。
東雲の声が受け入れ線から入る。
『東外縁、兵の目線が変わった。車列の維持じゃない。こっちの配置を数え始めてる』
真名も続ける。
『東口前も。群衆じゃなくて、私たちの立ち位置を見てる』
志摩が低く毒づく。
『ああ、そういうことか。街の方はもう済んだって顔してやがる』
綾瀬の声は静かだった。
『第二首都運用はもう向こうの規格で回っています。
なら次に処理するのは、規格の外に残っている私たちです』
言葉にされると、あまりに嫌なほど明瞭だった。
御親領衛は負けていない。
だが勝ってもいない。
東都掌握は止められなかった。
それでも、向こうに“綺麗に終わった”と言わせない程度には残っている。
だから狙われる。
片付いていないものは、片付けなければ記録が汚れるからだ。
宗一は無線を取った。
『護国少尉より各員。状況更新。向こうの主目的が東都掌握からこちらの処理へ移る。持ち場を動かすな。
目立つ場所に残るな。今から先は“生きてるだけで向こうの書類を汚す”位置を取り続けろ』
真名が短く返した。
『了解。東口前、駅務の判断が残る顔を維持する』
東雲も続く。
『受け入れ線、“まだ整理中”を残す』
志摩は鼻で笑った。
『上等だ。こっちも綺麗には死なねぇよ』
陽鳥だけが、無線ではなく紺野へ直接言った。
「健ちゃん」
「分かってる」
「まだ前じゃない」
「……分かってるって言ってんだろ」
短いやり取りだった。
だが、それで十分だった。
御親領衛は残っている。
残っているから、次に狙われる。
その順番だけが、もう東都全体へ見える形で置かれた。
136-4
園業律心斎が初めて、広場から一歩だけ視線を外した。
第二首都庁舎群北東。
凛藤義貞が膝をついた場所。
そこから少し南西。
庁舎の影。
南棟外周の薄い遅滞線。
東口前の高架歩廊。
東外縁の白帯。
その全部に、御親領衛がまだ残っている。
街を取る段では、彼らは邪魔な副産物だった。
掌握を綺麗に終わらせない小さな汚れ。
だが、街が十分に傾いた今、彼らは副産物ではない。
次の獲物だ。
園業が静かに言う。
「ようやく前を向く」
誰へ向けた言葉でもない。
副官は聞こえた顔をしたが、意味は聞き返さない。
聞く必要が無いからだ。
「東都はもう逃げない。街は重い。重いものは、取った後はしばらくそこにある。だが人は違う。面倒なものほど、足があるうちに噛まないと後で高くつく」
副官が低く返す。
「御親領衛、ですか」
園業はようやく頷いた。
「そうだ。とくに、あれだ」
視線の先。
紺野健太郎。
前へ出ているわけではない。
だからこそ気に食わない。
前へ出て殴るだけの男なら、もう少し安かった。
いまは違う。
自分が前へ出る値段と、出ない値段を測り始めている。
それは面倒だ。
面倒なものは、育つ前に噛むのが一番安い。
園業の周囲で、北の兵たちの空気も変わる。
第二首都掌握の緊張から、次の処理へ移る顔。
列を維持する兵の目ではない。
目標を探す兵の目だ。
紺野はその変化を、距離のあるままでもはっきり感じた。
広場の向こうの空気が、もう東都全体ではなく自分たちへ収束してくる。
あれほど大きかった第二首都が、一瞬だけ狭く見える。
狭くなったのではない。敵の視線が、街から部隊へ、部隊から個人へと絞られただけだ。
「来るぞ」
紺野が低く言う。
陽鳥は頷く。
端末を抱え直し、短く返した。
「うん。今度は街のついでじゃない。私たちを狩りに来る」
第二首都東都は、そこでようやく次の段へ移った。
街を取る戦いは終わった。
ここから始まるのは、掌握した街の中でなお形を保つ異物を、一つずつ潰していく戦いだ。
園業律心斎の次の標的は、もう隠れていない。
御親領衛。
そして、その中心へ置かれた紺野健太郎。
東都の空はまだ高い。
人も歩いている。
車も流れている。
何も変わっていないように見える。
だが、戦場の視線だけは、確かに次を向いていた。




