百二十一話 同時多発の朝
百二十一話
121-1 同時多発の朝
御親領衛本部の朝は、電話の音で始まる日と、紙の音で始まる日がある。今日の始まりは、その両方だった。
執務室の戸を開けた時点で、羽場桐妙子はもう一つだけ理解していた。
これは「一件ずつ捌く朝」ではない。
件数が多いからではない。件数なら昨日の方が多かった。そうではなく、今日の異常は互いに距離を取りながら、同じ刻限に歯を立ててくる。だから厄介なのだ。近いものから順に処理すれば片付く形をしていない。
机の上には、昨夜までの報告束がまだ残っている。
西都湾岸。北都第三鉄道結節。南都第三補給廠。帝都近衛第二師団外縁配置。東都第二首都庁舎群導線再編。
そこへ今朝の分が、もう重なり始めていた。
一通目は帝都北外れ、中央通信局付近。
臨時点検名目で、予備回線の切り替えが前倒し。
二通目は西都港湾、第五岸壁。
災害優先荷の積載順位変更。
三通目は南都沿岸、民間輸送契約の再確認。
四通目は北都、旅客優先適用範囲の再解釈。
五通目は東都周縁、避難導線仮設札の追加。
六通目は帝都官庁街、工兵配置の前倒し。
七通目は東都中央駅、地下連絡路片側閉鎖の事前通達。
どれも単独なら、小さい。
どれも単独なら、「演習が大きくなったせいで現場が少し無理をしている」と言い張れる範囲に収まっている。
羽場桐は立ったまま、机の縁へ指を置いた。
静かな異常。
それが一番高い。
爆発や銃声は遅い。人が驚いてからようやく形になる。静かな異常は違う。人が驚く前に、驚いた後の順番まで先に置ける。
「……多いですね」
独り言のように落ちた声に、返事は無い。
返事の代わりに、内線が二本同時に鳴った。
当直の少尉が入ってくる。顔色が悪い。だが徹夜の顔ではない。報告が増えた人間の顔ではなく、報告のどれを上へ通すか、それ自体が値段になり始めた人間の顔である。
「羽場桐中尉。帝都と東都から優先指定が」
「机へ」
短く言う。
当直少尉はすぐに従う。すぐに従うが、置く位置をほんの僅かに迷う。迷う時点で、その紙はもう現場の紙ではない。本部内の政治に入っている。
羽場桐は、その迷いごと見た。
同時多発。
それ自体は珍しくない。
珍しいのは、「どれが囮か」ではなく「どれも囮として成立する」ように配置されていることだった。
主観では、執務室の空気が少しだけ薄くなった。
広さは同じ。机の数も変わらない。
なのに、呼吸の届く範囲だけが狭くなる。処理の順番を一つ誤るだけで、別の場所の死人がこちらへ回ってくる朝は、いつもそうだ。
報告はまだ十を超えていない。
件数だけなら、本来この部署が潰れる数ではない。
だが、今日の報告は全部が「いま決めろ」とは言っていない。
「いま決めなくても、後でお前のせいにできる形で置いておく」と言っている。
そこが嫌だった。
121-2
羽場桐は最初に、東都第二首都庁舎群から来た報告を横へ避けた。
避けた、という表現が一番近い。
無視ではない。軽視でもない。
いま一番目立つからこそ、最初に噛み付いてはいけない報告だと判断したのだ。
代わりに手を付けたのは、帝都中央通信局付近の予備回線切り替え。
地味だが、中央通信局が本当に止まれば帝都は一時間で慌てる。にもかかわらず、その報告は驚くほど冷静に書かれていた。冷静に書ける異常は、本当に小さいか、もう書いた人間が「ここはこれ以上騒いでも誰も助けない」と諦めているかのどちらかである。
添付の回線表を見る。
切り替え対象は二本。
本来なら午後の予定。
それが午前前倒し。
理由は「第二首都側との演習連携強化」。
第二首都。
その語が、もう地方ではなく国家の語彙になっている。東都が単なる遠隔行政都市ではなく、帝都の代替ではなく、もう一つの首都として扱われているからこそ、この一文だけで帝都側の回線予定を動かせる。
羽場桐はそこに付箋を置いた。
追う。
だが本命ではない。
次に、西都港湾。
第五岸壁の荷役順差し替え。
高倉源三の朝の報告と一致する。西都はもう喉を握られている。だが西都の喉は露骨すぎる。港を見れば誰でも嫌な顔になる。嫌な顔になる場所は、今朝の本命になりにくい。
そこも付箋。
追う。
だが飛び込まない。
北都。
旅客優先の再解釈。
東雲丈雲から上がってきた本線停止と待避線の報に、さらに旅客側の警備照会が重なっている。つまり、北は「動かない」だけでなく、「動かないことが正しいかどうか」を下士官まで確認し始めた。
そこも重い。
重いが、いま見に行っても切れるのはせいぜい一枚だ。
北は半日単位で人を殺す。今朝の本命はもっと速い。
南都。
民間輸送契約の再確認。
補給廠経由ではなく、沿岸商会からの匿名気味の照会が混ざっている。嫌な匂いだ。暮らしの方が先に軍へ怯え始めた時、南都は長引く。
だが、長引く方だ。
今日の朝を決める方ではない。
残ったのは、東都中央駅地下連絡路片側閉鎖の事前通達と、第二首都庁舎群外周の避難導線再表示、それに帝都官庁街工兵配置の前倒しだった。
三つ並べる。
地下。
地上。
帝都。
羽場桐は、そこで初めて椅子へ座った。
座るのは疲れたからではない。盤面の中心が見えた時だけ座る。立ったままでは、机上の線が遠くなる。
「敵の中心は一つではない」
小さく言う。
「本命は一つ」
帝都官庁街を守る工兵配置が前倒し。
第二首都庁舎群の避難導線が追加。
東都中央駅地下連絡路の片側閉鎖。
一見、別だ。
だが全部が人をどちらへ流すかの話で揃っている。
港ではない。
補給でもない。
線路でもない。
人の流れだ。
派手な異常から見に行くと、大抵そこで死ぬ。
相手はそのために派手な場所もちゃんと用意している。港も、燃料も、遅延も、全部必要だ。必要だが、今朝すぐに盤面をひっくり返すのは、もっと小さい導線の方だった。
机上の紙の山の見え方が少しだけ平たくなった。
どれを見捨てるかが決まると、山は低く見える。低く見えるようになった時点で、もう遅い。
それでも決めるしかない。
本部に上がった報告のうち、いま最も速く人命へ直結するのは東都周縁の導線再編だった。
第二首都庁舎群と東都中央駅、その間を繋ぐ流れ。
群衆が自分の足で“正しい避難”を始めた瞬間、封鎖もまた完成する。
「……東都ですね」
羽場桐はそこで、ようやくそう言った。
121-3
「どうぞ」
入ってきたのは、宗一ではない。東雲でもない。
三木双葉だった。
一葉でも三葉でもなく、双葉が一人で来る時は、だいたい本人が来たがったのではない。東雲に押し出されたか、一葉が押し込んだか、そのどちらかだ。
「羽場桐さん」
双葉が扉の前で止まる。
「東雲さんから。北都は動かないことで一番よく動いてる、って」
「承知しています」
双葉は少しだけ目を瞬かせた。
伝言を終えた子どもの顔ではない。これ以上何か言うべきかどうかを、自分の中でまだ決め切れていない顔だ。
「……一葉たちは?」
羽場桐が訊く。
「待機です。位置で止まる練習の続き……やってます」
いい。
それでいい。
大事件の朝ほど、動かさない札の使い方が値段になる。
「双葉」
「はい」
「東雲大尉へ。北都の追加確認は不要。待避線と確認待ちの時刻だけ残して離脱するように」
双葉の目が少し揺れた。
「追わないんですか」
「追う価値が無いのではありません」
羽場桐は言った。
「追えば、そこへ今日の半日を全部吸われます」
双葉は唇を結び、それから頷いた。
子どもでも分かる。
分かるから、余計に嫌な判断だ。
双葉が出ていき、すぐに内線を取る。
「高倉九席へ。西都は岸壁番号と優先変更時刻だけ。追加の確認不要。南都は現地判断で会計線を維持、深掘り禁止。真名十席へ、地下導線と第二首都庁舎群を同時に見ろ。宗一四席へ、東都周縁へ寄れ。帝都官庁街は切る」
言い終えて、少しだけ手を止めた。
帝都官庁街は切る。
それは、帝都を見捨てるという意味ではない。
だが、今日の午前だけ見れば、そう見える。
本部が一番嫌う判断であり、同時に本部がやらなければならない判断だった。
それから最後に、紺野へ繋ぐ。
繋がるのが早い。
待っていた呼吸音だ。
『……何だ』
「東都です」
返答は無い。
だが、沈黙が一段低くなったのが分かる。
「第二首都庁舎群と中央駅地下導線。
派手な異常は囮です。本命は、人の流れです」
『やっとだな』
「ええ」
羽場桐は言った。
「ただし、まだ入れません」
向こうの呼吸が少しだけ荒くなる。
怒りではない。苛立ちだ。
苛立ちを飲み込めるようになった分だけ、前よりずっと嫌な沈黙になっている。
『理由は』
「宗一少尉と支倉十席で十分だからです。あなたが入ると、向こうが“そこまで読まれている”と知る。知った瞬間に、次の紙が切られます」
また沈黙。
短い。
だが、それで十分だった。
『……分かった』
本当に分かっている時の声だ。
気に食わないのも一緒に聞こえる。
それでいい。
通話を切り、羽場桐は深く息を吸わなかった。
深く吸うと、机上の紙の匂いが胸まで降りる。いまそれをやると、一時間後の判断が少しだけ鈍る。
121-4
昼前、東都から二本の報が同時に入った。
一本は真名。
短い。
——地下連絡路、半分閉じました。
——まだ誰も封鎖だと思っていません。
もう一本は宗一。
こちらも短い。
——第二首都庁舎群外周、避難導線と警備導線が重なりました。
——理由は揃いました。
羽場桐は二枚の紙を並べた。
地上。
地下。
そこへ帝都官庁街の工兵前倒し配置表を重ねる。
三枚で十分だった
第二首都の外で人を整列させる。
中央駅地下で人を流す。
帝都官庁街で工兵を立てる。
それぞれ別の防災に見える。だが全部が人をどちらへ寄せるかの話で繋がる。
兵站でもなく砲火でもない。
人間の脚そのものを、正しい顔のまま戦力へ変える段である。
机の上の三枚の紙が、急に一枚へ見えた。
本当に重なったわけではない。
異常の形が揃った時、別々の報告はこういう見え方をする。そこまで行くと、もう“本命がどれか”ではなく“何を犠牲にどこへ人を押し込むか”の話になる。
第二首都東都に対する攻撃準備は、まだ銃声を必要としていない。
導線。
避難。
警備。
工兵。
その四つだけで十分に都市の呼吸を変えられる。
そして、その変化は誰も戦争と呼ばない。
そこが最悪だった。
羽場桐は端末を取り、全体線へ短い命令を流した。
「派手な異常は囮です。本命は、誰も戦争と呼ばない場所にあります。現場で解決しないでください。順番だけ残してください」
送信。
その後で、机の右端へ残し切る位置を少しだけ広げた。
明らかに、これからもっと紙が来る。
そして、そのどれもが“いま起きていることはまだ演習の範囲だ”と言い張るために使われる。
執務室の窓の外では、昼の前なのに兵の影が増えていた。
まだ少ないのに、通りの幅だけはもう半分になって見える。
羽場桐は目を閉じなかった。
閉じると、次に開けた時、もう一段遅れる気がしたからだ。
誰も戦争と呼ばない場所。
そこが、いま一番危ない。
そしてそういう場所は、たいてい助けるのが一番遅くなる。




