百十四話 西都港封鎖
百十四話
114-1 西都港封鎖
西都湾岸の朝は、海が明るくなる前に番号が起きる。
岸壁の番号。
クレーンの番号。
倉の番号。
牽引車の番号。
人間はその後だ。人は荷を運んでいると思っているが、実際に動いているのは優先順位の方である。優先順位が先に決まり、それに遅れて人間の身体が引っ張られる。港とはそういう場所だ。
高倉源三は、防波堤沿いの道路で車を降りた瞬間に、その優先順位がもう昨日のものではないと分かった。
潮の匂いはある。
重油の匂いもある。
それより強いのが、乾いた紙の匂いだった。
港の紙は本来、もっと湿っている。海風を吸い、手袋の油を吸い、角が丸くなる。
今朝の紙は違う。
角が立っている。白が硬い。机の上で生まれた紙が、そのまま岸壁まで運ばれてきた顔だ。
「……嫌な朝だな」
独り言に、返事は無い。
返事の代わりに、クレーンの警告音が三度鳴った。規則的すぎる。現場の鳴らし方ではない。事務の人間が「正しい注意喚起」として設計した鳴り方だ。
門衛が通行票を見て、一瞬だけ目を細めた。
近衛の番号を見る目ではない。誰の許可で入るのか、誰の責任で歩くのか、その両方を見ている目だ。
門衛はすぐには敬礼しなかった。
後ろにいた別の兵の顔を一度だけ見て、それからようやく敬礼した。
その一拍が、今朝の値段だった。
味方同士で確認している。
確認しなければならない程度に、もう紙が混ざっている。
「第三区画、第七倉庫です。港湾管理課も、近衛第一師団の先遣も、先に入っています」
西都近衛第一師団、総数約二万。
港で見えるのは、そのうちのごく一部だけだ。岸壁の外周、燃料線、貨車の入替口、倉庫帯の交差点。
数千も要らない。置く位置さえ正しければ、港は十分に黙る。
高倉は門を抜けながら、その“正しい置き方”を見た。
岸壁警備が二列。
貨車の連結区画に近衛の工兵。
燃料ドラム保管帯に輸送隊。
海軍の港湾警備が消えたわけではない。いる。
いるが、一歩ずつ後ろへ下がっている。命令で下がったのか、責任を被りたくなくて下がったのか、ぱっと見では分からない。
分からないことが、もう相手の勝ち方だった。
遠く、第四岸壁で旗が上がる。
赤白ではない。災害対応の仮旗。
港を閉じる旗ではない。港の優先順位を塗り替える旗だ。
「封鎖じゃねえな……」
高倉は小さく言った。
封鎖ならまだ分かりやすい。
港は動いている。動いているまま、通していいものだけが通る顔になっている。そちらの方がずっと怖い。
114-2
第七倉庫の前には、補給服の男と港湾事務の男が二人並んで立っていた。
補給服の方は昨日も見た山科准尉。顔色は悪いが、目はまだ現場の目をしている。
隣の港湾事務官は逆だ。顔色は普通で、目だけが机の方を向いている。
「高倉さん」
山科准尉が言った。
その言い方に、助かった、が少し混ざっている。
現場の人間は、誰かが自分と同じものを嫌な顔で見た時だけ少し楽になる。
「今朝から岸壁優先が切り替わりました。燃料線、救難物資線、仮設医療物資線。全部“災害対策優先”です」
「西都の空、今にも落ちてきそうか?」
高倉が言うと、山科准尉は笑いそうになって、笑えなかった。
「いえ」
「なら災害じゃねえ。災害の顔だ」
港湾事務官がそこで口を挟んだ。
「形式上は正規命令です。西都近衛第一師団の先遣、港湾管理課、防災対策局の連署。問題はありません」
問題はありません。
その言い方をする時点で問題しか無い。
高倉は相手を見ず、倉庫前に積まれたパレットを見た。
木箱が三列。
鉄枠コンテナが二列。
燃料ドラムが別棟へ回され、代わりに白い医療物資コンテナが前へ出ている。
白い。
海風を浴びていない白さだ。
「問題が無いなら、何であんたは俺の顔見て喋らねえんだ」
高倉が言うと、港湾事務官の喉が動いた。
答えない。答えないのではない。答えると、この場が現場になる。現場になると、自分の責任が生まれる。
山科准尉が低く言った。
「岸壁の使用順が、今朝の四時で差し替えです。第五と第七が災害優先、第二区画の貨車入替も同時に。海軍側は異議を出しかけましたが……」
「止まった」
「はい」
「誰が止めた」
今度は山科准尉も即答しない。
港湾事務官の方を一瞬だけ見る。
その視線の一往復で、もう十分だった。
海軍が譲ったのではない。
譲らされた。
あるいは、譲った方がまだ生き残れると判断した。
高倉はそこで、やっと港湾事務官の顔を正面から見た。
若いのに、目の下に疲れが無い。現場の疲れではない。説明責任の疲れだ。
朝から、何度も同じ書式を見せ、同じ説明を繰り返し、そのたびに“自分は決めていない顔”を保ってきた顔である。
「聞くぞ」
高倉が言った。
「港は、今朝から誰を一番通したい」
事務官は、そこで初めて答えた。
「港は通したいのではありません。止めたくないのです」
高倉は一瞬だけ黙り、それから鼻で笑った。
悪くない答えだった。
現場の人間ではないが、現場がどう死ぬかは分かっている答えだ。
「止めると誰が怒る」
「それが分からないから、皆止められないのです」
それが本音だった。
北都主力に通じた部隊がどこまで港へ噛んでいるか、誰にも分からない。
海軍の中にいるかもしれない。近衛第一師団の先遣の中かもしれない。港湾管理課の上かもしれない。
正しい命令に逆らったつもりで、本当に正しい上官を敵に回すかもしれない。
だから、皆が一歩ずつ後ろへ下がる。
命令が強いから止まるのではない。
命令の裏にいる人間が分からないから止まる。
それが一番嫌な支配だった。
114-3
第七倉庫の中は、以前よりさらに整っていた。
整っている、というのは片付いているという意味ではない。
“今ここにあるべきもの”が、綺麗すぎる位置へ並んでいる。綺麗な位置は、そこへ置く理由が先にある位置だ。
高倉は倉庫へ入ってすぐ、床の木屑の少なさに気付いた。
箱を開けたなら、もっと荒れていていい。
清掃が入った。現場の掃除ではない。証拠を消すためではなく、今日も運用を続けるための掃除だ。
「ほらな」
高倉がしゃがみ込む。
箱の底の滑り跡。
台車のタイヤ痕。
釘の打ち直し。
全部が綺麗すぎる。
「以前の空箱は?」
山科准尉が指した。
列の右端。
だが高倉はその箱を見ず、手前の白コンテナへ向かった。
「今朝動いたのはこっちだ」
封印札。
印影。
朱の輪郭が妙に濃い。押した後に紙をずらした印だ。責任が二重に見える時の顔である。
しかも札の端が微妙に浮いている。貼り替え後に急いで押さえ直したが、倉の冷えが追いついていない。
主観では、紙の白さがやけに冷たく見えた。
白は白だ。
だがここまで白いと、もう医療物資ではなく、医療物資という理由そのものに見える。
白いコンテナが六基。
台車が四。
そのうち三基には搬出札。
行き先は地名ではなく、符号。
E-3。
その下に、別の小さな札で T-2。
高倉は舌の裏で何かを噛み、声を落とした。
「……東だな」
山科准尉が息を呑む。
「分かりますか」
「分かるように置いてる。分かられなきゃ困る程度には、正しい顔してるからな」
高倉はコンテナの横へ回った。
そこに細い赤線が引いてある。
安全確認済の線ではない。積載重量の区分線でもない。
荷役担当が「ここまでは災害対策優先」と現場で覚えるための線だ。
つまり、港湾管理課の命令はもう紙だけではない。
現場の床へ落ちている。
そこまで落ちると、人は逆らいにくい。床に描かれた順番は、命令より先に足を動かすからだ。
「高倉さん」
山科准尉が低く呼んだ。
倉の外、クレーンの動作音が変わっていた。
遅い。
だが迷いが無い。
第五岸壁で優先荷の吊り上げが始まっている。
まだ出港していない。なのに、出ていく理由だけがもう完成している。
港湾事務官が、初めて倉の中へ一歩だけ入ってきた。
「この荷は、今日の十時までに東行きの貨物線へ乗ります」
高倉は振り返らなかった。
「聞いてねえが」
「ですが、言うべきだと判断しました」
「なぜ」
少し間があった。
「ここで止めると、別の岸壁から出ます。止めなければ、この岸壁の責任で済みます」
高倉はそこで、ようやく相手の言いたいことを理解した。
これは忠告ではない。
悲鳴だ。
止めた時に怒るのが誰か分からない。
だが止めなければ、自分の部署の責任としてだけ整理できる。
現場がそういう計算を始めた時点で、もう港は落ちている。
114-4
高倉は倉の外へ出た。
第五岸壁の方で、クレーンが一本、ゆっくり荷を吊っている。
派手ではない。
だが、その遅さが嫌だった。急いでいない者の遅さだ。
急がなくても間に合う側の遅さである。
道路の向こうには、近衛第一師団の先遣が立っている。
本体は見えない。
見える必要が無い。
港湾、燃料線、貨車、岸壁、その喉元だけへ二千五百、一千五百、一千。
それで十分だ。
十分であることを、高倉みたいな現場の人間ほどよく知っている。
「高倉さん」
山科准尉が追ってくる。
声は低い。
大声を出すと、すぐ書式になると分かっている声だ。
「どうします」
高倉はすぐには答えなかった。
正解が分からないからではない。正解が一つじゃないからだ。
港をここで止める。
それは一見、正しい。
だが、ここで派手に止めれば、他の岸壁と他の貨車線が一斉に動く。
港全体は止まらない。港全体を止めた顔だけがこちらへ残る。
「残す」
高倉は短く言った。
「岸壁番号。優先変更時刻。白コンテナ六。搬出札三。E-3とT-2。宛名は書くな。札と線だけ残せ」
山科准尉が頷き、手帳を出す。
その手帳は汚れている。現場の手帳だ。だから残る。
港湾事務官が、そこで初めて小さく問うた。
「止めないのですか」
高倉はそちらを見た。
まっすぐではなく、肩の辺りを見る。目を合わせると、ここは対話になる。対話になると、互いに後戻りできなくなる。
「港はまだ敵じゃねえ」
高倉が言った。
「でも港の順番は、もう他人の手にある。ここで暴れりゃ、港まで向こうのもんになる」
事務官は何も返さない。
返せないのではない。返すと、自分がどちら側で喋っているのかが固定される。
高倉は内ポケットから汚い控え紙を出し、鉛筆を走らせた。
岸壁五。
優先切替四時零八分。
白コンテナ六。
E-3。
T-2。
海軍一歩後退。
近衛先遣配置、燃料線・岸壁・貨車。
字は汚い。
汚いから、後で綺麗にされにくい。
端末を取り出す。
相手は一人でいい。
こういう時、報告相手は多いほど死ぬ。
「羽場桐中尉へ」
繋がるまでの短い無音の間、第五岸壁で荷が一つ動いた。
白い。
正しい顔のまま、東へ向かう荷だ。
『羽場桐です』
「高倉だ。西都湾岸。封鎖じゃねえ。港湾優先の塗り替えだ。第一師団の見える配置は、岸壁、燃料線、貨車。海軍は残ってるが一歩下がってる。白コンテナ六、搬出札三。E-3、T-2。十時までに東行き貨物線」
向こうで一拍。
羽場桐はそこで計算している。
『了解しました。港はまだ生きていますか』
高倉は第五岸壁を見る。
クレーン。
白旗。
動く荷。
動いている現場。
だが、止める勇気をもう失い始めている現場。
「生きてる。だが喉が他人のもんだ」
『十分です』
通話が切れる。
高倉は端末を下ろし、潮の匂いを一度だけ深く吸った。
海は変わらない。
変わったのは海へ出ていく順番の方だ。
港はまだ落ちていない。
だが港を封鎖する必要は、もう相手には無い。
港を動かす喉だけ、一つずつ他人の手へ渡せばそれで済む。
それが一番、始末が悪かった。




