百十五話 北都遅延表
百十五話
115-1 北都遅延表
北都の朝は、白いというより、白で言い訳を塗る。
線路脇の積雪。
転轍機の腹に噛んだ氷。
信号柱の根元に凍りついた泥。
貨車の屋根に残る夜霜。
それら全部が、「遅れても仕方がない」と先に言っている。北ではそれが一番厄介だ。止められた列車も、差し替えられた運行も、旅客優先も雪害対応も、全部“自然な遅れ”の顔をしてしまう。自然な顔をした遅れほど、意思より強い。
東雲丈雲は、その白さをそういうものとして見ていた。
北都第三鉄道結節。
旅客線二本、貨物本線三本、待避と入替の短線が枝みたいに何本も差し込まれている。人の町ではない。物流が一晩だけ腰を下ろし、また次へ流れるための場所だ。だからここは、戦場にならないまま国家になる。
吐いた息が白い。
息が視界を曇らせる前に、東雲は構内全体を見た。
照明は最低限。
除雪は途中。
なのに、貨車の並びだけが整いすぎている。
整っているのではない。
整えられている。
「……嫌な並びだな」
独り言に、返事は風だけだった。
単独で来たのは、速さの問題でも、気軽さの問題でもない。
宗一を南都へ、高倉を西都へ、真名を東都周縁へ切った以上、北都へ一人で来るしかなかった。各地の異常が同時に起きている朝に、助けを連れて歩く時間は、それ自体が敵の味方になる。何より、ここは派手に止血する場所ではない。紙の温度と兵の顔色を見誤らずに帰る方が、今朝の値段は高い。
駅務棟の前に、若い大尉が立っていた。
頬が赤い。寒さの赤ではない。説明を繰り返している人間の赤だ。
「東方貨物統制所北都支部、笹森大尉です」
東方。
北都の朝にその単語が口の先に来る時点で、もう値段が付いている。
東雲は通行票を見せた。
「近衛御親領衛六席、東雲丈雲。照合だ。差し替え前後の運行表、出発保留の根拠、旅客優先の適用範囲。全部見る」
笹森大尉の喉が鳴った。
その音で十分だった。ある。しかも、綺麗な形である。
115-2
駅務棟の中は暖かい。
暖かいのに、紙だけは冷えていた。
机が二つ。
壁に掲示運行表。
その下に内部運行表。
棚の奥に差し替え前の控え。
普通ならそこまで露骨に三層で置かない。今日は置かざるを得なかったのだろう。見せる顔、回す顔、隠しておきたい顔。その三つを同時に抱えた朝だ。
笹森大尉が掲示用の運行表を指す。
「旅客優先と雪害対応で、本日午前の貨物運用は再編です。第三線と第四線の入替は一時停止。南行き貨物は旅客列車通過後に——」
「差し替え前」
東雲が切った。
笹森は一拍止まり、棚から昨日の紙を出した。
昨日の紙がもう古い顔になる。そういう朝である。
東雲は二枚を並べて見た。
旅客列車の本数は変わっていない。
貨物本線の使用時間だけが削られている。
削られた分を埋めるように、南側待避線と仮留置線の欄が増えている。
止めたのではない。
本線から外して、“まだ動いている顔”へ変えたのだ。
主観では、机の上の紙が少しだけ歪んで見えた。
印刷のズレではない。遅れを事故に見せるために、列車の生死を紙の上で一度だけ薄めている時の歪みだ。
変更されたのは貨車二十六両分。
うち、東都方面へ回せたはずの補給車両が九両。
人員輸送へ転用可能だった空車が六両。
工兵移送に使える平板車が四両。
旅客優先の札一枚で、都市一つ分の反応が半日死ぬ。
「雪害は嘘じゃない。旅客優先も嘘じゃない。だからこそ一番嫌だ。正しい遅れは、誰も切れない」
笹森大尉が苦い顔をする。
反論ではない。分かっている顔だ。
東雲はそこで、運行表ではなく笹森の肩越しに窓の外を見た。
旅客ホーム側に立つ警備兵。
貨物側で雪をかく工兵。
南側待避線の外周を見張る輸送警備。
同じ軍服なのに、目の置き場が揃っていない。
一部は落ち着きすぎている。
自分の役目だけを粛々と果たしている顔だ。
一部は、本気で何が起きているのか分からないまま、正しい命令へ縋っている。
残りは、そのどちらのふりをすべきか決め切れていない。
「割れているな」
東雲が言う。
笹森大尉は何も返さない。
返せないのではない。返した瞬間に、どちら側で喋っているか固定される。
「知っている側と、知らない側だ。しかも、知らない側は自分の正しさで自分を縛っている。だから厄介だ」
笹森の喉が、また小さく鳴った。
115-3
外へ出ると、旅客線へ列車が一本入ってきた。
定刻。
雪の北都で定刻というだけで、不自然だった。
本当に全部が雪害対応なら、どこか一つくらいもっと乱れていていい。全部が綺麗な時は、誰かが綺麗にしたのである。
東雲は南側待避線へ歩いた。
雪は深くない。
だが踏み跡が少ない。見に来るべき人間まで減っている証拠だ。
九両の貨車が止まっている。
その外周に、一個小隊規模の兵が立つ。
三十前後。
少ない。だが少ないからこそ顔が見える。
半分は、真面目すぎる顔をしていた。
旅客優先と雪害対応を、そのまま信じている。
残り半分は、周囲を見すぎている。誰がどこで聞いているか、その手の目だ。
同じ小隊の中で既に温度が割れている。
「最悪だな」
東雲は小さく言った。
笑わずに言うと、余計に冷える。
信号柱の下に、臨時札が吊られている。
——確認待ち。
それだけだった。
誰の確認かは書いていない。
書いていないから、全員が自分より上を勝手に想定する。
上を想定するほど、人は動けなくなる。そこへ撃たれる必要は無い。確認待ちの札一枚で十分だ。
主観では、雪の白さが急に深くなった。
景色が綺麗になったのではない。待つ理由だけが、地面より厚く積もった。
停止しているのは貨車九両と待機兵三十。
数字だけ見れば小さい。
だが、その小ささが嫌だった。これで止まる。これだけで十分止まる。
誰も発砲していない。誰も敵と対面していない。
それでも東都へ行けるはずの反応速度が半日死ぬ。
待避線の兵の中から、一人の中尉がこちらへ来た。
敬礼は正しい。
だが歩幅が迷っている。途中で止まるべきか、最後まで来るべきかを決め切れない歩き方だ。
「第七独立輸送警備中隊、三上中尉です」
独立。
その呼称が嫌だった。独立している部隊は便利だ。便利だから、どちらの紙にも乗せやすい。
「東雲大尉」
三上中尉は声を落とした。
「確認です。この待機命令は、本当に帝都側でも共有されていますか」
東雲はすぐには答えなかった。
“本当に”という一語が重い。
この男は、既に自分の上を信じ切れていない。
「共有されている紙はある」
やがて東雲は言った。
「だが、その紙が“お前を待たせるためだけの紙じゃない”とは、まだ言えない」
三上中尉の顔が凍る。
凍るが、怒らない。怒れるならまだ楽だ。怒りは向きを持つ。いまこの場にあるのは、向きを持たない不安である。
「……了解しました」
了解。
何も了解していない時の返事だった。
東雲はその返事へ頷きもせず、待避線から視線を切った。
いまここでこの兵たちを責めても値段は下がらない。
悪いのは彼らの怯えではない。
怯えを正しさとして使える紙の方だ。
115-4
駅務棟へ戻る途中、東雲は一度だけ立ち止まった。
構内の全景が見える位置。
旅客列車は定刻。
貨車は待避。
警備兵は確認待ち。
司令線は照合中。
全部が正しい。
正しいからこそ、これ以上ないほど悪質だった。
端末を取り出し、羽場桐妙子中尉へ繋ぐ。
すぐに出る。
本部も、もう待つ段ではない。
『羽場桐です』
「東雲です。北都第三鉄道結節」
短く、必要なことだけを言う。
「北都方面の即応線、旅客優先と雪害対応で正しく遅れています。知っている側と知らない側が同じ制服の中で割れています。確認待ちの札一枚で、待避線が死んでいる」
向こうで一拍。
羽場桐の計算の沈黙だ。
『……北は“不在”ではない、という理解でよろしいですね』
「ええ」
東雲は白い息を吐いた。
「不在ではない。動かないことで一番よく動いている」
『承知しました。帝都側の救援編成も、照合で鈍っています』
「でしょうね」
『東都へ回せる正規の大部隊は、今のままでは間に合いません』
東雲は空を見上げた。
どこまでも白い。
その白の下に、四万八千の主力がいる。
いるのに、その全部を今すぐ兵力として数えてはいけない。数えた瞬間、現実と喧嘩する。
『東雲大尉』
「何でしょう」
『御親領衛を先遣で押し込む可能性が上がりました』
東雲は驚かなかった。
驚ける段ではない。
「妥当です」
『妥当、ですか』
「ええ」
東雲は言った。
「正規軍はいる。ですがいまは、“味方を味方と証明する時間”が無い。その時間が無い時、小さい部隊ほど先に押し出される」
通話が切れる。
東雲は端末を下ろし、構内をもう一度だけ見た。
待避線の兵たちはまだ立っている。
動ける。武器もある。命令もある。
それでも動かない。
北は、動かないことで一番よく動く。
その言葉を胸の中で反芻しながら、東雲は踵を返した。
雪はまだ降っていない。
それでも、もう十分に視界は悪かった。




