百十三話 総合防災演習
百十三話
113-1 総合防災演習
その日の御親領衛本部の朝は、空が低かった。
曇っているわけではない。窓の外に雲が垂れているわけでもない。
ただ、机の上に置かれた封の厚みが、そのまま天井の高さを奪う朝がある。目に見える騒ぎは無い。怒鳴り声も足音も、平時よりむしろ少ない。静かなのに、もう誰かが外で動いている。動いた後の責任だけが、遅れてここへ運び込まれる。そういう朝だ。
羽場桐妙子は、執務室へ入る前から今日がその朝だと分かっていた。
扉を開けた瞬間、机の中央に封が五通。
並べ方が良すぎる。偶然の揃いではない。わざわざ「同じものが届いた顔」を作る時の揃い方だ。
羽場桐は椅子へ座らず、そのまま机の縁へ立った。
一通目を見ず、まず全体を見る。
封の厚みが揃っていない。
正面から見れば同じ命令文の束に見えるのに、側面の膨らみだけが違う。中に入っている添付の種類が違う。
同じ表題で、各地へ別の理由を配っている。
指先で一通目の端を軽く弾く。
紙質。糊の湿り。封緘札の貼り位置。
全部が今日の紙だ。保管庫の冷えを吸っていない。外で切って、そのままここへ運ばれた紙の顔をしている。
表題は同じだった。
総合防災演習。
その四文字を見た瞬間、羽場桐の喉がわずかに乾いた。
小さい名目は、まだ事故に見える。大きい名目は、事故を国家の仕事へ変える。
総合。そこへ至った時点で、もう一部署の都合ではない。
一通目。帝都近衛第二師団。
二通目。西都近衛第一師団。
三通目。北都方面軍輸送統制。
四通目。南都補給調整。
五通目。近衛御親領衛。
宛名は違う。
だが管理番号の頭が同じだ。副署も同じ。回覧欄の段数まで同じ。
同じ幹に、別の枝だけを生やしている。
羽場桐は五通目だけを手前へ引き、封を切った。
本文は短い。短いが、そこが嫌だった。長文の命令は読む間がある。短い命令は、読む前提で動いていない。読まれる前に盤面が動く。
「帝都圏防災演習に伴う緊急協力」
「交通・通信・避難・物資搬送の一時再編」
「対抗勢力による妨害を想定した実地運用」
対抗勢力。
羽場桐の目が、その一語で止まった。
誰を敵と見ているかを、命令文の方が先に決めている。
そして、その“敵”の定義が、各地で違う時、軍は互いを信じられなくなる。
部屋の空気が一段だけ重くなった。
机も壁も何も変わらない。なのに、紙の厚みだけで執務室の容積が半分になったように感じる。
これが一枚の命令ではなく、複数の弱さを束ねた紙だと身体が先に理解した時の圧だ。
目の前にあるのは五通の封に過ぎない。
だが、ここへ届いた時点で、もう全国のどこかでは兵が立ち、どこかでは荷が止まり、どこかでは待機が命令へ変わっている。
机上の紙はいつも遅い。遅いのに、遅れて届いた時にはもう十分に重い。
羽場桐は五通目を閉じ、一通目を開いた。
帝都近衛第二師団。
本文は同じ骨格をしている。だが、添付の重点が違う。
官庁街の通行統制。
中央通信局保全。
災害時を想定した庁舎封鎖訓練。
対抗勢力による官庁妨害に備えた予備配置。
帝都は、政治の顔を守るための命令になっている。
次に西都。
港湾優先。
燃料保全。
岸壁使用順位の再編。
積荷の選別。
西都は、物流の喉を握るための命令になっている。
北都。
雪害対応。
旅客優先。
鉄道遅延の受忍。
貨車再編。
北都は、動かないことを正当化する命令だ。
南都。
補給安定。
査察延期。
沿岸救難物資の優先。
民間輸送契約の臨時更新。
南都は、生活の顔をしている。
だから余計に強い。
羽場桐は封を机へ戻し、静かに言った。
「……敵の定義が違う」
誰に向けた言葉でもない。
だが、それだけで十分だった。
113-2
呼鈴を鳴らす前に、羽場桐は窓の外を見た。
本部中庭を、警備の兵が横切っていく。
走っていない。走る必要がない者の歩き方だ。
朝の点呼にしては人数が多い。平時の入れ替えにしては持ち物が重い。
それでも、ぱっと見は異常ではない。
異常なのは数ではなく、置き方だ。
帝都近衛第二師団。
名目上の定数は約二万。
その二万が、いきなり全員街へ出ることはない。出た瞬間に、誰の目にも軍事行動になるからだ。
だが、その二万のうち、官庁街二千、通信・交通拠点千五百、工兵八百、災害予備千。
これだけを“正しく”置けば、都市は十分に縛れる。
兵数ではなく、理由の配置。
敵はそこを分かっている。
扉が叩かれた。
「どうぞ」
入ってきたのは護国宗一少尉だった。
軍帽を持ったまま、机上の封を見て、そこで足を止める。
いつもの彼なら、まず羽場桐の顔を見る。今日は違う。顔を見る前に、紙の方が先に値段を持っている。
「……大きいですね」
「ええ。大きいです」
羽場桐は一通だけを机の縁へ滑らせた。
宗一は受け取らず、視線だけで読む。
「総合防災演習」
「名目はそうです」
宗一の目が、副署と宛名欄の間で止まる。
そこへ気付くのが早い。だから彼を外周へ出す。
「文面が少し違う」
「帝都、西都、北都、南都で、敵の定義と優先事項が違います」
宗一が短く息を吐いた。
「味方同士を疑わせる」
「はい」
そこへ、東雲丈雲が入ってきた。
続いて高倉源三。
支倉真名。
部屋に増える足音の質が違う。宗一は現場の足。東雲は間を置く足。高倉は生活の足。真名は舞台に上がる前のように静かな足だ。
羽場桐は四人が揃ったところで言った。
「状況を整理します。同一名目の下で、各方面へ別々の優先順位が配られました。帝都は政治。西都は港。北都は遅延。南都は補給。これだけならまだ地方ごとの事情です。問題は、各命令文で“妨害勢力”の書き方が微妙に違うことです」
真名が小さく問う。
「誰を敵と思わせたいか、違うってことですか」
「ええ。帝都では官庁妨害。西都では物流阻害。北都では旅客軽視。南都では補給撹乱。同じ軍服でも、見ている敵の顔が違えば、合流した時にまず照合が始まります」
高倉が鼻で息を吐いた。
「敵より先に味方を見張らせるわけか。趣味が悪い」
東雲が静かに続ける。
「趣味ではない。効率だ」
その一言で、部屋の温度が少しだけ下がる。
効率。
そう言ってしまえる時点で、もう戦場は紙の方にある。
羽場桐は頷いた。
「各地はこれから、敵を探す前に味方の正当性の確認を始めます。それ自体は正しい。だから止まりません」
宗一が問う。
「こちらは」
「全部は追いません」
即答だった。
全部追えば、向こうの速度になる。
ここから必要なのは網ではない。切断だ。
113-3
羽場桐は机上の紙を並べ替えた。
西都——高倉。
港、岸壁、燃料、封印。
数字より先に違和感を嗅げる者が要る。
北都——東雲。
鉄道結節、遅延表、差し替え前後。
追わずに値段だけを持ち帰れる者が要る。
帝都外縁——宗一。
合同指揮所、通信照合、検問線。
止血の順番を知る者が要る。
東都周縁——真名。
群衆誘導、避難導線。
正しすぎる流れを嗅ぎ分け、壊さずに曲げられる者が要る。
「綾瀬さんは待機」
羽場桐が言う。
「規格が混ざった段で切ります。いま出すと、向こうがこちらの札を一枚早く見る」
真名が頷き、宗一は何も言わない。
東雲は初めから異論を持たない顔だ。
高倉だけが小さく肩を竦める。
「紺野少尉は」
宗一が訊いた。
羽場桐は視線を上げない。
「本部近傍待機。詰まった時だけ切ります」
高倉がそれに口を挟まないのが、いちばん嫌な現実だった。
皆、その方が正しいと分かっている。
最初から紺野を出せば、相手に“そこまで見ている”と教えるだけになる。
「珠洲原主任は」
東雲が問う。
「後段です。いまはまだ虫を切る値段ではありません」
羽場桐は答えた。
「あの術を観測で使うには、こちらも相手も“観測が始まった”と認識する必要がある。まだそこまで行っていません」
高倉が低く言う。
「ってことは、もう半歩で行くんだろ」
羽場桐はそれに答えない。
答えないことが答えだからだ。
代わりに、各人へ紙片を渡す。
番号だけ。
宛名は無い。
宛名を書いた瞬間、こちらが相手の書式へ乗る。
「残してください」
羽場桐が言う。
「番号、時刻、順番。理由は不要です。理由は後で
向こうが整えます」
宗一が短く頷く。
「了解」
東雲は紙片を受け取り、すぐ懐へ入れた。
高倉は二度見た。数字の意味より、紙の質感の方を見ている。
真名は一瞬だけ天井を見た。視線の流れを先に整える時の癖だ。
四人が出ていく。
扉が閉まる。
静けさが戻る。
だが、さっきまでの静けさではない。紙が切られた後の静けさだ。
113-4
羽場桐は最後に残った封へ手を伸ばした。
東都向け。
他より厚い。
厚いということは、説明ではなく、説明の後処理が多いということだ。
攻める前より、攻めた後にどう説明するかの方が分厚い。そこまで来ている。
封を開く。
避難訓練。
交通規制。
首都機能保全。
臨時治安維持。
官庁間連携強化。
緊急医療搬送路確保。
どれも正しい。
この紙一束だけで、東都はまだ何も起きていない顔のまま、もうかなりの割合を殺せる。
扉がもう一度叩かれた。
今度は伝令だった。
若い兵が、硬い顔で一礼する。
「西都湾岸、同番号別命令の追加回付です」
置かれた封を見て、羽場桐はわずかに目を細めた。
やはり来る。
本命が一つではない時、追加はいつも早い。
管理番号は同じ。
副署も同じ。
違うのは、本文の最後にある一行だけだった。
——妨害勢力による港湾機能攪乱に留意せよ。
西都の敵は、港を乱す者。
帝都の敵は、官庁を乱す者。
北都の敵は、旅客を遅らせる者。
南都の敵は、補給を乱す者。
同じ国の中で、敵の顔が四つある。
主観では、机の上の封が少しだけ増えたように見えた。
実際には一通しか増えていない。
だが一通増えただけで、外で疑うべき相手が一つ増える。
それがこの紙の嫌らしさだった。
ただの追加回付だ。
しかし同じ番号で敵の定義だけが増える時、現場は敵を探す前に味方同士で照合を始める。
照合は正しい。
正しいから、遅れる。
遅れるから、落ちる。
羽場桐は新しい封を、机の右端へ滑らせた。
そこは“残し切る”位置だ。
読むためではない。後から誰かが「そんな紙は無かった」と言った時、その嘘に値段を付けるための位置。
窓の外で、朝の光が少しだけ強くなった。
それと同時に、中庭を横切る兵の数も増える。
見える兵だけでも十分多い。だが、いま怖いのはその数ではない。
兵たちが、誰を敵だと思って立っているか。
それが、部隊ごとにもう違っている。
「……本命は、もう動いていますね」
羽場桐はそう言って、端末を取った。
次に入れる相手は紺野か、宗一か、それともまだ待機の綾瀬か。
迷う時間は無い。
だから迷わない。
最初に切ったのは、東都周縁へ向かった真名だった。
「支倉十席」
通話が繋がる。
「派手な異常は囮です。本命は、誰も戦争と呼ばない場所にあります。見つけても、解決しないでください。
順番だけ残してください」
「了解です」
通話は短く切れる。
机の上には、まだ封がある。
それでも、もう机の上だけの段ではない。
総合防災演習。
その名目は、いまこの瞬間から、各地で別々の顔をして人を縛り始めていた。




