笛
下の息子の滞在は短く、別れの時が来ました。
孝子は⦅これが今生の別れになりますやろ……な。⦆と思いました。
息子も同じ想いで居たようです。
「お母さん、文を……。
おひなって頂かされる時には、私に文を……
文をお書き下さい。」
「はい。」
「お母さん……お息文字であらしゃいますよう……。」
「其方も……お息文字であらしゃいませ。」
「はい。」
涙を見せまいとする母と子でした。
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大納言と兵部の大輔は、落忌の宴を盛大に行って、大納言と大輔はそれぞれの邸に帰っていきました。
源中納言は「今一日、二日ばかりはこちにご滞在ましゃりますように。」と言いましたが、大納言は「私らが何時までも、そちらさんも狭うなりましょう。幼い子らを初めとして、女房らも居心地が悪いことでござりましょうほどに、こちに滞在するのはそのうち、子らや女房らを三条邸に残して参りましょう。」と強引に女君や子ども達を三条邸に連れ帰そうとしました。
「法華八講がとても尊く感動しましたことはもちろん、中宮さんや右大臣さんに始
まる仰山の方々からお心遣いを進ぜられて、『命がのびて、老いの身ながらも面
目が果たせた』などという言葉で言い表せへんほど嬉しゅう思うております。
こないな年寄りのために、法事のひとつ、経典のひと巻き、供養して下さいまし
ゃりますだけでも大変嬉しゅう存じます。
そやのに、こないにもおひしひしに法事催して頂かれましゃりました。
感無量でございます。」
源中納言が、そう言いい、泣きながら喜びましたので、女君はもちろん、大納言も⦅八講をやった甲斐があっておよしよしやった。⦆と思いました。
「これは、このおとしめしが大切にしておりました物で、誰かに伝え置こうかと長
年隠しておいた物でござります。
三の君の夫やった中納言さんが通うてあらしゃった時に所望なさりしゃいました
のを、お渡し出来へんかったのは、きっと仏様が親愛なる大納言さんにお渡しす
るために取り図られましゃいましたのやろと思います。
さぁ、これは若君に進じましょう。お受け取りあらしゃいますか?」
「ありがとう。」
源中納言は、とても立派な錦の袋に入れている物を大納言の長男である太郎君に渡しますと、太郎君は心得た様子で微笑んで受け取り、それを大納言に渡しました。
大納言は笛を⦅これは……きゃもじなこと……。⦆と思いました。音も尊いように思われました。
「太郎君。これは、ええ物を進ぜられましゃいましたね。」
「ありがとう。」
「ほんまに、ええ笛でございます。
太郎君、お大切に遊ばしますように……。」
「はい。」
「大納言さん、おいとぼいだけやない。
ええおちごさんであらしゃいます。」
「大輔……ありがとう。」
夜が更けた頃、大納言は三条邸に帰りました。
大納言は、「源中納言さんは、八講をほんまにお喜びさんであらしゃいましたね。また、何かしてあげましょう。」と言いました。
「大輔は、優しゅうて、ええ男や。
けど……欲が無いよに思われる。
……源中納言さんの笛も……心の奥深くから喜んであらしゃった。」
「さよでござりますか……。
四の君さんは、お幸せやと思います。」
「なんで、そないに思わしゃるのや?」
「傍に居わしゃるだけで、充分にお幸せなんやと思います。」
「さよで……。」
「私も四の君さんと同しでござりまする。
殿さんが傍に居わしゃるだけで……幸せにございます。」
「北の方……。私も同しや。」
大納言は北の方を抱き寄せて強く抱き締めました。
兵部の大輔は、邸に帰り、北の方(四の君)の膝を枕にしています。
「こないなことして貰うて、罰が当たらんかいな。」
「罰なんぞ、当たる訳ござりませぬ。」
「さよか…………ありがとう。」
「何がで、あらしゃいますか?」
「私の妻になってくれて……こないな顔で……。
大納言さんみたいなこと……出来へん男やのに……。」
「何を言わしゃいますのやら……。」
「……………?」
「他の方の北の方でございましたなら、こないな時を過ごせへんかったと思うので
ございます。
殿さんやから……私はおよしよしやと何遍も言うてます。」
「……そやった。……そやったなぁ……。
………ありがとう。」
「それは、私の言葉でございます。」
「なんでや?」
「今日はほんまに……有難いことを私のお父さんの為にしておくれやした。
お父さんはお喜びさんであらしゃいました。
ありがとう。」
「……四の君……。」
「……もう、ええ加減、北の方と呼んで下さりませ。」
「そやな。そやった。……ほな……き…北の方。」
「はい。」
⦅お父さん、大納言さんばかりにお言葉を掛けましゃった。
なんで、目に入らんのやろ……。
あないに……。
堪忍え。殿さん………堪忍、え。⦆
大輔は四の君の膝を枕にして、転寝をしています。
少し寝息を立てながら……その大輔の髪を優しく撫でながら、四の君は「大切な殿さん。」と囁きました。
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横になっている孝子を見ている公廉は、⦅失いとうない。失いとうないのや。⦆と幾度も心の中で叫びました。
娘も妻も失いたくはありません。
娘も良くなっていません。
妻も良くなる兆しすらありません。
上の息子は何かにつけて来てくれます。
下の息子も遠方の赴任先から来てくれました。
公廉はもう一人の子のことを思い出します。
「大君」と呼んでいた最初の女の子のことを……。
孝子の二度目の出産でした。
「大君」が生まれたのは……。
生まれて間もない二月後に「大君」は、その短い一生を終えました。
初めての子は上の息子で「太郎君」と呼び、その次に生まれた子でした。
それから、孝子は下の息子「次郎君」を授かり、そして最後の子が娘です。
娘は「大君」と呼びました。
早世した「大君」のように……。
「大君」は健やかに成長し、北の方に成り、子を産みました。
孝子の寝顔を見ながら公廉は⦅孝子は……大君がおかくれ遊ばしましたら……孝子も……おかくれに……。それは……嫌や! 誰も失いとうない。⦆と思いました。
おひなる…起きること。
落忌…落とし忌みの略、精進落としのこと。
おひしひし…盛大に。
およしよし…良いこと。
おとしめし…老人。
きゃもじ…華奢な、綺麗な、清潔な。
おかくれ…亡くなること。




