三の君
孝子の願いは「娘の快癒」です。
そのための写経を「娘の快癒」が叶った時に終えるのが最良です。
それを祈りつつ、念じつつ、一文字一文字に命を吹き込むように写経を進めています。
そんな日々に嬉しいことがありました。
遠くの赴任地に居る下の息子が、京の都にやって来たのです。
帰って来たとは言えません。
直ぐに戻るのですから……。
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三の君は、「今日はお見え遊ばしますやろか、今日こそは……。」と別れた夫の中納言を思って待っていましたが、中納言からは何の音沙汰も無く八講は終わってしまいました。
あまりに情けないと思い悩む魂が三の君の体から抜け出て、中納言のもとへ飛んで足を止めたのでしょうか。
中納言は、八講が終わって源中納言邸を出ようとした時に、暫く立ち止まって、三の君の弟の左衛門佐を呼び止めました。
「なんで、そないに余所余所しゅうしましゃるのや?」
「どないして前のよに、おちかぢかしゅう出来ますのでございましょう。」
「昔は、おちかぢかしくしておりましたことをお忘れでござりますか。
どないしていますのや、お息文字でしたか。」
「お息文字、とは何方さんのことであらしゃいますか?」
「三の君のことや。私が他に誰のことを尋ねると言わしゃるのや。」
「存じませぬ。邸の中にはおることでございましょう。」
「ほな、こないお伝え下さい。
いにしへに たがはぬ君が 宿見れば 恋しきことも かはらざりけり
⦅昔と変わりないあなたの邸を見て、あなたへの恋しさも昔と変わらない。⦆
と……。
『世の中は(=今は他の妻がいるので、そちらが妻です)』と言わしゃることで
ございましょう。」
そう言って、中納言は源中納言邸を出て行きました。
左衛門佐は⦅おこたえだけでも、お待ち頂けなんだ。あもじに何の名残も、何も無いのやなぁ……。⦆と思いました。
左衛門佐が三の君の部屋に入って、「中納言さんは、こない私に言い置いて、邸を出て行かれました。」と語ると、三の君は⦅私のおこたえが返ってくるまで、暫しの間、お待ち下されば宜しのに。こないに冷とうなさるくらいなら、なんで、こないな歌をおくれやしたのやろ……。ああ……。⦆と、返事をすることもで出来ず、そのままやり取りも出来ずに終わってしまいました。
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「お母さん……。」
「もう、お目見え叶わぬと思うておりましたのえ。」
「お母さん、そないなこと言わしゃらんといておくれやす。」
「お目見え叶うて……この上のう……嬉しゅうござりまする。
お息文字の御様子、良うござりました。」
「はい。」
「北の方さんは? お息文字であらしゃいますか?」
「はい。有難いことに……。」
「おこは?」
「はい。有難いことに……。」
「良うございます。………ちと……。」
「お寝り遊ばされますか?」
「……そないさせて頂きましょう。
あ………。」
「どないなさいました?」
「其方も、北の方さんも、おこも……お息文字であらしゃいますよう……。」
「お母さん。」
「それだけが……私の望みでございます……え。」
「ありがとう、お母さん。……もう、お寝り遊ばされませ。」
「……そや…な。」
下の息子は公廉と共に、孝子が眠りに就くまで傍を離れませんでした。
おちかぢかしく…親密な。
おこたえ…返事。
あもじ…姉。




