衛門督の妻
公廉は娘の初めてのお産が無事に済むように祈っています。
加えて、妻の孝子の身体も平癒するように祈っています。
婿がやって来てからは、加持祈祷も増えました。
来るのが遅くなって申し訳ないと、婿が言いました。
婿はそれっきり言葉は無く、ひたすらに無事の出産を祈り続けています。
公廉は、孝子の傍に行きました。
「孝子、娘は幸せや。
婿さんが加持祈祷だけやのうて、心からお祈りましゃっておいやしてな。
前の婿さんより、ええと思うた。
孝子、其方も早う、おねっき、うすく……孝子……。」
公廉は苦しそうな孝子の手を取り、自分の額を当てて身動きしませんでした。
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越前守は源中納言邸に帰ると、中納言に衛門督の言葉を伝えて、北の方に衛門督から渡された包みを渡しました。
北の方は、⦅けもじなことやわ。衛門督さんから、しんじられものやなんて……。⦆と包みを引き寄せて開けてみますと、入っていたのは北の方の鏡箱でした。
⦅これは、落窪にやった鏡箱や! なんで、なんでやの!!⦆と、北の方は心が騒ぎ、肝を冷やしています。
衛門督からの贈与品だとばかり思っていた包みの中に入っていた鏡箱の底には、間違いなく落窪の君の筆跡で和歌が書かれています。
驚きのあまりに北の方の目は見開き、口は塞がりません。
⦅ここ数年、はもじ ばかりやったのは、落窪のせいやったんや!!⦆と思えば思うほど、ひどく腸が煮え繰り返り、落窪の君を憎らしい思いました。
その憎いと思う気持ちは、この世に二つと無いほどの憎しみです。
北の方は、邸中を狂ったように騒ぎまわり、建物が揺れ動くほどです。
憤懣遣るかたない北の方と違い源中納言は、衛門督に家を取られて仇のように思っていましたが、⦅落窪がしたことやったんやなぁ……。生きてたんやなぁ……。⦆と思えば罪にも思えません。
今までかかされた恥の数々も忘れて言うのです。
「あの子は子らの中で一番に運が強い子やったんやなぁ。
なんで、あないに疎かにしてしもうたんやろう。
あの三条の家はあの子のお母さんのもの、あの子のものになるのが道理や。」
「三条の邸はともじされましゃいました。
けど、この数年間をかけて植え込み造りこんだ草木は、こちの物でござります。
引き抜いて運び出し、持って帰って来なはれ!
別の邸をこしらえる足しに!」
と北の方が腹立ちまぎれに怒鳴り散らして言いましたので、越前守は呆れてしまいました。
「お母さん、なんで、そないなこと言わしゃります。
まるで、他人に物を言うようであらしゃいます。
こちは大して頼りに出来る人があらしゃいませぬ。
それどころか人と会うたびに笑われまする。
『面白の駒は、どないなさってあらしゃいます?』と……。
お母さん、衛門督さんは主上からのご寵愛は誰よりも深うて……。
面白の駒とは違いますのや。
そないな衛門督さんと兄弟の仲になれるやなんて……
私は、およしよしやと思うております。」
と言うと、大夫(三郎君)が口を挟みました。
「いいえ、今お母さんが仰せ遊ばしましたことは、前とお変わりましゃりません。
越前守さんは遠い越後におわしゃった故、ご存知であらしゃいませぬ。
今までお母さんが落窪の君にいけずましゃいましたことを……
ほんまに、えらいことであらしゃいました。」
「お母さんが落窪の君を?
いけずって、どないなことをしなさったんや?
話しておくれ。」
「落窪お姉さんは、 おいとしいこと であらしゃいました。」
と、北の方が行った落窪の君への所業をこと細かに語りました。
「阿漕は、どないに言い触らしたことやろか……。
私に『必ずお越しあらしゃいませ。』と言わしゃったと越前守さんは仰せ遊ばし
ますが、お母さんのいけずしゃいましたことを思えば……。
私は落窪お姉さんに御目文字叶わんと思うております。
それほどの はもじ をお母さんは落窪お姉さんに……。」
「ああ、何ちゅう事を……。
私は任国に居て、何も知らなんだ。
あさましい事をしてくれましたね、お母さん。
衛門督さんは、お母さんの仕打ちの数々を心に留め置き遊ばされて、
この源中納言家に はもじ を……。
衛門督さんは、私らをどないに…つたない……ねたもじの者やと……
思召されてあらしゃいます……やろか……。」
と、越前守は恥じて戸惑っています。
こうして息子たちに責められた北の方は反論しました。
「ああ! 静かにおしやす! 物言わしゃるな!
今さら騒いだとて何になると言わしゃるのや!
あの子が……ねたもじやった。そやから、いけずした。
ただ、それだけや!」
もう誰も北の方に話をしません。
越前守は三条邸のことを話し続け、「少納言や侍従の君も、あの三条邸に居てたんや。」と言うのを聞いて、女房達は愕然としました。
⦅私らは、なんで今まで三条の落窪の君を頼りもせんと、
こないな邸にしがみ付いて、何遍、はもじな目に遭うたんやろか。⦆
そう思うと、三条邸に移った女房達が羨ましく妬ましく、若い女房達は浮足立ちました。
「今からでも遅うないわ、衛門督さんの御邸に参りましょう。」
「落窪の君は、お心が優しい方やから……。」
「お仕えが叶いまする。」
落窪の君の姉妹は、「情けなや。」と嘆いています。
その中で三の君は、自分の夫を取った憎い女性の家族なので、今回の件で源中納言家と衛門督の一族が近しくなり、別れた夫の話を聞くことを⦅ねたもじ……や!⦆と思いました。
中納言は、今までの仕打ちのことなど全てすっかり忘れて、自分の娘が当代きっての名家に嫁いだことを手放しに喜んでいます。
日頃から自分の立場も危うく、老い衰え、人々に侮られていることを嘆いていた。そんな折にこんなに顔が立つ事があると知り、とても嬉しげに出掛けようとしました。
「今日はもう日が暮れてしもうたよって、明日にしよ。」
と断念しています。
北の方は、その中納言の浮かれた様子を見て、⦅私の子らよりもあの落窪を誇らしゅう思うてあらしゃることやろなぁ……。⦆と、胸を痛めていました。
三の君は言います。
「そやから、今までの仕返しのために、
清水寺に詣でた折りに『懲りたか』などと仰せ遊ばしましたんや。」
「落窪の君との妹背の契りは、こないして、いずれ私たちの耳に入ることやという
のに……。」
「えらい仰山のはもじをかかされたことやろか………。」
「立て続けに女房が辞めていったのも、落窪の君が招き寄せたからや。」
「長年のお母さんの仕打ちを根にお持ちしゃいまして
……恨めしい、仕返ししたると思わしゃいますんや。」
北の方は……言いました。
「そや。それが私の胸を痛めますのや。
こないに仰山のはもじをかかされたんや、どないかして仕返しをしてやりた
い。」
「今はそないなこと思わしゃいますな。
源中納言家には他にも婿が仰山居ます。
その方々にまで害が及ばんように、つたないお心はお捨て下さい。」
「ああ、それにしても典薬の助をこっぴどく打たせられましゃったのは」
「ずっと根に持っている事がおありやったからなんやなぁ……。」
「衛門督さんは、落窪の君がお受けましゃった数々の仕打ちを
ご存知であらしゃいますのやな……。」
と、口々に言い合って夜を明かしました。
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「吾が君さん……。」
「孝子! おひなったか!」
「吾が君さん……。」
「なんや?」
「おひや、を……。」
「分かった!」
ゆっくりだが、水を少し飲んだ孝子を見て、公廉は少し安堵しました。
「孝子、聞こえるか?」
「はい。」
「あれはな、其方のおひろけと娘のお産がおするするに……と。
孝子、娘のお産が始まったんや。」
「まぁ……それは、おするするに……。」
「そや! おするするに御生まれ遊ばしたら、其方、おなし……
其方がおなしを、な。」
「………はい。おなしさせて……下さりませ。」
「孝子、お粥はどないや?」
「…………まだ……。」
「しんどいか……ゆるゆると、な。」
「………はい。」
孝子が目を閉じたのを見て、公廉が振り返ると、そこに長男が居ました。
「お父さん、お母さんのお声がしました。」
「今、おひなってな。」
「おひなり遊ばしましゃいましたか!」
「うむ。」
「お寝まりであらしゃいます。」
「うむ。……それで、なんや?」
「いえ、お母さんのお顔を拝したくて参りました。」
「さよであるか。お産は?」
「おするするとは……なかなか……。」
「そうか……。」
男とは何も出来ぬものだ!と公廉も長男も思いました。
おねっき…熱。
うすく…下がること。「おねっき、うすく」=「熱が下がる」
けもじ…奇妙な。
しんじられもの…贈与品。
はもじ…恥ずかしいこと。
ともじ…取られること。盗むこと。
こしらえる…買う。
およしよし…良いこと。
おわしゃった…居られた。
いけず…意地悪。
おいとしい…気の毒。
つたない…卑しい。
ねたもじ…妬ましいこと。
おひなった…起きた。
おひや…冷水。
おひろけ…病気が治ること。
おなし…抱くこと。
お寝まり…寝ること。




