三条邸への引っ越し
娘のお産が始まりました。
公廉は床に臥している孝子の傍から離れがたく、ただただ、娘の出産が無事に終わることを祈り続けています。
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衛門督の邸には、引越しに向けて女房に装束の一揃いを与えましたので、衛門督に仕えてほどない女房達は、分け隔ての無い待遇に、嬉しいことと思っています。
源中納言の邸では、邸に運び入れた物だけでも返して貰いたいと思い、人を三条邸に遣りましたが、「入れて頂くことは叶いませんでした。」と言うので、北の方は大変悔しがりました。
「衛門督さんは、源中納言家にどないな恨みが御有りやというんやろか?
なんで私をこないな目に遭わせましゃいます?」
「お母さん、今はどないも出来しませんえ。
『物だけでもお返し下さりますよう……』と言うたら、
『早うお運び出してあらしゃいますよう。』と穏やかに仰せ遊ばしました。
そやけど、使いの者を邸の中に入れて貰えへんのでござりますよって……
争えることもあらしまへん。
出来るなどと、たかが知れていますのや。」
と、ただ皆で集まって衛門督を呪っています。
戌の刻頃に衛門督の一行は三条邸に引っ越しました。
牛車は十輌ばかり連なって、儀式も立派に執り行いました。
衛門督が車から降りて新しい邸を見ると、屏風や几帳を立て、畳も一面に敷かれて、寝殿は完全に出来上がっていました。
この手の込みようを見ると、⦅女君の言わしゃる通りに源中納言さんはどないな思いを……。⦆と気の毒には思いましたが、北の方には、⦅『口惜しい!』と思い知りなはったら宜しい!⦆とも思いました。
女君は、中納言の心中を推し量っては、引越しも新しい邸も全く楽しめず、ただ中納言を気の毒に思っていました。
衛門督は「源中納言家が運び入れた調度品はお返しする物や。失くさぬように!」と命じました。
三条邸では、このように衛門督の一行が忙しくしていました。
一方、中納言邸は「衛門督さんは御わたましましゃいましたか。」と人を遣り見て来させました。
「このように、大層めでたい様子で御わたまししてあらしゃいました。」と伝えるので、「今は権力が無いから、どないもこないも出来へん。」と皆が集まって嘆いています。
四月の早朝、越前守が三条邸にやって来ました。
「今日こそは荷物をお返し下さりますよう、お頼み入ります。女房らの櫛の箱など、入り用な物もござります。」越前守が、切羽詰まって言うのを、衛門督はとても面白がりながら、目録どおりに全ての品を返しました。
「そうや。あの昔の、古い蓋つきの鏡箱はあるか。
この荷物に添えてお返ししよ。
何せ、北の方が『宝』のように思召された物やから。」
「衛門が持っております!」
衛門督が言った鏡箱を、衛門は小躍りして喜んで取り出しました。
古ぼけた鏡箱を初めて目にした女房達は、「まぁ、あらあらしい鏡箱でござりますこと!」と笑う。
衛門が女君に進言しました。
「女君さん、おさっと、お書きしゃいまして、この鏡箱に御添え遊ばすのは、
如何でござりましょう。」
「そないなこと……そなたさんは、おいとしいと言うに……。
そないな時に私が三条邸に居ることをお知りましゃいますと……
おもなしと思召し遊ばされます。
衛門、私には……。」」
「女君さん、其方はそのまま……お書きましゃいますと宜しい。」
「殿さんまで……。」
「さあ、さ……。」
「殿さん……。」
衛門督に言われて、女君は鏡箱の敷き板をひっくり返し書きました。
「明け暮れは 憂きこと見えし 増鏡 さすがに影ぞ 恋しかりける」
⦅昔は明けても暮れても悲しい姿を映していたこの澄んだ鏡ですが、それでも今となっては恋しいものですよ。⦆
衛門督は、これを色紙の一かさねに、何か枝に付けて、「越前守を呼ぶから、これを渡しておくれ。」と言って、衛門に渡しました。
衛門督は越前守を呼びました。
「私がこないなことをしたら、どない思わしゃりますかと心地無く…。
『持ち主に何も言わしゃりませず、御わたましましゃいます。』と耳にして、
不審に思うて、こないなことをしたのでござります。
そなたさんの気分を害した詫びも、私みずから入れさせて頂きましょう。
ここの地券も確かにご覧に入れ、申し上げるべきこともあります。
『今日明日あたりに必ずこちへお立ち寄りください』と源中納言殿にお伝えま
しゃいますよう。
そなたさんも今はお困りの事がござりましょう。
時が参りましたらならば、私がおとぎ致しましょう。」
と、堂々と立派な態度でそう言いました。
越前守は衛門督の言葉を信じられません。
「源中納言さんに、必ず我が邸に立ち寄られましゃいますよう。
その折には、越前守さんもご一緒に。」
衛門督にそう言われて、越前守は了解して部屋から出て行きました。
衛門督の部屋から出ると、妻戸のそばに衛門がよこした使いの者が居ました。
「帰る前にこらにお立ち寄りましゃいませ。」
と言われたが、三条邸の女房に面識がないはずの越前守は、一体誰に招かれたのか覚えがありません。
⦅けったいやなぁ……。⦆と思いながら、言われるままにその部屋へと立ち寄りました。
そこには衛門が御簾の向こうからとても美しい様子で袖をさし出して言いました。
「これを、北の方にお渡しあらしゃいませ。
以前、北の方が大事に思っていらせられた物でござります。
今までこちらで失くならないよう大事に保管しておりました。
今日そちらさんのお荷物をお返致しますことで思い出した次第でござります。」
と言って包みを差し出しました。
越前守は⦅けったいなことを言う。⦆と思い聞きました。
「何方さんからやと言うたら、ええのや。」
「これをご覧であらしゃれば、思い出して下さりまする。
私のことも、『声ばかりこそ。』と思召されましゃいませぬか?」
越前守は、ようやく声の主が阿漕だと気付きました。
⦅阿漕やないか。この邸に居たんやな。⦆と思い答えました。
「『ふるの都』を忘れていらせられる其方を、
なんで昔の顔見知りのようにお話出来ましょうや。
けど、この邸を訪れる折りには、其方を見知った者として訪いましょう。」
「まだ居りましてござりまする。」
と声が聞こえて、御簾の向こうからまた一振りの袖が出て来ました。
⦅少納言の声やないか?
けったいなことや。
この三条邸には我が邸に仕えていた女房らが居てる……。⦆
と越前守が思っていますと、また奥から声がしました。
「『目並ぶ』と言わしゃります。
物の数にも入らない私が居ました所で、そなたさんはお驚きさんであらしゃいま
せぬ。」
とこの声の主は、中の君の傍に仕えていた侍従の君です。
侍従の君は越前守のかつての想われ人で、越前守も時々通っていた相手でした。
こうしてあちこちから現中納言家の女房の声で言葉をかけられるので、越前守はすっかり混乱し、⦅なにんでや? 何が何やら分からへん。⦆と気が動転して返事も出来ません。
衛門は重ねて、源中納言家でただ一人気になっていた人について尋ねました。
「越前守さん、源中納言さんに三郎君と呼ばれましゃいましたお方がいらせられま
した。
お息もじであらしゃいますか。
御冠は御済みであらしゃいますか。」
「ええ、この春の除目で五位の叙勲を賜り、大夫になりました。」
「三郎君に、『必ず三条邸にお越しましゃりませ。御目文字の上、お話したき事が
ござりまする。』とお伝え下さりませ。」
「承知致しましてござります。」
越前守は衛門に渡された包みの中に何が入っているのか早く知りたくて、急いで三条邸を出ました。
三条邸を出た越前守は、先ほどまで居た邸の様子を思い出して思いました。
⦅もしや落窪の君が衛門督の妻やないか?
そやから阿漕や少納言や……侍従の君……女房らが仕えてるのやないか?
そうや、阿漕も三条邸では、ええ暮らしぶりやった。
それに、何や。この誂えたかのよな揃った女房らの顔は。
皆、こちに居た女房らや。
まぁ見知らぬ他人が居てはるよりはええか。⦆
顔見知りに会えて嬉しいのは、越前守が遠い任国に居て、実家で北の方が落窪の君にした残忍な虐待の数々を見ていなかったからにほかありません。
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娘のお産がなかなか進みません。
初産だからだけではなく、難産のようで公廉は神仏に祈り続けました。
加持祈祷をして……無事に終わることを祈り続けました。
「孝子、ちらと おそそもじや。」
「…………。」
「おするすると……いかへんなぁ……。
おするすると御生まれましゃること祈るしかないのや。」
「…………。」
苦しそうに寝ている妻に…孝子に無事な出産を報告したい公廉です。
戌の刻…夜の八時。
あらあらしい…粗末な。
おさっと…簡単に。
おいとしい…気の毒な。
おもなし…面白くない。
おとぎ…相手をすること。
声ばかりこそ…昔懐かしい声。
ふるの都…昔の居場所。
目並ぶ…美人がたくさんいる。
お驚きさん…お驚きになること。
お息もじ…御息災、御元気。
御冠…元服。初めて冠をつけること。
大夫…五位。
ちらと…ちょっと。
おそそもじ…遅いこと。
おするすると…ご無事に。




