賀茂祭
孝子は少しばかり体調が良い日は、部屋から庭を眺めたり、落窪の君の物語を書き進めたりしています。
公廉は無理をしないで欲しいと思いつつも、何も言わずに孝子がしたいように過ごさせています。
そのような日々を送っている二人に、娘から懐妊の知らせを受けました。
「あの子が……お母さんに……。」
「そうや。色々あったけど、な。」
「おするする……しか言葉がございませぬ。」
「そうやな……。初めてのお産やから、其方が傍に居てやって……な。」
「はい。」
「無理せんといてや。 おびあがり まで傍に居たって、な。
ええか、其方がお息文字やないと出来へんことや。」
「はい。初めて、この手に孫君を抱きとう存じまする。」
「無理したら、あかん。ええな。」
「はい。……生きる望みを見つけられました。」
「孝子! 何ということを言うのや。」
「吾が君さん、お怒りあらしゃいませんように……。
幸せなんでございます。孝子は……この上のう幸せにござります。」
「孝子……。」
公廉は無意識に孝子の身体を抱き締めていました。
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落窪の君は三位の中将と二条邸で幸せに暮らしていました。
そして、落窪の君が懐妊し、中将の喜びは一入、今までも大切にしてきた落窪の君をより一層大切にしています。
四月には賀茂祭が始まります。
中将の母である左大将の北の方から「桟敷で賀茂祭を共に見物致しましょう。」と招かれました。
中将の母は、「二条のお方を、祭り見物にお連れであらしゃいますか? 見物をお考えあらしゃいますなら、ご一緒にさせて頂きとう存じます。私は一度、お目に掛かりたいと思うてます。二条のお方にお聞きあらしゃいませ。」」と言うので、中将は母が落窪の君に興味を示していることを喜びました。
「なんでか、あの人は他の人みたいにあれを見たい、これをしたい、
そないなこと言わしゃらぬのです。
ええ機会ですよって、今に唆して連れて参ります。」
そう言って、中将は二条邸に戻り、落窪の君に賀茂祭の話をしました。
「お母さんが賀茂祭見物にお招きあらしゃいました。」
「有り難いことでございます。
有難いことやと思うておりますけど、この頃は悪阻で気分が悪うて……
お腹も大きゅう見苦しゅうなっておりますし……。
物見に出たら、この姿を人目に晒してしまいます。」
「何方さんが見はるというのです?
私のお母さんといもじだけでございます。
私のお母さんといもじらやから、それは私が其方を見るのと同しこと。
そない思うのは……どないでございますか?」
「殿さんのお心のままに……。」
落窪の君の快い返事を貰えぬままです。
すると、中将の母から文が届きました。
「御出で遊ばしませ。面白い祭り見物も、『此度は共に』と
心から楽しみにしております。
中将のいもじらもお目に掛かりとうございます、と申しております。
私もいもじらもご挨拶させて頂きたいと思うてます。」
中将の母からの文を見るにつけ、あの石山詣の時に、継母が落窪の君を誘いもせずに、一人落窪に捨て置いて行かれてしまったことを思い出して、忘れていた悲しみの中に落窪の君は陥ってしまったような心地がしました。
そんな落窪の君に中将は、「良い折やと思います。我が母は其方に好ましゅう思うてあらしゃいます。いもじらは其方と同じ年頃、仲良うして頂けたら喜びます。」と言うので、落窪の君は勇気を振り絞って行くことにしました。
賀茂祭当日、左大将家一行は一条大路に檜皮の桟敷を建て、御前には砂を敷き、前栽を植えさせ、まるで何年も住める邸のように造り上げました。
落窪の君は衛門や少納言をお付きの女房にして、左大臣家の賀茂祭見物に行きました。
落窪の君達、二条邸の者は朝早くに左大臣家のへ桟敷に着きました。
素晴らしい桟敷に上った衛門と少納言は、⦅まるで極楽浄土に生まれて来たようや。⦆と思いました。
そして二人は落窪の君を北の方がまるで卑しい者のように言い罵るのを見ていましたので、今は中将の母方の人間たちが落窪の君を労わり寄り添う様子を見て、「何て嬉しいことでございましょう。こないな日が来ようとは思いも寄りませなんだ。」と喜び合いました。
乳母は様々に落窪の君を悪しく言っていたことを忘れたかのように、のこのこと出てきては落窪の君に気配りをしようと、「惟成の主人の奥の御方は、何方においやすのでございますか?」と尋ね歩いて、若い女房に笑われています。
中将は優しく落窪の君に言いました。
「なんで私の家族が其方を疎ましく思うものですか。
親と子なぞ、仲良う遊ばしゃることが叶うなら、
後々お気が楽であらしゃいましょう。」
そして、落窪の君を中将の妹で天皇の后の上の君や、蔵人の少将の妻になった中の君がいる所へと連れて行きました。
中将の母が落窪の君を見ますと、自分の娘や孫の姫宮にも劣らない美しさでした。
紅の綾の、打ち出して艶を出した袷を一襲、二藍の織物の袿、薄い着物の濃い二藍に染めた小袿を着て、身重な姿を「恥ずかしゅうございます。」と少し含羞んでいる様子がとても優美です。
上の君の娘の姫宮は、まことにただ人とは違い高貴で気高く、まだ十二歳ととても若く、稚く美しい方です。
中の君は若く落窪の君と同じ年頃ですので、⦅お美しい方……。⦆と思い、落窪の君とあれこれ語り合いました。
落窪の君は楽しい時を過ごしましたが、そのうちに物見が終わりました。
誰もが車を桟敷に寄せて帰って行きます。
中将は⦅早う、二条に帰ろう。⦆と思いますが、中将の母が落窪の君に美しい笑みを向けました。
「祭り見物中は騒がしゅうて、思うようにお話が出来ませなんだ。
女君(落窪の君)を、こちの邸へお誘いしたいものでございます。
一、二日ほど、お話を致しとう存じます。
中将さんが何か仰せあらしゃいましても、お気にされずに……。
ね、どうぞ御出で遊ばしませ。」
「さよでございます。
お兄さんが大事に思し召し遊ばされて二条邸もお楽しいと存じますが、
今日は二条邸へお帰りなさいましゃらず……ね、お母さん。」
と左大将家へと誘いました。
落窪の君は源中納言家に居た頃のことを思い出し、あの頃が夢の中での出来事だったのではないかと思うほどに、今の左大将家の方々の優しさが心を包み込みました。
車を桟敷に寄せて、前には姫宮、中の君、後ろには中将の母と落窪の君が乗りました。
女房も次々と乗り込み、中将の一行も皆乗って、引き続いて左大将邸へと向かいました。
左大将邸では、寝殿の西側を急いで宿泊出来るよう掃除をし仕度して、そこに落窪の君を降ろしました。女房たちの居所には、中将の住んでいた西の対を端に部屋を作りました。
左大将邸では、二条邸の人間を大層持て成しました。
左大将も落窪の君が可愛い長男の妻なので、女房に至るまで大事に持て成して賑やかに騒ぎました。
落窪の君は四、五日の間、左大将邸に居ました。
「辛い時期が終わりましたら、また、ゆるゆるとお邪魔させて頂きとう存じます。」と言い、落窪の君は二条邸へと帰って行きました。
中将の母も、こうして会った後は、落窪の君をますます愛らしいと思うようになりました。
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娘の所へ通ってきている夫の訪問を受けました。
「お息文字であらしゃいましたか?」
「ありがとう。」
「ありがとう。私は、 おむさむさ でござります。」
「それは、何よりのことであらしゃいます。」
「それよりも何よりも、お目出度たいことであらしゃいます。」
「ありがとうござります。」
「おするするとお生まれ遊ばしあらしゃいますよう……。」
「はい。私の願いも、その一つでございます。
……それで、私は北の方に迎えとうござります。」
「なんと……!」
「北の方さんにお迎えであらしゃいますので?」
「はい。」
「それは、嬉しいことにございます。」
「ありがとうございます。」
娘は出産後に北の方として、夫の邸に迎え入れられることが決まりました。
おするする…ご無事に、の意味です。
おびあがり…産後の枕なおしのことです。枕なおしとは、産婦が出産の床から起き出して平常の起居状態に復すること。また、その祝いを言います。
お息文字…御息災、お元気、の意味です。
いもじ…妹。
桟敷…貴人が物見をする高床。屋敷にそなえる場合もあります。
檜皮…檜の皮。寝殿造に使う高級木材です。
前栽…植え込みです。
一襲…一枚。
おむさむさ…軽症。




