破談
孝子は公廉に書いたばかりの落窪の君の物語を読んで貰いました。
「吾が君さん、後でお話は承らせて頂きます。
今は………。」
「早よ、横に……。」
公廉は孝子がこの場で倒れてしまうのではないかと案じました。
そして、孝子が床に就き休むまで傍を離れませんでした。
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急ぎ三位の中将の元へやって来た惟成は中将の言葉を聞き、爪弾きをはたはたと鳴らしました。
「お母さん、なんで、あないなことを言いましゃった。
中将さんの御心は立派な心栄えやと思わしまへんか。
今の中将さんとお姫さんの仲は、何方さんも引き離せまへん。
お母さんは中将さんを華やかな家のお姫さんと妹背の契りをさせて、
己が旨い汁を吸いたいだけなんやろう。
ああ、こないな情けないことはあらへん!
人並みな人やったら、お二方の仲を引き裂いてでも己が思いを遂げようとは思わ
へん。
何が落窪や。それが何やと言うんや? それの何が悪いと言うんや。
お母さんはおとしめして他人さんを僻むような人であらしゃいますか?
こないなこと、お姫さんのお耳に入ったら、どないに深こうお悲しみあらしゃる
ことやろう。
もう金輪際こないなこと言わんといておくれやす。
中将さんの御心は立派なもんで、もう動かしようもあらしまへん。
お母さんはそないに右大臣家からのお礼を頂戴したいと思わはったんですか?
そんなもんのうても、惟成がお母さん一人くらい不自由ないようにせもじさして
貰いますのに。
こないに欲が深い人は、罪深いもんや。
また、お母さんがこないなことを言い出しはったら、私はその罪を清めるために
法師になるしかないやないか。 ああ、情けない。」
「おこたえをする間ものう頭ごなしに言うやなんて、酷い子や。」
「想い合うお二人の仲を裂くことは、酷うないって言わしゃりますの?」
乳母はなんとか言い返そうとしましたが、惟成が上手く返しました。
乳母は息子の帯刀に言いくるめられ、悔しい思いをしています。
「誰が中将さんにすなわち『去りたまへ』『捨てたまへ』と言いましたか?」
「違うとでも言いはりますの? 新しい妻を招くようなことしはったのに……。」
「ああ、もう五月蠅い子やわ!
思うたことを外に出すだけでも悪いと言いはるの。
なんで、そないに大袈裟に言いはるの。
其方の妻があのお方の女房やから、こないに五月蠅う言うのや。」
「やはり、お母さんは中将さんを唆そうと考えてはるね。
ほんなら、惟成はすなわち法師になります。
お母さんに罪がかかるのはあはれやから、親が後世で罪を償っているのを、
なんで見捨てて置けると思う。」
そう言って、剃刀を脇に抱えて持っていました。
「また、けもじなことを言い出しはったら………私はすなわちにでもかき切って
しまいますわ。そないするしかあらへん。」
「そないな縁起の悪いことを言わしゃるな、ほんまになってしまいますやろ!
そこに挟んだ剃刀は、打ち折ります。さ、見ておいで。」
⦅中将さんは聞く耳あらしゃられへんし、可愛い我が子はあないなことを言うし。このお話がふいになったことを、右大臣邸にお話せな、ならん。⦆乳母はそう思いました。
⦅この話を聞いたからやったんやな、あないに様子が違うてたんは……。⦆そうと分かった中将は、早速、二条邸に行きました。
「其方のおふできは、私の罪やと分かって嬉しいです。」
「何事でございます?」
「右大臣家のお姫さんのことでしょう?」
「……嘘……でございます。」
落窪の君は微笑んで移り気のことなど案じていないと言わんばかりに取り繕いました。
「ああ、水臭いこと……。
私はもしも主上が皇女さんを私の妻にと仰せ遊ばされましても、
お断り致します。
最初に申したことを御覚えであらしゃいますか。
私は『ただ辛い目には遭わさへんように』とだけ考えています。
女人は『夫の移り気が一番辛い』と聞いておりました。
そやから、私はその筋のことは全て絶えさせました。
これから周囲が何を言おうと、『そんなはずがない』と澄ましていはったら、
宜しのや。」
「さあ、そないなこと仰せ遊ばすのも、『下くづれ』るからやも……。」
「『お慕い申し上げています』だの何だの、甘い言葉こそ『危い』と言うとくれ。
私は『ただただ辛い目に遭わせへん』と言うているのやから、そんな曖昧な志と
一緒にして貰うては困ります。」
惟成は衛門に会いました。
「もう中将さんを疑わんといて欲しい。
来世のことまでは知らんけど、兎に角、現世では落窪の君が悲しむ姿を見せは
ったら、中将さんが許しはりまへん。」
乳母は言いくるめられて、もう、どこかの姫君との妹背の契りの話など口にしなくなりました。
「移り気は無いと強い御心でお通いあらしゃいます女人が……。」と右大臣の邸に伝えて、この話は破談になりました。
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床に就いた孝子は筆を持ちたいと公廉に言いました。
「あかん! やめとき。」
「吾が君さん、物語が進みまへん。」
「其方の身を削ってまで書くこと無い。」
「あれは、私の子やと思うてます。
二人の息子も、娘も読んでくれはりましたえ。」
「待ってくれるやないか。」
「吾が君さんも、お楽しみにお待ちやと……。」
「ええ! ええのや。物語より其方の身が私は大事なんや。
分かってくれるな。 もう、お寝り。」
「はい。」
眠りに就くまで孝子の傍を離れられない公廉です。
眠っても離れがたく……孝子の細い手を己が両手で優しく包みました。
妹背…夫婦。
おとしめし…老人。
おこたえ…返事。
すなわち…直ぐに。
あはれ…可哀想。
けもじ…奇妙な。
おふでき…気分が悪いこと。
「下くづれる」は、
「あだ人は 下くづれ行く 岸なれや 思ふと言えど 頼まれずして」
⦅「貴女を想う」と言われたって、浮気っぽい人の言う事なら当てにならないわ。まるで下から崩れていく岸のように、頼り甲斐がないんですもの。⦆
という古今和歌集の歌のことを指しています。
酷いことを言っているように思えますが、当時の「男性のことを試すような言葉を言う」という風習と雰囲気からちょっとした冗談での言葉だということです。
お寝り…お休み。眠ること。




