8.
「ごきげんよう、殿下」
アラセリスは咄嗟に頭を下げた。一般市民がどのように王族と接するかがわからず、言葉を選び間違えたかもしれないとひやひやする。
「頭を上げていい。君の名前は? ここの関係者か」
彼の目的がなんなのかはわからないが、職場で嘘をつくことはできない。落ち着いて名乗ろうとしたとき、遅れて応接室から郵便局の局長、デリンガーが顔を出した。
「ああ、アリアス君! いいところに」
デリンガーは五十代前半の男である。丸眼鏡が特徴的で腰が低く、人当たりもいい。ただ少し気弱で、権力者にはさらに弱くなる。
「殿下、彼女がアリアスさんです。今日はお休みでしたが、休日になるとパンをお裾分けしてくれるんですよ」
デリンガーは額の汗をハンカチで拭きながら、アラセリスを紹介した。
小麦の香りが漂うパンを紙袋いっぱいに持っていたら、局長の発言が本当だと納得できるだろう。
(待って。さっき「彼女が」って言った? つまり、リーンハルト様は私を知ってる……?)
どっと背中に冷や汗が流れ落ちそうだ。こんな展開は予想していなかった。
恐る恐るリーンハルトに視線を向ける。少し前の写真で見た通り、彼は記憶の中よりも頬がこけて痩せていた。目の下の隈がくっきり浮かび、中途半端に伸びた髪はひとつにくくっている。
爽やかだと評されていたときの面影は見当たらない。青い双眸は冷たい海の底のようで、アラセリスの身体がぶるりと震える。
「デリンガー局長。彼女と話がしたい」
「は、はい! 応接室をお使いください。アリアス君、くれぐれも、くれぐれも! 丁重にね」
そう言い残して、デリンガーは去ってしまった。アラセリスはまだこの状況を受け止め切れていない。
(ど、どうしよう……! 一体なにがどうなっているの……!?)
リーンハルトが応接室の扉を開けた。王族が平民のアラセリスのために扉を開けるなど、それだけでも卒倒ものである。
「失礼します……」
下手なことを言ったら首が飛ぶかもしれない。マリアンネだったときに知っているリーンハルトは紳士的で優しかったが、騎士団の副団長をしているのだ。ただ優しいだけの男には務まらないだろう。
一体どんな目的でアラセリスに会いにきたのかがわからず、緊張から吐き気がしそうだ。
応接室の長椅子に向い合わせで腰を下ろす。ここはつい先日、レベッカと楽しい時間を過ごした場所である。
室内にはもうひとり、従者と思しき若い男性が立っていた。騎士団の制服を着用していることから、恐らくリーンハルトの部下のひとりだろう。
「さて、君の経歴はほとんど白紙だな。バルシュミーデ伯爵家の推薦で四月からトレンメル支店の代筆課に所属しているとだけ書かれているが、間違いないな?」
「は、い……」
まるで尋問だ。どうやら騎士団の仕事の一環でアラセリスに会いに来たらしい。
(私、なにかまずいことをしたかしら。ここに来てからは犯罪めいたことなんてひとつもしていないけれど)
罪と言えばマリアンネの棺から這い出たことだけ。
元々はアラセリスの協力者である竜王の従者が、マリアンネの亡骸の身代わりを見つけて棺に入れる予定だったが、ちょうどいいタイミングで身元不明の遺体が見つからなかったそうだ。そう聞かされたアラセリスは、身代わりなんて不要だと説得した。
(誰もお墓を暴こうなんてしないって言ったんだっけ。そんな死者を冒涜するようなことをリーンハルト様がするはずもないし、カロンの国王夫妻がマリアンネ様を引き取りたいと思うはずもないって)
マリアンネはカロン王国の離宮に幽閉同然で育った。外の世界を知らない可哀想なお姫様だ。そんな状況から助け出したのが、アラセリスの義兄の竜王である。
疎ましく思っていた王女が亡くなったからと言って、カロンで弔いたいと思うはずがない。たとえ元王女でも、嫁いだ国に墓が作られるから。
「君の出身地は? 年齢や家族構成は? 教育はどこで受けたんだ」
やはり尋問で正解だった。ここでアラセリスが質問をする度胸はない。
(出身も家族も、本当の名前もわからない。でも、そんなことを馬鹿正直に伝えたら怪しまれるだけ)
アラセリスは姿勢を正す。侮られないように真っ直ぐリーンハルトの目を見つめて口を開いた。




