4.
少し寝不足な瞼をこすりながら、アラセリスは身支度を整えた。
トレンメルで働きはじめてから早半年。季節は六月に入り、少しずつ夏の日差しを感じはじめている。
時間通りに出勤後、デスク周りの清掃とインクの補充など、細々とした雑務をこなして準備を進める。便箋の枚数が減っているため、新しく発注をすることにした。
夏を感じさせる季節のカードも、そろそろ出番がやってくるだろう。可愛らしいひまわりの花は特に人気が出そうである。
いつも通り局長の朝の挨拶を聞いてから、各自業務に取り掛かる。この日はアラセリスを指名した予約が入っているため、少し長めのお昼休憩を取る予定だ。
午前中にふたりの依頼をこなした後、予約時間に見知った人物が現れた。
「ひと月ぶりね、アリス。元気にしてた?」
「レベッカ様、お待ちしておりました」
伯爵令嬢のレベッカが訪れた。貴族令嬢が現れたとなり、局長は慌てて顔を出す。
「バルシュミーデ伯爵令嬢、ようこそ郵便局へ。今日はどのようなご用件で?」
「ごきげんよう、デリンガー局長。今日は彼女に代筆の依頼をしに来たのよ」
「それはそれは……アリアス君、応接室へお通しして」
局長に命じられた通り、アラセリスはレベッカを応接室へ案内する。貴族の使用人が訪れることはあっても、貴族令嬢が自ら郵便局に足を運ぶことは稀なのだろう。
「局長、随分汗をかいていたわよね。今日はそんなに暑いかしら」
ハンカチで額の汗を拭っていた。よほど緊張したのだろう。
「私は別にいつものブースでいいんだけどね」
「レベッカ様は目立ちますので……それに私も、個室で気兼ねなく話せた方がうれしいです」
レベッカはアラセリスの二歳下の十七歳だ。金色の巻き毛と緑の目が華やかな美女である。彼女の推薦で郵便局に就職が決まったため、アラセリスは恩義を感じていた。今ではレベッカは親し気に、アラセリスの愛称で名前を呼んでいる。
「それでどう? 仕事は順調?」
「はい、おかげさまで。ありがたいことに、ご指名をいただけることも増えてきました」
「でしょうね。私も聞いたわよ? アリスに清書をしてもらった恋文を渡したら、告白が百パーセント成功するっていう話。一種のおまじないみたいになっているんじゃないかしら」
アラセリスは慄いた。つい先日、その噂を聞いたばかりである。
「あの、それって一体どこからそんな噂が……?」
「さあ、噂の出どころはわからないけれど、若い女性が何度か来たことがあるんでしょう? それで自然と話が大きくなったんじゃない? きっと貴族と繋がりがある女性がいたんだと思うわ」
淹れたてのお茶を啜りながら、レベッカがほくそ笑んだ。貴族令嬢が知ったとなれば、噂が広まるのも早いと言いたげである。
彼女は自分に先見の明があったことを得意げにしている。自分こそがアラセリスにこの職を紹介した張本人だと、悦に浸っている顔だ。
(まあ、レベッカ様がうれしそうだからいいのかな)
悪い噂なら困るが、いい噂なら放っておくことにした。きっと興味本位で依頼をしてくる人も現れるだろうが、それも今だけだろう。
アラセリスはレベッカの依頼を受けて、用意されていた封筒の宛先に名前と住所を記入する。十通ほどなのでそれなりに時間はかかるが、その間はレベッカが世間話をすることが多い。
「社交界といえば、この間久しぶりに夜会に参加したんだけど、どことなく変な感じがしたのよね。ほら、第二王子妃のマリアンネ様が逝去されてから、夜会は自粛になっていたでしょう? でももう半年が経ったから、ようやく解禁されたのよ」
レベッカは久しぶりの夜会に気合を入れて参加したらしい。だが、そこで妙な違和感を抱いたそうだ。
「ダールベルク伯爵家のヘレナ様も参加していたんだけれど、以前お見掛けしたときと全く印象が変わっていて、思わず持っていたグラスを落としそうになったわ」
「印象が変わっていたとは?」
書き終えた封筒を乾かしながら問いかけた。次の宛名に移り、ペン先をインクの小瓶に浸す。
「それがヘレナ様ってすごく地味で大人しくて……まあ、いい意味で貴族の傲慢さとはかけ離れた人なの。ご婦人方の取り巻きの後ろにひっそりと隠れているような、目立つことが嫌いで自己主張もしない伯爵夫人って感じだったんだけど」
ヘレナは二年前に政略結婚で、ダールベルク伯爵の元に嫁いだ。夫とは十五歳も離れているらしい。性格は控えめで、夫を立てる控えめな伯爵夫人だったが、先日の夜会では真逆の印象になっていたそうだ。
「真っ赤な口紅を塗っていて驚いちゃった。しかもドレスは紫よ。今までは目立ちたくないことがわかるような、地味な色合いだったのに。しかもいつもは受け身な方なのに、積極的に彼女の方からいろんな人に話しかけていて社交的だったわ。まるで別人になったみたい」
今回の夜会はレベッカの友人に誘われて参加したらしい。ヘレナの変貌ぶりに、友人も心配になったほど悪目立ちしていたそうだ。
「実は自粛期間中にストレスが溜まっていたのかしら? って、噂になるくらい。でもそれがヘレナ様だけじゃなくて、他にも印象が異なる方がいたらしくて」
急に自信家になったり、積極的に意見を主張するようになったり、取り巻きから離れたりと、様々な人間模様を目撃したらしい。
だが自粛期間が長すぎたことで、溜まっていたなにかがあったのだろうという結論に至ったそうだ。貴族社会も我慢を強いられることが多いため、解放したくなる気持ちは理解ができるのだとか。
「なるほど。つまりヘレナ様は、本来のご自身を取り戻されたのでしょうね。嫁ぎ先で意見を言いにくかったこともあると思いますから」
「まあ、そうよね……って、なんだか実感がこもってない?」
アラセリスはドキッとした。一般論を告げただけだと答えるが、うまく取り繕えただろうか。
(いけない、レベッカ様って妙に勘が鋭いところがあるんだった)
急いで残りの封筒の宛名も仕上げて、インクを乾かす。この後のお昼休憩はレベッカと共にカフェで食べる予定なのだ。
話題を変えるために、アラセリスは咄嗟にリーンハルトについて問いかける。
「噂の第二王子殿下も夜会に参加されたのですか?」
「いいえ、殿下はまったく。多分一年は喪に服したままなんじゃないかしら。以前はよくお姿を拝見したけれど、今はどこにもそういった集まりには出ていないそうよ。時々新聞に騎士団の記事が載るくらい」
「やはりそうなのですね」
貴族が集まる場にも顔を出していない。騎士団の仕事と政務に集中しており、社交の場には姿を現さないつもりなのだろう。
貴族の間でも、第二王子を心配する声が上がるらしい。まだ二十三歳で若い彼ならいくらでも再婚が可能だが、それを勧める時期は慎重に見極める必要があるというのが大方の意見だそうだ。
「私は恋愛初心者だから想像しかできないけれど、たとえ政略結婚だったとしても愛情は生まれていたんだと思うわ。そもそも、あのリーンハルト殿下を嫌える女性っていると思う?」
「えっと……」
アラセリスは返答に詰まった。まさか元夫に対する気持ちを正直に告げるわけにはいかない。
(一般論よね。私がどう思っているかではなくて)
「噂しか知りませんが、殿下は素敵な方ですよね。爽やかな微笑と金の髪が相まって、ひだまりのような印象だったかと思います」
「ええ、そうよ。もうザカルディアの貴族令嬢はみーんな、リーンハルト殿下と結婚がしたかったもの。王太子妃は荷が重いけど、第二王子妃ならぜひ! って、立候補者が殺到していたくらい」
(そうだったの? 知らなかった!)
アラセリスは驚いた。モテるだろうとは思っていたが、独身の令嬢たちが王子妃になることを夢見ていたほど人気が高かったとは思わなかった。
(私、美形に対する免疫が自然と高くなりすぎていたのかもしれないわ……お義兄様やフィデル様とか、竜族の方たちは目が覚めるほど見目が麗しいから)
リーンハルトもかっこいいとは思っていたが、一目で心を奪われるほどの美男子だとは思わなかった。竜族は無意識に見る者を魅了させるため、自然と抗体ができていたのだろう。
アラセリスは人の美醜にあまり関心がないが、リーンハルトの魅力は外見だけではない。傍にいるとほっと落ち着けるような、優しい空気感が最大の魅力だと思っていた。年齢はアラセリスの四歳上だが、大型犬のような魅力のある王子だ。マリアンネの前では笑顔しか見せていなかっただろう。
「まあ、だからカロンの王女を嫁がせるという話を聞いたときは、失恋した女性たちが多かったのも事実だわ。でも、そのおかげで余計な騒ぎを避けられた面もあるのよ。どの家から妻を貰っても、貴族のバランスが崩れるんじゃないかって噂されていたから」
王太子妃は高位貴族の令嬢から選ばれる。王太子夫妻は幼い頃に婚約していたため、すんなりと成婚ができたそうだ。
まさか第二王子妃という立場にこれほど魅力を感じる女性が多かったとは知らず、アラセリスは慄いた。嫉妬を買った女性に毒殺されていた可能性もあるかもしれない。
(そういえばリーンハルト様はよく人前で、私の飲み物を毒味してくださっていたけれど……あれって私を害する者たちへの牽制だったとか?)
「つまりマリアンネ様って、嫁ぐ前から注目の的だったのよね。でも現れたご本人が儚げで守ってあげたくなるような美しい方だったから、令嬢たちも戦意喪失状態だったそうよ。殿下がマリアンネ様を見つめる目も愛情深くて優しかったから、愛人に立候補したがる不届き者もいなかったんですって」
リーンハルトはマリアンネを失って、深い悲しみと後悔に苛まれているのだろう。そう、レベッカは痛ましい表情で締めくくる。
彼は、自分が傍にいたのに守れなかったことを悔やんでいるのだろうか。マリアンネの死因は病死であり、誰のせいでもないというのに。
(私がもう少しうまく死を偽装できていたら……でも、誰かに罪を着せるわけにはいかないから、あれが最善だったはず)
寒い冬の日の朝、マリアンネは目を覚まさなかった。眠るように死んだのだ。
心臓が止まっていることを発見したのは、マリアンネを起こしに来た侍女だった。続いてリーンハルトが現れて、死亡を確認した……という噂を聞いている。
(でも血を流したらもっと心の傷になると思うし、やっぱり眠るように死んでいたというのが一番無難では? 私も痛い思いをしなくて済むもの)
幸いなことに、一度仮死状態になったアラセリスの身体には後遺症がない。竜族に伝わる秘薬と時間停止魔術のおかげだろう。
「これ以上外野があれこれ言っても仕方ないわよね。時間と共に殿下の傷も癒えることを願うしかないわ。で、そろそろお腹が減ったわよね? お昼に行きましょう」
「ええ、そうしましょう」
そうレベッカに促されて、アラセリスはインクが渇いた封筒をまとめて彼女に手渡した。
前を歩くレベッカの金の髪に、なにかがきらりと光る。
「あ、レベッカ様の髪にゴミが」
「ええ? ヤダ、取ってくれる?」
髪に付着していたのは蜘蛛の糸だった。郵便局の入り口に蜘蛛の巣があったのかもしれない。
正直に伝えるのは憚れたので、アラセリスは一言「埃でした」とだけ告げる。指に付着した蜘蛛の糸は、制服のポケットに入れていたハンカチで拭うことにした。




