31.
虫除け香水の効果は凄まじかった。リーンハルトとアラセリスは互いに異臭を放っているため、恐らく人間も寄り付かないだろう。
「この臭いは、時間と共に薄れるんだろうな」
「持続時間は半日程度だったと思いますが、全身をくまなく石鹸で洗い落とせば大丈夫です……多分」
屋敷の中を歩きながら軽口をたたく。虫取り網とかごは不要だと判断し、アラセリスのポシェットにしまった。蜘蛛は共食いをするため、同じかごに入れていたらグロテスクな光景を見るかもしれないからだ。
リーンハルトが銀後家蜘蛛を見つけ次第剣で退治し、アラセリスはひしゃくで秘薬入りの水をばらまく。特に蜘蛛は部屋の四隅で固まっているため、一度に水をかけやすい。
「十匹じゃきかない……一体どれだけ繁殖しているんだ」
赤子の手ほどの大きさの蜘蛛が目視でわかる。おぞましさにゾッとする。
「と、とにかく、早くレベッカ様を見つけましょう」
冬眠状態になって動かない蜘蛛を見やり、アラセリスは急ぎ足で階段を駆け上がる。あちこちに蜘蛛の巣が張り巡らされているのが恐ろしい。
(一日、二日でこんなことになるの?)
果たしてレベッカは加害者か被害者か。違法薬物だと知りながら手を出して広めていたのだとしたら、リーンハルトはどのような処罰を下すのだろう。
容赦なく剣を振るい蜘蛛を退治する様は頼り甲斐がある。彼は王子だが、守られる側ではなく守る側を選んだ人だ。
屋敷の二階に到着する。奥の部屋は扉が開いていた。
「アラセリス、俺が先に部屋に突入する。君は下がっていろ」
「わかりました」
念のためもう一回、虫除けの香水をリーンハルトに吹きかける。彼は眉を顰めて「臭い」と苦情を言ったが、アラセリスは「私もです」と答えた。
カーペットの上を歩く蜘蛛を殺して、ふたりは部屋の奥で倒れているレベッカを見つけた。
「レベッカ様! 大丈夫ですか?」
「……なんで、ふたりがここに?」
意識があることにホッとした。だが彼女の足は蜘蛛に噛まれた跡がある。
「身体がびりびりして、歩けないみたい」
「大丈夫です。解毒剤を持っています。それとオリヴァー様も無事ですからね」
「オリヴァー、よかった……私、こんなことになるなんて思わなかった。ヘルムフリート様にお願いされて、たった一匹蜘蛛を飼育していただけなのに……」
ぽろぽろと泣き出すレベッカに薬を飲ませる。幸い水差しとグラスがテーブルに置かれていたため、それを拝借できた。
「レベッカ嬢、詳しい事情は後で聞く。オリヴァーの部屋で蜘蛛を飼育していたんだな?」
彼女が頷いたのを確認し、アラセリスはバケツとひしゃくを手に取った。
「わかりました。では私が部屋を見てきます。リーンハルト様はここでレベッカ様の傍にいてあげてください」
「待て、女性を行かせるはずがないだろう。オリヴァーの部屋に行くのは俺だ」
「カミル様との約束を破って屋敷に乗り込んでいるのですから、殿下はこれ以上出しゃばらない方がいいと思います。ここでお待ちください」
「でしゃば……君は、自分の身なら危険に晒してもいいと思っているんじゃないだろうな」
扉へ向かっていたアラセリスは立ち止まった。彼は何故、当たり前のことを言っているのだろう。
「王族と平民の価値は同じではありませんよ」
「……っ」
眉間に皺を刻んだ顔も絵になる男だ。けれどリーンハルトはやはり、笑顔が一番魅力的である。
「すみません、言葉が過ぎました。ですが、私なら問題ありません。解毒剤もありますから」
それになにより、虫除けの効果が絶大である。オリヴァーの部屋が毒蜘蛛に乗っ取られているのなら、早く冬眠状態にさせておいた方がいい。
「……君とは後でじっくり話し合いが必要だ。逃げるなよ、アラセリス」
苦々しい言葉を受け止める。リーンハルトの気持ちはうれしいが、やはりアラセリスは、自分の命と王族の命に同等の価値があるとは思えなかった。
「別に、死に急いでいるわけではないんだけどね」
オリヴァーの部屋に巣くう蜘蛛の巣に、残りのバケツの水をすべてぶっかけた。
活動を停止させた銀後家蜘蛛は禍々しいのにどこか美しい。
(リーンハルト様は私のことも大事に想ってくれているのがわかってうれしかった)
彼の好意に嘘は感じない。軽口を叩けるような関係が心地いい。
けれどリーンハルトがアラセリスを守ろうとするのなら、彼の傍にいることは難しい。
アラセリスは誰かに守られないと生きられないようなお姫様にはなりたくない。庇護欲を誘い、整備された道を歩いて、箱庭の中で生きていくなど我慢できそうにない。
遠くからバタバタと駆け寄る足音が聞こえてくる。応援の騎士が到着したことに気づき、スカートのすそについた蜘蛛の巣をさっと手で払った。




