29.
『お前が男だったらよかったのに』
一体何度同じ台詞を言われたかは覚えていない。口癖のように娘にぼやく父を見るたびに、レベッカは笑顔のまま冷ややかな気持ちになった。
そんな願望を言われても困る。生まれてくる性別を間違えたとなじられても、レベッカは一度たりとも男になりたかったとは思っていない。
おしゃれが好きで、可愛いものも好き。綺麗なドレスを着て、素敵な殿方と恋がしたい。
けれど少し口が達者で度胸のある娘に、父は家を任せたくなったらしい。
年の離れた息子が生まれたとき、両親の喜びようはすごかった。なかなか子供ができず、待望の跡取りがようやく生まれたのだ。貴族として厳しく育て、立派な伯爵にしようと思っていたことだろう。
だが弟のオリヴァーが成長するにつれて、彼らは次第に落胆した。
怖がりで臆病で気が弱く、内気で人見知り。興味があることは虫の観察と生き物の生態だけ。
同年代の子供と遊ぶより、オリヴァーは庭の片隅で何時間でもアリの行列を観察するような子供である。剣を振るうことも勉学に励むこともせず、家族以外とはまともに会話もままならない。
自分の欲求を通し、好きなことをしていても許されるのは、精々年齢が一桁までだろう。ある程度成長したら、貴族としての生き方と振る舞いを身に着けなくてはいけない。
だがオリヴァーが十一歳になっても、彼は屋敷の外には出たがらない。人間の友人はできず、自分だけの世界に閉じこもる。
このまま成長したらどうなる。到底家督を譲ることは難しい。父は息子を後継者の器ではないと判断した。
そしてオリヴァー自身も、社交の場に出ることをひどく嫌がった。彼は人の目を怖がる傾向がある。だがそれも彼の個性だ。レベッカは一度たりとも、オリヴァーを否定しなかった。
怖いことがあるなら、ひとつずつ気にならなくなるように克服していけたらいい。ひとりで外に出られないなら、自分が付き添って傍に居る。
けれどオリヴァーにとって、それはお節介だったのかもしれない。あるいは、物怖じしない性格で誰とでも仲良くなれる姉が疎ましかったのだろう。
いつしか彼はレベッカの婚約者とばかり交流をするようになり、レベッカを避けるようになった。
最初は戸惑い、寂しかったけれど、レベッカは無理やり自分を納得させた。
『あの子にはきっと、年上で頼りになる身内以外の男性が必要だったんだわ』と。
男同士の会話というものが大事なのだろう。レベッカだって貴族令嬢の集まりや、新しくできた友人との付き合いはいい息抜きになっている。
父が選んだ縁談相手だったが、レベッカはヘルムフリートを信用していた。
子爵家の嫡男で、年齢は二十二歳。輝かしい美貌の持ち主ではないけれど、温厚で落ち着いていて、なんでも話せる包容力があった。
だから彼から『魔法の薬』の話を聞いたとき、レベッカの心が傾いた。
なりたい自分に近づける、理想の自分になれる。そんな薬の成分表と調合の仕方を、ヘルムフリートが外国から入手したらしい。『秘密だよ』と言われたときは、なんだかドキドキした。秘密という響きが甘美で、少しだけ大人に近づいた気がしたからだ。
数か月ぶりに開かれた夜会で、別人のように性格が変わっていた貴族たちは、魔法の薬で自信をつけた人たちだった。
最初はおかしいと思っていたが、気弱な心を隠してなりたい自分に近づけるように、少し背中を後押しするようなものなら服用してもいいのではないかと思うようになった。
ヘルムフリートは、今はまだ新薬の試験中で、国に承認を申請している最中だと言っていた。それが正式に下りれば、もっと多くの人の心を軽くすることができるらしい。
『でも、危なくないの? 副作用とか、身体に影響は?』
レベッカの問いに、ヘルムフリートははっきり問題ないと答えた。適量を守り、期間を空けて使えば依存にもならない。
そしてそれを服用しはじめたオリヴァーは、見違えるように明るくなった。はじめて自分から屋敷の外に出たいと言い出したとき、レベッカは感動した。必ず誰かが傍にいないと、馬車から降りることもできなかったのに。
相変わらず虫が好きなところは変わらなかったが、オリヴァーの笑顔は格段に増えた。レベッカを避けることなく、両親とも会話が成り立つようになった。
極度の人見知りが治れば、次期伯爵としての教育も可能になる。父と母は泣いて喜び、ヘルムフリートに協力するとまで言い出した。
これでいい、みんなが幸せになれる。
そう思いつつも、レベッカはずっと心の中で「本当に?」という疑惑を抱いていた。
素晴らしい薬だけれど、レベッカは使いたいとは思えない。そもそも国が正式に承認していない薬を広めるという行為はどうなのだろう。
それって罪にはならないのかと、ヘルムフリートに問いかけたけれど、彼は一言『大丈夫』と言うだけ。レベッカは少しずつ、不信感を募らせた。
理想の自分に近づける魔法の薬。すごくときめく響きだけれど、自分の力で努力して手に入れたものにこそ価値があるのではないか。
そう思いつつも、薬を服用して喜んでいる人たちがいる。笑顔で幸せだと言うのなら、やはり悪いものではないのかもしれない。
(そうよね……だって、助けられている人もいるんだもの。他国では許可がされているんでしょう? ザカルディアで承認が降りるのも時間の問題で、ヘルムフリート様は問題なく通るって言ってたじゃない)
お役所仕事は時間がかかる。馬鹿正直にただ待っていたら、今苦しんでいる人を助けられない。目の前で悩んでいる人がいたら手を差し伸べたくなるだろう? と言われ、レベッカは頷いた。
ちょっと順序が違うだけ。人助けならいいのではないか。
そう自分自身を納得させているときに、ヘルムフリートはレベッカに協力を依頼した。
虫が好きなオリヴァーに、蜘蛛の飼育をしてほしい。屋敷の一室か、使っていない納屋を借りられないかと。
その蜘蛛は薬の材料になるそうだ。蜘蛛の成分が入っているとは思わず、レベッカは眉を顰めそうになったが、オリヴァーはヘルムフリートによく懐いている。家族で頼っている相手を無下にはできず、その願いを受け入れた。
たった一匹、蜘蛛を飼育するだけである。それにオリヴァーはきちんと虫かごに入れて管理する。
それなら大丈夫、問題ない……そう思っていたのに、いつの間にか蜘蛛が屋敷内で大量に繁殖していた。
「もう、ヤダ……どうしてこんなことに……!」
銀色に輝く蜘蛛が屋敷のいたるところに巣をつくっている。かさかさと動く音だけでもおぞましくて、幻聴が聞こえてきそうだ。
何度箒で蜘蛛の巣を払っても追いつかない。蜘蛛を攻撃すると飛び掛かってくるため、もはや素人の手には負えなくなっていた。
昨晩からオリヴァーは熱でうなされている。腕や脚には蜘蛛の噛み痕があり、ヘルムフリートに任された蜘蛛が毒蜘蛛だったことをはじめて知った。
繁殖と成長速度がおかしい。赤子の手のひらほどの大きさの蜘蛛がオリヴァーの身体を這っていたときは、あまりのおぞましさに悲鳴を上げた。
弟を守りたくて、使用人まで被害を出したくなくて、蜘蛛を退治しながらレベッカは自分の婚約者に利用されたことに気づいた。
ひとつ疑いだしたら、次々とおかしな点が思い浮かぶ。
もしかしたら国が承認できるような薬ではなかったのではないか。彼は純粋なオリヴァーを言葉巧みに操り、利用したのではないか。
魔法の薬なんていう言葉で惑わされただけで、あれは猛毒の類だったのではないか。
(やっぱり……魔法なんて言葉に騙されちゃいけなかったのよ!)
一瞬でも素晴らしいなんて思った自分を恥じる。違和感を無視するべきではなかったのだ。
ヘルムフリートが穏やかで包容力があると感じていたのも誤りだった。よく見たらあの男の目には、なんの温度も感じなかったではないか。
「お嬢様、早くお逃げください!」
そう侍女に促された瞬間、レベッカの足首に鋭い痛みが走った。
「いた……っ!」
カサカサと、一匹の蜘蛛が逃げていく。噛まれたことに気づいたが、動けない痛みではない。
「屋敷の窓と扉は全部施錠して、誰か人を呼んできて! 絶対に外に逃がしちゃダメ!」
両親は領地の伯爵邸に戻っている。トレンメルの別荘にはレベッカとオリヴァーのふたりと、使用人しか滞在していない。
今日は夏至祭でどこも賑わっているはずだ。万が一敷地から毒蜘蛛を逃がしたらとんでもない騒ぎになるだろう。
(ああ、本当なら今日はアリスとお祭りを楽しんでいるはずだったのに……っ)
待ち合わせ時間はとうに過ぎている。はじめて不義理なことをしてしまった。
誰か人を回したいが、屋敷がこんな状態だ。
もしも他の人に相談ができていたら、こんなことにはならなかっただろうか。せっかく騎士団の副団長とも知り合えたというのに、オリヴァーのことを詳しく話すのは憚れた。父が出来の悪い息子のことを苦々しく思っていたことが影響していたのかもしれない。
貴族の矜持が邪魔をした。選択を誤った。何度も相談ができる機会はあったのに、自分から困っているなんて言いたくなかった。
(大バカ者だわ。後悔するくらいなら、洗いざらい話したらよかったのに!)
足が少しずつ痺れだす。毒の影響だと気づいたとき、レベッカの顔がくしゃりと歪んだ。蜘蛛に噛まれて死ぬなんて悔しすぎる。
「誰か……助けてっ」
そう叫んだとき、玄関が勢いよく開かれた音がした。




