22.
嫌じゃなかった。それがアラセリスの本心だ。
だが当然ながら認めるわけにはいかない。死んだ妻とわずかな共通点を見出して追いかけてくるような男など、常識的に考えれば危険人物である。
彼はマリアンネの幻影に囚われているだけ。新たな恋をしたいと思っていないことくらい、恋愛経験が乏しいアラセリスも理解していた。
そしてアラセリスも、いつまでもマリアンネの身代わりの責任を取りたくはないし、いい加減自分の幸せだけに集中したい。
お互い過去に囚われるべきでないと言いたいが、残念ながらアラセリスが言える立場でもなかった。
(ああ、もう……この人に嘘をつきたくないって思うんだから、厄介すぎる)
どこか懇願するような眼差しがいけないのだろう。捨てられた子供のような目で見つめられたら嘘を通しにくい。これ以上は良心の呵責に苛まれてしまう。
結果、なにも答えないことを選んだ。
「黙秘します」
「はあ? 待て、ここで黙秘はズルいだろう」
「なにがズルいんですか。ズルいのは殿下でしょう? だから私、言いましたよね。男女の友人なんて成立しないんだから無意味ですって。結局こういう面倒なことになってるじゃないですか!」
リーンハルトは女性に怒られた経験が乏しいのかもしれない。彼はばつの悪い顔でたじろいでいる。
「それは、その……確かに一理あったなと」
「はい? なんですか? もっとはっきり喋ってください。まさか殿下は友達同士とはキスをしても問題ないという価値観があるわけではないですよね?」
「あるわけないだろう! 妻にだって一切触れなかったのに」
「唇以外にはキスしたくせに!」
アラセリスはつい勢いのまま発言した。心の中で漏らした独り言のつもりだったが、口から零れていたらしい。
自分の失言に気づいたとき、リーンハルトに両肩を掴まれた。
「今のはどういう意味だ」
「……っ!」
興奮と驚きと混乱が混じった顔をしている。ようやく真相に辿り着けそうなもどかしさをひしひしと感じ取り、アラセリスは息を呑んだ。
(しまった、うっかりマリアンネのときにしか知らないことを言った……)
なんとしてでもごまかさなくては。
慌てたアラセリスは咄嗟に「一般論です」と言い切った。
「おい、なんだその雑な言い分は。一般論なんかでごまかされるわけがないだろう」
「殿下は貴族の常識しかご存じないのでは? それにちょっと言い間違えただけです。どうせ唇以外にはキスしていたのでしょう? って、言いたかっただけで」
「いいや、ごまかされないぞ。今のは明らかに知っている口調だった。アラセリス、白状しろ。俺になにを隠してる?」
リーンハルトの右手がアラセリスの髪の毛をどかした。うなじに直接触れられて、背筋にぞくっとした震えが走る。
「いい加減教えてくれ。俺はただ、真実が知りたい」
「あ……」
喉がひりつく。心拍数が上がり、急に口内が渇いたようだ。
もうすべて話してしまえばいいという気持ちと、義兄の許可なく勝手なことは許されないという気持ちがせめぎ合う。
(竜の国は、地図上に存在しない。知っている人はカロンなど、ごく一部の王族のみ)
そもそもリーンハルトがおとぎ話のような話を受け入れられるとも思えないが、大国のザカルディアならなにかしら文献が残っていてもおかしくない気がした。
「誰をかばっている。なにを知っている?」
彼の指先がアラセリスの首筋を撫でる。その指がペンダントの鎖に触れた。
彼が一言「鍵?」と呟いた瞬間、アラセリスは咄嗟に彼から距離を取ろうとした。
「待て、あぶな……っ」
リーンハルトの指に鎖が絡んで、留め具が外れた。
アラセリスの鍵が首から落下し、橋の上で甲高い音を響かせる。
「え……あっ!」
キンン……、とした音が鼓膜を震わせた直後、大事な鍵が鎖ごと橋の欄干の隙間に吸い込まれた。
「嘘、待って!」
慌てて手を伸ばすが、鍵は満月を映した川へ真っ逆さまに落ちていく。
ぽちゃん、と無慈悲な音が響いた。
(鍵が川に落ちちゃった!)
「すまない、俺の指が引っかかったせいだ。なんの鍵だったんだ?」
リーンハルトが謝罪した。素直に謝られると詰る気にはなれない。
「大事な鍵ですが、今のは事故ですので……」
欄干を掴んだまま川を見下ろした。
川の水面に映った満月が不自然に揺れて、青白い光を放つ。
(まさか、今ので扉が開いたの……!?)
満月を映した湖だけではなく、川でも扉が現れるらしい。
このまま川へ飛び込んだら国へ帰れる。アラセリスは焦燥感に駆られた。
(帰るなら今しかない。鍵は一度しか使用できないから)
けれどもう二度と、リーンハルトたちとは会えなくなる。中途半端な気持ちのまま国に戻ったら後悔しないだろうか。
(ううん、一度帰ってから、どうにか交渉して扉を開けてもらうことはできるかもしれない。誰かに連れてきてもらうことだって不可能じゃないはず)
ただの人間であるアラセリスは、自力でザカルディアに入国することはできないが、竜族の魔術を使えば可能だ。義兄に頼み込んだらきっと叶えてくれる。
アラセリスは衝動的に欄干に乗り上げようとし、背後からリーンハルトに抱き留められた。
「おい、危ないだろう! まさか飛び込むつもりじゃないだろうな!?」
「離して、今飛び込まないとっ!」
せっかく開いた扉が消えてしまう。
青白い光は徐々に弱まっている。帰るなら今しかないが、リーンハルトの強固な檻から抜け出せそうにない。
「落とした鍵は俺が責任を持って探すから早まるな。川の様子も変だ」
「そうじゃないんです、光が……!」
体感的には十秒ほどだろうか。青白い光が消えて、いつもの景色に戻ってしまった。
完全に扉が閉じたのだと悟る。アラセリスは脱力した。
「ああ……」
消えてしまった。帰れなくなってしまった。
一度きりしか使えない鍵は、扉の中に吸い込まれたのだろうか。それとも川の底に沈んだのだろうか。
「あの光はなんだったんだ。なにか危険な魚でもいるのかもしれない」
「……青白く発光する淡水魚がいるとは思えません……」
(……どうしよう)
身体から力が抜け落ちる。リーンハルトに抱きしめられていても気にならないほど呆然としていた。
「事故とはいえ俺に責任がある。悪かった。今から川へ降りて探しに行く」
「川に入るなんて危険です。というかあなたは王子なのですから、昼間だとしてもそんなことはさせられません」
なにか便利な道具がポシェットに入っていなかっただろうか。遠くのものでも掴めるような伸縮性のある棒とか……などと考えていたら、突然リーンハルトに手を繋がれた。
「わかった、準備をすればいいんだな。行くぞ」
「え、はい?」
落とした紙袋も彼に拾われた。どこへ連れて行かれるのかもわからないまま、アラセリスはリーンハルトに着いて行くことになった。




