21.
雑貨店の後、アラセリスは本を数冊購入した。義兄たちへの土産なら、消え物よりも本がいいかもしれないと思ったのだ。
一度に買ったら荷物になるため、数回通うことにする。
(また仕事帰りにも行く機会はあるわよね。今度はゆっくりひとりで来よう)
夏至祭が終わったら、アラセリスは竜の国へ帰る。移動の扉が見つかれば、問題なく帰国できるだろう。
すべての私物はポシェットに収納したらいい。他に心残りなことは、お世話になった人たちへの挨拶だ。いつ済ませるべきかを考えつつ橋を渡っていると、背後から声をかけられる。
「茶葉を買いたいと言っていたが、それは誰にあげるんだ?」
「……殿下、まだついてきていたんですか?」
夕暮れ前にレベッカとは別れた。そこでリーンハルトとも別れたつもりだったが、彼はアラセリスの後を追っていたらしい。
「先に質問をしたのは俺だ。君は誰に贈り物をするつもりなんだ?」
嘘を許さない、真意を見透かそうとする目だ。この目で直視されると、アラセリスは視線を逸らしたくなる。
「殿下の知らない人ですよ」
「そんなことを訊いているんじゃない。どこに住んでいる誰にあげるんだ」
(まさか違法薬物の受け渡しを疑われている?)
まだ疑いが晴れていなかったのだろうか。職業柄疑うことが仕事とはいえ、嫌な気分には変わりない。
「それは騎士としての尋問ですか? では黙秘権を行使します」
少し前までのアラセリスには考えられないことだが、随分強気で逞しくなったようだ。再会した当初は罪悪感で押しつぶされそうだったが、図太くなれたのかもしれない。
「君の狭い交友関係は把握している。故郷に頼れる人もいなかったからトレンメルに来たんだろう」
表向きの経歴のことを言っているらしい。記憶力の良さを思い出し、アラセリスは少しげんなりした。
ちょうど橋の中間地点で足を止めた。ここはアラセリスの憩いの場で、橋の上から眺める川の景色が好きだった。
「殿下には無関係です。それに私にだって、ちょっと深い関係になった人のひとりやふたり……」
「どこのどいつだ?」
「……っ」
距離をつめられた。顎に指をかけられて、否応なしに視線を合わせられる。
怒気が混じった低い声が恐ろしい。急に肌寒さを感じる。
彼は不機嫌なのを隠しもせず、眉間に皺を刻んでいた。そんな表情も絵になる男だが、見惚れるわけにはいかない。
「殿下に答える義務はありません」
以前のアラセリスなら怯えていたかもしれない。だが、今は違う。少しずつだが自分の気持ちを表に出して、意見も主張できるようになってきた。
誰かのために行動するのではなく、自分を優先してもいいのだと、ようやくわかってきたのだ。
「そうだな、義務はない。だが君の身辺調査の報告書には、そんな男はいなかった」
「堂々と身辺調査をしたと言える神経が理解不能ですね」
隠し事をするつもりもないのだろう。彼と再会したときを思い出す。
「私は犯罪はしていませんよ」
「今はそんな話はしていない。どこのどいつと深い仲になったのかと訊いている」
なにかが嚙み合っていないようだ。アラセリスは自分の言葉選びがおかしかったのではないかと気づいた。
(深い関係って言ったけれど、それってまさか、身体を許した相手がいるのかと思われてる……!?)
急に顔が熱くなってきた。今まで恋人と呼べるような異性はいなかったというのに、自分から勘違いさせるような発言をしていたらしい。
「ち、違います! 変な誤解しないでください。深い仲とか、そんな人がいたわけじゃなくてっ」
「何故急に慌てるんだ。やはり誰をかばってるんだな? 職場に関係を持った男がいるのか。まさか不倫……」
「ちょっと、変な想像もやめてください! というか、いい加減手を離し……んっ」
唇に柔らかな体温が伝わった。時間差で唇を塞がれたのだと気づく。
(……なんで?)
目を閉じることも忘れて呆然と立ち尽くす。手にしていた紙袋が落ちた衝撃で、ハッと我に返った。
ただ唇が合わさっただけ。それ以上でも以下でもないけれど、紛れもなくはじめての経験だった。
「な、にして……」
「アラセリス。その男はキスをするときは、目を閉じるものだと教えなかったのか」
リーンハルトが顔を離す。下唇を親指で触れられて、アラセリスの体温がどっと上昇した。
(心臓が痛い……ドキドキが激しい)
これは予期せぬ驚きからか、それとも心の底では喜んでいるからか。
どちらにせよキスをされて嫌悪感がなかったことが一番悔しくて、なんだか無性に腹が立つ。
「いませんって、言ってるでしょう! 変な勘違いはやめてください! 茶葉も、お世話になったパン屋のご夫婦にあげるだけですし、職場の人たちともなにもありません」
いつも都合よくパン屋の夫婦の名前を借りて申し訳なくなるが、ここで本物のマリアンネと義兄と飲む用だとは口が裂けても言えない。それに不倫という不名誉な疑いだけは確実に晴らしたい。
「こんなところで急にき、キス……とか、なにを考えてるんですか? あなたはご自身の立場を忘れているわけではないですよね? いくら人通りがない場所だからって、こんなこと……っ」
感情の昂ぶりを感じる。じわりと瞳が潤みだした。
まさかはじめてのキスを、元夫とするとは思ってもいなかった。マリアンネのときは一度だけ頬と額の接触はあっても、唇にはなかったのだ。
「私のこと、からかったり弄ぶのはやめてください。私にだって心があるんです」
意地でも泣くものか。涙を見せた方が負けである。
(惨めな気持ちになってきたわ……それになにより、私は自分の心がもうわからない)
一瞬でもうれしいと感じてしまった。恋の種はずっと芽吹いていたのに、ずっと気づかないふりをしていただけなのだと気づかされたようだ。
唇をきゅっと噛みしめて、視線を足元に向けた。
「……衝動的に手を出したことは認める。だが、からかうつもりも弄んだつもりもないから謝らない」
(……はい?)
なにを言っているの? と、アラセリスは俯いていた視線を上げた。
いつの間にか完全に日が暮れて、外灯が橙色に光っている。その光に照らされたリーンハルトの顔に冗談めいた色は浮かんでいなかった。
「謝らないって、おかしいでしょう。乙女の唇を奪ったんですよ? 私、はじめてだったのに、こんなロマンティックな場所でもない帰り道の橋の上でなんて酷いです!」
「そうか、奇遇だな。俺もはじめてだ」
「……はあ? 結婚していてそんな嘘を信じるはずがないでしょう?」
結婚前からリーンハルトはとてもよくモテていたと聞いている。とはいえ、女性と数々の浮名を流したという噂はなかったそうだが、それでもキスが未経験だとは思えない。
「俺はマリアンネとも触れたことがなければ、マリアンネ以外に心を奪われたこともなかった」
「……っ」
(今、なにか踏み込んだ気がする)
やはり本能的に同一人物だとわかっていた? 心臓がドクンと音を立てる。
「それなら私が好きでもないのにキスをしたということになりますよ。今謝罪をしてくれたら犬にでも舐められたと思って水に流してあげますが?」
「犬……」
リーンハルトの眉が反応した。犬と同列に扱われたことなどはじめてだったのだろう。
「嫌だったか?」
「え……?」
「俺にキスをされて本当に嫌だったのか」
真っ直ぐ目を見つめられた。アラセリスの思考が停止する。
なんて質問をするのだろう。常識的に考えれば、たとえ嫌でも王族相手に本音が言えるはずがない。
だからと言って、よかったなんて言いたくはない。
「簡単な二択だ。答えろ、アラセリス」
嫌か、嫌じゃないか。
どちらかを選ぶだけだというのに、アラセリスはなんて答えるのが正解なのかわからなくなっていた。




