19.
アラセリスは迷っていた。このまま郵便局に居続けることが正しい選択なのだろうか。もしくは他の街へ移るべきではないかと。
(あの方がいつまでもトレンメルにいるとは思えないけれど、今追っている案件が終わったら王都へ戻るはず。それまで待つべきか、その前に行方をくらますべきか……)
マリアンネの墓が暴かれたことが予想外すぎた。亡骸が行方不明だということが、リーンハルトの夫としての義務感と罪悪感、そしてマリアンネに対する執着を煽っているように感じた。その結果、いくつかの共通点があるというだけで、彼はアラセリスを疑っている。
考えれば考えるほどため息しか零れず、最善の策が思い浮かばない。
かろうじて常識は残っているようだが、いつしか荒唐無稽な仮説を信じ込むかもしれない。そしてそんな思い込みが合っているのだ。一体どうしたらいい。
「ダメ。絶対ダメよ。私は認めるわけにはいかない」
彼が信じている説が真実だとしても認めてはいけない。うなじのほくろを指摘されたときはヒヤッとしたが、他にも身体的な特徴があるかもしれない。
近くに居るほど危険である。リーンハルトの野性的な直感がさらにアラセリスを追い詰めそうで、じわじわと真綿で首を絞められている心地になってきた。
そして絶対にないとは思いたいが、万が一リーンハルトがアラセリスをマリアンネの代わりにしたいとでも言い出したら……困ったどころではないだろう。
「成人男性から逃げるなら急所を一撃しろって、お義兄様から言われているけれど、股間を蹴り上げて使い物にならなくなったなんて言われたら責任を問われるかも……ああ、どうしよう……!」
寝台に突っ伏す。枕を抱き寄せて、アラセリスは唸り声を上げた。
自分の人生なのに、なにを選択したらいいのかがわからない。誰か道しるべを描いていてほしいなどと思ってしまう。
「お義兄様に頼んで……ううん、頼るのはダメ。そうならない前に私が帰国するべきだわ」
私物のポシェットにしまっていた鍵を取り出した。なくさないように革の紐に通していたが、最近になって金属の鎖に変えた。
アンティーク調の鍵は一見おしゃれなペンダントに見える。革ひもよりも丈夫で解ける心配はない。
今後はいつ使うかわからないため、首にかけておくことにした。とはいえ竜の国に繋がる扉は限定的なので、いつでも帰国できるわけではないが。
「マリアンネ様は私に話し相手になってほしいそうだけど、お義兄様が面白くないようだから、まだ帰らない方がいい……でも、お城に戻らなければいいだけかも」
扉が現れる条件と場所を把握しておいた方がよさそうだ。アラセリスはポシェットに手を突っ込んで、手帳を取り出した。
つるりとした手触りの手帳は義兄から贈られたものである。竜の鱗を使用した一品で、値段はつけられないほど高価だそうだ。
(お義兄様は認めなかったけれど、これって絶対、お義兄様の鱗から作ったものよね)
月光色に輝く美しい手帳だ。月の光にあてると、まるで金粉が舞うように輝きを増す。
そのような色の鱗を持つ竜は竜王しかいないし、そもそも竜族の中でも完全な竜に変化できる者は限られている。美しい鱗を持ち、力のある竜が王となるらしい。
ただの人の子であるアラセリスが竜王の寵愛を受けていることを面白くないと思う者たちもいる。人前では決して使わないようにしていた手帳はアラセリスの宝物のひとつだ。
「扉の入り口、鍵穴の出現は……あった。満月の晩、深夜0時を超えた時間帯……」
鍵穴はいくつかの条件が重なった場所に現れる。湖に映る月、妖精が住まう森の大木の幹、一角獣の蹄の跡、ネモフィラの花畑など、探すのが困難な場所が多い。花畑は見つかりやすいが、残念ながらネモフィラの時季を過ぎている。
「うっかり人間が迷い込まないようにってことだけど、ちょっと厳しすぎる……湖なんて溺れたら怖いから却下。私でも問題なく開けそうな扉があったはずだけど、どれだっけ?」
頁をめくる。
夜露に濡れた薔薇のアーチは、王城にいたときは可能だっただろう。ちょうど条件にぴったりな薔薇の庭園があったのだ。
「あ、夏至の夜がよさそう」
夏至とは一年で最も昼が長い日であり、夏のはじまりとされている。竜の国では夏至は十四日間の期間を指す。その間、太陽が沈み夜を迎える黄昏時に扉の鍵穴が出現すると書かれていた。
「昼と夜の間、ふたつの世界の境界が薄れるときに、月の光を溜め込んだ鏡に鍵穴が出現……うん、これがいいわ」
寮の部屋には姿見がある。アラセリスは窓辺に鏡を移動させて、月の光が当たるように角度を整えた。
(満月とは書かれていないから、普通の月でも大丈夫かしら。二日後が満月だから、そこでたっぷり浴びさせたらいいのかも?)
曇り空だったら無意味なので、ぜひとも晴れていてほしい。
六月の最終週から二週間。その期間に、アラセリスは国へ戻ることにする。
(殿下には、また逃げるのかって思われそうだけど、それでもいい。私のことを忘れてくれるなら)
彼は少しずつ元気を取り戻しているように見えた。それならもう、アラセリスが遠くから見守る必要もない。
「トレンメルのお土産でも買っておこう。お義兄様と、マリアンネ様と……城のみんなにも」
けれど自分の居場所はあるのだろうか。城でひとりぼっちになるなら、その次の未来も考えておいた方がいい。
一体どこなら平和に生きられるだろう。自分はどうやって生きたいのだろう。
「次は……誰も私を知らない国にしよう」
マリアンネの母国のカロンとリーンハルトがいるザカルディアから遠く離れた南の島がいい。できれば言語が通じるところがいいが、平和に暮らせるならどこでも構わない。
(そうしたらまた、私はひとりぼっちからはじめるんだわ)
パン屋の家族やレベッカを思い出す。彼らとももう会わないことを考えると、決心が揺らぎそうになる。手紙を送りたいと言われたらなんて断ったらいいのだろうか。
「嘘の住所を言うのは……気が進まないかも」
別れを苦しまなくて済むように人と距離を取ろうと思っていたのに、いつの間にか距離感を誤っていたらしい。
誰からも嫌われず、疎まれず、妬まれないように生きたい。小さな幸せを見つけて心の灯を感じながら生きられたらいいけれど、それすら今のアラセリスには少し難しい。
いつか心の奥に芽生えた寂しさは消えてくれるだろうか。一度存在を見つけてしまったが最後、そのような感情はなにかでごまかすことしかできない。
「私にも、番がいたらいいのに」
魂の伴侶であり、唯一無二の存在。全身全霊で愛する人と巡り合えたら、どれだけ幸せな気持ちになれるのだろうか。
番に出会えなかった竜族は一生飢餓感に苛まれながら生きていく。その苦しみを想像すると、番がわからない方が幸せなのかもしれない。
生きることのままならなさを感じながら、アラセリスは目を閉じる。
夢の中で番として現れたのは見慣れた顔の男だった。恋人のように手を繋ぎ、街を散策して美しい夕日を眺めている。
名前を呼ばれて目を閉じて、唇に温度を感じる寸前でアラセリスは飛び起きた。
「ち……がうから!」
バクバクと激しく心臓が鼓動している。これは決して胸の高鳴りではない。
唇に感じた吐息は妙に生々しかったが、あれも夢が作り上げた幻想、いや妄想である。
(なんで、リーンハルト様と手を……キス未遂まで……うわあぁ!)
全身汗をかいていた。いつもの起床時間よりも早く目が覚めてしまい、アラセリスは仕方なく浴室で汗を流すことにした。




